今にして思えば、あれが始まりだったのかもしれない。
はらがへった……
新一は思わず胃のあたりを押さえる。朝食をとっていないからこれは当然の結果だ。
さらに昨夜の夕食はマフィンとコーヒーだった。そこそこな個数は食べたものの白米に比べれば腹持ちは悪い。
昨日は目当ての新刊を買って帰宅した。未読のミステリーと食事とで新一が優先するのは、やはり本だ。ちょうどマフィンをもらった。それを夕食としてしまったのは当然の成り行きだろう。レトルトだってインスタント食品だってキッチンには常備しているが、つい時間と手間を惜しでしまった。
新刊は、夜のうちには読み切った。ただ伏線やトリックについて気になるところがあり二読目に入ったのは自分としてもどうなのだろうか。翌日も学校はあるというのに。
結果、目が覚めた時刻は急いで出かけても遅刻ギリギリの時間だった。
こういう時には、朝起こしてくれる幼なじみの存在がとてもありがたかったのだと思う。手を離したのは自分からだというのに。
新一はふうとため息をついた。
次からは食事も睡眠にも気をつけよう。
自業自得の行動を反省するが、だからといって空腹が紛れるわけではない。
今は二時間目と三時間目の間の休憩。午前十時三十分過ぎ。
昼休憩まではまだ遠い。学食にも購買にも行く時間はない。このままでは次の授業中に腹の音が室内に響くのではないだろうか。
自業自得。二回目の確認。
何もないことはわかっているが、それでもと鞄の中を探る。ノートや教科書の陰に隠れるように存在する薄茶色の紙袋。見覚えはない。
最初の休憩時間にも席から離れていないから、誰かがこっそり入れたのではない筈。
ではこれはいつからそこにあるのだろう?
鞄から紙袋を取り出してみる。重いわけではないが軽くもない。何か仕掛けがあるかもと封をされた部分をじっくりと検分していて、そこに小さく描かれたものに新一は気づいた。
四つ葉のクローバー。
クローバーで黒羽の姿が浮かぶ。安直すぎる連想なのかもしれないが、何しろ別の姿の時にも四つ葉のマークを身につけていたのだから当然といえば当然。
そして彼は、昨夜工藤邸にやってきた。マフィンを持って。
送り主は特定された。黒羽が来たときにはこの鞄はリビングに置いたままだったから機械はあっただろう。ひとこと言ってくれればよかったのだが、サプライズを好む黒羽らしいといえばらしい。
黒羽と新一が知り合いであることを知っている者は米花界隈にはいない筈。誰からかわかれば躊躇なく開けられる。
中身はやはり昨日もってきてくれたものと同じようなマフィン。ただしこちらは一口サイズ。
三時間目が始まるまであと五分。ありがたくいただくことにする。ぱくりぱくりと簡単に胃の中に消えていった。
飲み物が欲しいが贅沢は言わない。これで昼休憩までもちそうだ。
ひとごこちついたところでチャイムとともに教師が入ってきて授業が始まった。
たぶん今日はあてられることもないだろうとぼんやりと思考を巡らせる。
マフィンの送り主、黒羽快斗。
偶然に出会った同い年の男。いや必然だったのかもしれない。
新一が小学生から元の姿に戻ったのと同じ頃、怪盗も姿を消した。命を救われたことも何度かあったので礼を言わなければという願いはかなわなかったが、あいつの目的は達せられたのだろう。どこかの組織が自滅したようだと伝え聞いたので。
新一が関わるのは主に殺人事件。こそ泥との接点はほとんどない。このままコナンとしての記憶とともに甘くほのかに苦い思い出として記憶の底に沈むのだろうと考えていた。
『彼』と偶然すれ違うまでは。
その時、とっさに彼の腕を掴んでいた。
新一を見て驚きに見開かれた瞳。一瞬で感情は隠されたが新一は見逃さなかった。彼の唇が『め』と発音しかけて慌てて閉じたことも。
すかさず新一が『キッド』と音にせずつぶやいて見せると彼は腕から力を抜いた。
声にしなかったのは往来でキッドと呼びかけるのもどうかと思ったのと、彼はひとりではなかったからだ。それは自分にとっての幸運で、相手にとっての不運だったのかもしれない。
「どうしたