春の嵐:スピカ

 それは、決まって朝の九時にやってくる。

 週に二度、朝の九時になると女性スタッフがにわかに落ち着きを失い、常連の女性客が店の出入り口を気にし始める。壁の時計を確認せずとも、ああ九時になったんだな、とおれは思う。
 おれの働くブックカフェには、朝の九時を過ぎるとふたりの男がやってくる。水曜と金曜の週に二度だ。彼らはおそらく双子なのだが、揃って店に入ってきたことは一度もない。四月の半ばに初めて姿を見せてから、きょうまでの約一か月間、一度たりともだ。
 カフェは東都大学の最寄り駅にある。当然、利用客には学生が多い。年頃から見て、双子も東都大の学生だろう。三月までは見かけたことがなかったので、今年の入学生であろうと踏んでいる。週に二度、一時間目のない曜日だけ、彼らはコーヒー、またはココア、またはホットチョコレート、そして甘いフードを楽しんだ後、二時間目の講義に間に合うよう、店を出ていく。
 彼らは特別な存在だ。普段、客の顔をほとんど覚えないおれが、彼らのことだけは一目見て覚えてしまった。あまりにも品よく整い、またそれぞれに独特の雰囲気を醸していたからだ。勤めて二年、あんなにも人目をひく人間を見たのは、初めてのことだった。双子のひとりは男の目から見てもりんとして美しく、もうひとりはどこか少年のようでありながら青年の凛々しさを併せ持っている。同じ顔をしているのに、与える印象がまるで違うのはおもしろいことだ。彼らの整った面立ちをどこかで見たような気もするのだが、わからない。整っているので芸能人かだれかと間違えているのかもしれなかった。
 その日も、彼らはいつものように店に入ってきた。九時を五分ほど過ぎた頃に、まずひとり目がやってくる。りんとして美しく、近寄りがたい雰囲気を持った男だ。襟のあるジャケットを羽織っていることが多く、毎回アイスコーヒーを注文する。ドリンクを受け取る時、低くなめらかな声で「ありがとうございます」と礼儀正しく言い、美しくかすかにほほ笑む。光をたたえた青い瞳が驚くほどまっすぐにこちらを見ているので、おれはいつも、どきっとする。それは、単純なトキメキなどというものとは違う。心臓のりんかくを冷たく鋭いもので撫でられたような感覚だ。
 ごく平凡な一般市民であるおれは決して悪人ではないつもりだし、法の裁きを待つべき身分でもないのだが、やはりごく平凡な一般市民である以上、人生に染みひとつない、というわけでもない。子どもの頃、食べちゃダメと言われた客用のちょっといいお菓子をひとつくらいならとつまみ食いしたことは何度もあるし、学生時代に夜更かしして寝坊した朝に「体調が悪くて」と学校に連絡したことがないと言ったら嘘になる。自販機から十円多く出てきた釣銭を、少しだけ迷って財布に入れたことも。
 彼の光る青い瞳に見つめられると、ふいに、そんな過去の染みが眼の裏に浮かんでくるのだった。
 ふたり目が現れるのは、ひとり目がコーヒーを手にカウンターを離れ、窓際の席に腰を下ろしてすぐだ。他の客に紛れてやってきて、いつのまにか、レジの前でショウケースの中を覗き込んでいることが多い。ひとり目に比べるとラフな格好をしていて、雰囲気はやわらかく明るい。きょうは、オーバーサイズのパーカーを着ている。
 おれの仕事は主にドリンクを作り、客に提供することなのだが、この日はたまたまレジに人がおらず、おれが彼の注文を受けることになった。きょうはココアか、ホットチョコレートか、それとも甘いクリームの乗ったフラペチーノ、それもクリームやチョコソースを追加したものか。彼は甘いものが好きらしいのだ。ひとり目はコーヒー、それも知る限りブラックしか口にしないので、正反対である。男は、ホットココアを注文した後、ショウケースに目をやった。彼はひとり目と違い、ドリンクの他によく甘いフードを注文するのだ。たとえばグレーズのたっぷりかかったドーナツやチョコレートプリン、チョコチップの入ったスコーン。
「……あの、ガトーショコラはいかがですか。新商品なんです」
 声をかけたのは、初めてのことだった。
「へえ」
 男はショウケースから顔を上げ、おれを見た。彼の瞳は、青紫をしている。ひとり目と比べるとミステリアスな色合いで、それはおれの心臓のりんかくを撫でることはない。代わりに、ひきこまれるような思いがした。
「チョコレートがお好きなようだったので」
「あれ、もしかして、顔覚えられてるかな」
 男に驚いたようすはなかった。おれは少し考えて頷く。頷きながら、ちらとひとり目の男に視線をやった。彼はこちらに背を向け、窓の外の通りを見ながらコーヒーを飲んでいるようだった。
「ああ、それも知ってるんですね」
 視線を戻すと、男はおれがなにを……だれを見ていたのかに気がついていた。店に入ってきてから、彼はずっと手もとのスマートフォンかショウケースを見ていたはずなのに、おれの視線の先にだれがいるのかを、把握しているのだ。
「……すみません、悪気は。ただ、その……おふたりとも、目立つので。双子、ですよね? 続けて来店されるとどうしても覚えてしまって」
「ああ、気にしないでください。別に隠してたわけじゃないし」
 男は軽く手を振った。
「あいつとも、話しました?」
 おれは首を振った。それはしてはいけないことだと、なんとなくわかっていた。
「そうですか」
 彼は頷いた。
「ガトーショコラでしたっけ。きょうはそれにしようかな」
 会話はそこで、唐突に終わった。男はもう、おれを見ていなかった。
「……はい。ありがとうございます」
 ふたり目の男は、ひとり目の男と比べるとやわらかく明るい雰囲気を持っていて、話しかけやすい。おれはずっとそう思っていて、それは間違いではなかったのだと思う。けれど、それだけだった。話しかけやすいことや親しみやすいことは、無防備であることと同じではないのだ。双子かという問いに返事はなく、青紫をした宝石のような瞳は、おれの心臓に触れなかった。
 うすくやわらかく透明な一枚の壁を、彼は持っている。
 ココアとガトーショコラを受け取ると、ふたり目の男は客に紛れて店の奥へ消えた。いつものように。
 彼は、ひとり目の男から離れた席に腰を下ろした。書架をあいだに挟み、直接は姿の見えないような席だ。それでいて、ひとり目の男が店を出ようとすれば、すぐにわかるだろう場所。
 初めは、けんかでもしているのだろうかと思った。しかし、彼らが隣り合って座ることは一度もなく、声をかけあうこともなかった。それどころか、ふたり目の男は、ひとり目の男に気づかれないようにしている節があった。だから、おれはひとり目の男に話しかけてはいけないと思ったのだ。ひとり目の男は、ふたり目の男の存在にまるで気がついていないのだから。

「一昨日、水曜の朝のことを伺いたいのですが」
 金曜の朝、九時を五分ほど過ぎていた。ふたり目の男にガトーショコラをすすめてから、二日が経っていた。
 ひとり目の男は、ふたり目の男に気がついていない。その見立てが間違っていたことを、おれをまっすぐに見る美しい青い瞳が教えてくれていた。
 その日、トールサイズのアイスコーヒーを受け取ったひとり目の男は、いつも通りに「ありがとうございます」と言った後、前置きもなくそう言った。おれは慌ててしまい、胸がどきっと大きくきしむ音を聞いた。後ろめたいことなどひとつもないのに、心臓が痛い。
「オレとよく似た男と話をされていましたよね。彼がなにを話したのか、教えていただけますか」
 男はなめらかに話した。ためらいのない強い問いかけは、問い質すことに慣れているのだろうと思わせた。口もとにはうすいほほ笑みを浮かべているのだが、まなざしには鋭さがある。
 二日前、おれがふたり目の男と話している時、彼は窓際の席でこちらに背を向けていたはずだった。なのになぜ、こんな質問を。わからない。思えばふたり目の男もそうだった。ショウケースを見ていたはずなのに、ひとり目の男がどの席に座っているのかを、いつのまにか把握していた。いったいなんなんだ。
 おれはほとんど思考を停止して、口を開いた。
「新商品を、」
「新商品?」
「はい、ご注文に悩まれていたので、そちらの……ショウケースに並んでいるガトーショコラをおすすめしました。チョコレートがお好みのようでしたので……」
「ふうん」
 男は片眉を上げ、ショウケースに目をやる。おれは、自分の返事が彼の質問の答えになっていないことを理解していた。彼は、ひとり目の男がなにを話したのか教えてくれと言ったのだ。おれがなにを言ったのかなんて、きっとどうだっていいだろう。まして、ガトーショコラをすすめたことなんて。
「他は?」
「ほかは、……なにも、」
 視線があからさまに泳いだ。男の顔には、おれの答えにまるで満足していないと書いてあった。じとりと目を細め、ショウケースを睨んでいる。
「……チョコが好きだと?」
「は……、多分、……チョコレートの入ったフードをよく注文されるので……」
「たとえば?」
「ええと、チョコチップスコーンやチョコレートプリン、ドーナツとかですね……。フラペチーノですと、チョコレートソースの他にホイップクリームを追加されることがあるので、チョコに限らず甘いものがお好きなのかもしれません……」
 答えるうちに、男の表情はどんどん険しくなっていった。おれが口を噤むと、ぎゅっと眉間にしわを寄せて、鼻を鳴らす。
「クソ、……なんでオレが、こんなこと聞かなきゃなんねーんだ……」
「はあ、すみません……」
 口の悪さに面食らいながら、反射的に謝ったが、苛立ちがおれに向けられたものでないことは明白だ。彼はコーヒーを片手に、不機嫌なまなざしで店の入り口を見やる。そろそろふたり目の男がやってきてもいい頃合だが、きょうに限って姿を現さない。けれど、おれたちのようすをどこからか窺っているのだろうと、確信を持って言えるのが不思議だった。そして、目の前の男もまた、それをわかっているに違いないのだった。
「仕事の邪魔してすみませんでした。失礼します」
 男は仏頂面のまま、カウンターを離れていった。おれは、その背に向かって「がんばってください」と声をかけたくてたまらない気持ちになっていた。美しく冷たく、近寄りがたく思われた男に、奇妙に親近感がわいている。ふたり目の男とは、まるで正反対に。
 その金曜日は、結局ふたり目の男が店に現れることはなかった。
 翌週の水曜日になっても、彼は現れなかった。それどころか、ひとり目の男も姿を現さなかった。初めてのことだった。その週の金曜も、そのまた翌週になっても、彼らはこのカフェのことを忘れてしまったみたいに、現れなかった。
 おれと話したことで、決定的に仲違いをし、なにかトラブルが起きたのではないか。水曜と金曜になるたび、そんな思いがふと過った。しかし、なにもできない。おれは彼らが立ち寄るブックカフェの一スタッフで、ここから動くことはできない。おれは、そして彼らの来店をそわそわと待つ女性スタッフや常連客は、彼らの世界の外側に立ち尽くしている。



 そろそろだろうと思っていた。
 退屈な日常に春の嵐を呼んだのは、快斗自身だ。
 水曜と金曜、一時間目の講義のない朝に、工藤新一がブックカフェを飛ばして大学の門をくぐるのは、入学以来初めてのことだった。先週の水曜、快斗にガトーショコラをすすめてきた店員に彼が話しかけているのを見たのは、同じ週の金曜のことだ。眉間にしわを寄せ、不機嫌にショウケースをにらむ名探偵を、快斗は非常に愉快な気持ちで眺めていた。もちろん、彼らからは死角となる店の外から。
 ああ、そろそろだ、と思った。工藤新一は、決して気の長い方ではない。それが、大学に入学してから約ひと月ものあいだ、週に二度も尾行を許しておきながらアクションを起こさなかった。しかし、そろそろ我慢の限界であろう。彼が尾行に気づいていないはずはない。放置しているのは、尾行している者の正体をも、見抜いているからだ。それは快斗の矜持でもあった。あの男が自分の気配に気づかぬはずがないのだ。
 わくわくして、たまらなかった。大学入試を平凡な成績でやり過ごし、入学してからも努めて目立たぬよう猫を被ってきたかいがあったというものだ。学内のネットワークに侵入して彼の履修する講義と時間割を入手し、空き時間を合わせたかいも。
 快斗は、ずうっと退屈だったのだ。一年と少し前、工藤新一が元の姿を取り戻し、それから少し遅れて怪盗キッドが目的を果たし、怪盗と探偵の物語が終わりを告げてからずっと。怪盗を引退することにわずかなためらいを感じた時、快斗はそれが探偵への興味と執着からくるものだということにすぐに気がついてしまった。最も出会いたくない恋人、といつか自身が口にした言葉は、あれから少しも色褪せていない。
 だからいま、快斗は最高に楽しい。
 工藤新一に胸ぐらを掴まれて、鼻先の触れそうなほど詰め寄られている今、この瞬間。
 駅からまっすぐに大学へ向かう工藤のうしろを何食わぬ顔で歩きながら、快斗はこうなることを予想、……いや、期待していたのだ。まっすぐに伸びた美しい背中に触れたくて、けれどそれは決してしてはいけないことだと自分を戒めながら歩いた。こちらから手を伸ばしてしまえば、ひと月のあいだに積み重ねたものが、すべて無駄になってしまう。
 工藤のあとをついて建物の中に入ると、九時過ぎ、一時間目の講義が始まったばかりの構内は、しんと静かだった。彼の姿が消えたのは、空き教室の並ぶ廊下の角を曲がった時だ。あるはずの背中がふいに消えてしまい、しかし快斗は構わずに進んだ。そして細く隙間のあいたドアの前を通りかかった時、中から伸びてきた手に腕をとられ、無人の教室に引きずり込まれたのだ。
 胸ぐらを掴まれ、だん、と音の響くほど勢いよく壁に背を押しつけられた瞬間、快斗は笑っていた、と思う。
「……どういうつもりだ」
 怒気を孕む声音は耳に心地よかった。青い瞳に射抜かれるのは、実に一年ぶりのことだ。快斗はじっとその輝きを見つめ返した。人の胸にまっすぐ諸刃を刺し込むような、無遠慮なまなざし。胸が痛み、高鳴る。
「オメー、キッドだな」
 探偵は、検分するように快斗の顔を眺め回した後で唸るように言った。
「さすが、名探偵。わかる?」
 快斗は喜びを隠さず、笑みを返した。口角が上がるのを抑えきれなかった。工藤の目つきはますます鋭くなり、へらへら笑いやがって、と悪態をつく。それすら懐かしく、楽しかった。
「わからねえと思ったのか、このオレが」
「オメーを侮ったりしねえよ、名探偵」
 とたん、工藤の険しい目つきが和らいだ。瞳が揺れ、ぐっと言葉に詰まって下くちびるを噛む。快斗は、強い衝動がこみ上げるのを感じた。彼の強い自尊心が好きだ。わかりやすく伝えさえすれば、好意に素直で弱いところも。――それを、快斗に許しているところも。
「……この一か月、周りをうろちょろしやがって。なんの用だ。こっちは、犯罪者としての立場を弁えて目立たず慎ましく生きていこうってんなら、見逃してやろうと思ってたんだ、それを……」
 シャツを掴む手に力がこもり、震える。それから、ゆっくりと指がほどけていった。工藤は突き放すように快斗のシャツから手を離すと、一歩退く。そして顔を背けた。
 美しい横顔に、複雑な感情がにじんでいる。無人の教室に降りた沈黙が燻るもののかたちをひどく鮮明に浮かび上がらせるようで、快斗はしばし言葉を紡ぐことをためらう。ひと月のあいだに工藤の中に積み重なったものに、いますぐに触れたい。けれど同時に、まだ少しのあいだ触れず、離れたところから見ていたいとも思うのだ。まるで、パンドラの箱を前にしているみたいに。
 これが大怪盗としての仕事だったならば、きっと快斗は自制しただろう。でも、もう違うのだ。怪盗と探偵の物語は、一年も前に終わってしまった。だからこそ、快斗はここにいる。ここにいようと決めたのだ。
「オレが同じ大学にいるって、気づいてた?」
「たりめーだろ……、入学式で、オレを見てたじゃねえか。気配がダダ漏れで呆れたぜ」
 四月、東都大学の入学式で新入生総代を務めた工藤を、快斗は確かに見つめていた。彼が自分の存在に気づくだろうことを、確信しながら。
 それでも、快斗は平凡であるふりをし、目立たぬよう猫をかぶらねばならなかった。そうして、彼の周りを思わせぶりにうろつかねばならなかった。
 理由は簡単だ。なんの用だと言いながら、工藤はすでにその答えを口にしている。
「……なんの用だ」
 工藤はいまひとたび、快斗に問う。
「オレに捕まりてえってんなら、いますぐ、」
「逆だよ、工藤」
「……なに」
 快斗は首を傾け、笑ってみせる。工藤が戸惑いを浮かべて快斗を見つめ返した。
「オレが、オメーをつかまえたんだ」
 工藤が訝しんだのは、しかし一瞬だった。目を見開く。快斗は嬉しくて、楽しくて、仕方なかった。
「こうでもしなきゃ、オメーはオレと接点を持とうとはしなかっただろ」
 工藤は返事をしなかった。快斗はそれを肯定と取る。だてに好敵手をやっていたわけではないのだ。
「あんなに正体暴いてやるって息巻いてたのに、引退してからこっち、工藤の気配を感じたことは一度もなかった。そりゃあそうだよな。元に戻ってあんなに監視がついた状態でキッドの正体をかぎまわれば、遅かれ早かれ日本警察もインターポールもみんな、オレにたどり着いちまう。もちろん、簡単に捕まるつもりはねえよ。まあでも、オレはもう現役じゃねえし、こいつは何度も命を助けてやったオレに対する名探偵なりの感謝の気持ちかな、なんて思ったんだ、最初はな」
「……オレだって、オメーを助けてやったろうが……シンガポールのこと忘れたのかよ」
 そっぽを向いてそう言う工藤の声はとても小さくて、快斗は笑ってしまった。彼なりに、月下の奇術師を便利に使っていた自覚はあるらしい。
「まあいいや。でもさ、オレのその考えは間違っちゃいねえが、百点満点でもない。そうだろ、名探偵」
「……」
 今度こそ、工藤は黙ったまま答えなかった。
 快斗は笑みを深くし、工藤を見据える。
「独占欲だ。なあ、そうだろう、名探偵? 取り逃がしたとはいえ、自分の獲物だったものを、だれにも奪われたくなかったんだ。たとえオレという謎の中身を、諦めてでも」
 そして、工藤は怪盗キッドの中身が全き善であることをも、知っていただろう。彼の鋭く冷たい諸刃は、怪盗の心臓の形を知っている。この世でたったひとりだけ。快斗はその事実に思いを馳せるたび、胸の詰まるような思いをするのだ。
「……取り逃がしたわけじゃねえ、見逃してやってんだ」
「いいぜ、そういうことにしといてやっても」
 快斗は喉の奥で笑って、肩をすくめてみせた。
「つーか、否定するとこ、そこなのな」
 探偵にとって、好敵手へ向ける独占欲は否定すべきものではないのだ。それがどんなに快斗を喜ばせているか、きっと知らないのだろうけれど。
「名探偵、オメーは形のはっきりしねえものが好きだ。謎の隠されたものが好きだ。押してだめなら、引いてみろ、さ。オメーは頑固者だからな」
 公明正大に中身を明かして近づいても、押しに弱い工藤新一は元大怪盗であるところの黒羽快斗を受け入れたかもしれない。悪態をつきながらもほだされ、やがて拒絶しきれずにそばにおいたかもしれない。いや、どんな手段で近づこうとも、きっと最後にはそうして快斗が押し切っていくことになるのかもしれない。なにしろ頑固な男なのだ。
 でも、それでは、それだけでは、おもしろくないと思ってしまった。言い方を変えれば、オレたちらしくない、と。
 ほだされていくこの男を見たくなかったといえば、嘘になる。ああ言えばこう言う、口の減らない男のくちびるを情によってふさぎ、正論だけで人が生きていくのはとても苦しいことなのだと教えてやるのは、どんなにか楽しいだろう。もしも他人にその楽しみを奪われたらと考えると、いてもたってもいられない気分になる。しかし物事には順番があるのだ。
 工藤は、じっと快斗を見つめている。まんまと罠にかかり、おびき出されたことへの屈辱だとか、苛立ちだとか、自己嫌悪だとか……、そんなものが彼の中でせめぎあっているのが手に取るようにわかった。
 けれど、次に工藤の口から出てきた言葉は、快斗の予想から大きく外れていた。それも、ひどく。
「そこまでわかっていて、……リスクを承知でオレの気を引きたい理由はなんだ」
「……えっ」
 我ながら、間の抜けた声だったと思う。工藤はむっとした顔をした。ちょっと子どもっぽく、くちびるをとがらせて。ああ、かわいいな。快斗はうなり、かわいさを深く噛み締め、それからゆっくりと頷いてみせた。そうか、わかった、というふうに。
「なんだよ……、ちゃんとはっきり言えよ」
「うん、……わかった。そうか」
 快斗は笑いながら、工藤の手をとった。このだれもいない教室に、快斗を引きずり込んだ手だ。そうするように、快斗によって仕向けられた手。名探偵・工藤新一は、しかしその理由がわからないという。
「……なんで手を握る」
 怪訝そうに言う工藤の目もとは、うっすらと赤くなっていた。指先をつつむように握っても、彼はされるがまま、振りほどこうとはしないのだ。
「そうしたいから。工藤は、いや?」
「べつに、いやじゃねえけど……」
「だよな」
 そうだと思った、と続けながら一歩近づき、今度はその背にもう片方の手をそっとまわしてみる。工藤はぎょっとして背を反らし、身をよじったが、そのせいで快斗が少し腕に力をこめただけで簡単に、あっさりとその細い身体は快斗の腕の中に収まってしまった。
 薄手のシャツの下にある皮ふの温度が、触れたところすべてから伝わってくる。動揺と戸惑い、そして羞恥も。
「……なにやってんだ、これ」
 ほんの少しだけうつむいた頬、細い首筋、きれいな陰影をつくる鎖骨、その全部がほのかに血の色を透けさせている。からませた指先が逃げるようにほどけていくのを、快斗はなにも言わずに離してやる。代わりに腰を抱き寄せると、途方に暮れたような顔をして工藤が快斗の胸に手を触れる。これ以上、距離が縮まることを拒むように。身体も、そして心も。でも、それがもうほとんど役には立たないことを、彼自身わかっているに違いなかった。
「オレが、ずっとしたかったことだよ」
 すこうしだけ首をかたむけて、顔を覗き込む。ちら、と目が合って、睨まれる。でも、そこに力はないのだ。快斗は笑い、熱い頬にそっとしずかにくちびるをつける。胸の上で、工藤の指先がちいさく跳ねた。青い目がこぼれそうに見開かれる。
「……なにやってんだ……」
「ずっとしたかったこと、の続き」
 ほんとうはもっと、もっと続きがあるのだけれど、とは言わずにおく。いまは、まだ。
「……オレをからかうのが目的かよ。趣味悪ぃ」
「……うーん、まあ、いいや……。その話は、またゆっくりしようぜ」
 快斗は苦笑いして、両腕を広げて工藤の身体を解放してやる。すぐに逃げていくかと思ったのに、「話なんかねえ」とそっぽを向いて鼻を鳴らしてみせるのは、さすがというべきか。
 もう一度ぎゅうぎゅうに抱き締めてやろうか、今度は頬じゃなく口にキスしてやろうか、などと考える快斗をよそに、工藤がため息をつく。
「もう、ストーカーみたいな真似すんじゃねえぞ。おかげで、いらない情報まで得ちまったんだからな……」
「なに、いらない情報って」
「……チョコが好きだとか、なんとか」
「ああ、カフェで聞いたのか」
 工藤は、そうだ、と頷く。それはそれは、不満そうに。
「いいじゃん、別に」
「よくねえよ。……なんでオレが、見ず知らずの他人からそんなことを教えられなきゃならねえんだ」
「……」
 もう、顔を覆うしかなかった。その不満の出どころがなんなのか、その感情がさし示す未来がどんな形をしているのか、彼はまだ解き明かすことができないでいるのだ。
 ――胸が、躍る。
 一度は離した身体を、たまらずに再び抱き直す。きつく、けれど、やさしく。
 うわ、と工藤が声を上げるのを構わず、肩に頬を埋め、ゆっくりと細く、長く息を吐く。いつのまにか、目頭がじんと熱く痛んでいる。やがて、工藤が諦めたように身体の力を抜くのがわかった。
「……キッド、オメー人をからかうのもいい加減に、」
「オレさ、チョコアイスが好きなの」
「……覚えといてやる」
 ちょっと鷹揚な物言いがおかしくて、かわいくて、たまらなかった。
 それから、と、快斗はくぐもった声で続ける。
「オレ、黒羽快斗ってんだ。よろしくな」
 そっと顔を上げ、笑いかける。すると、ふいに工藤の指先が右のこめかみに触れたかと思うと、人差し指と親指が円を描いて右目にひたりと重なる。
「……それも、覚えといてやるよ」
 胸を荒らす、春の嵐の名前だ。

春の嵐 おわり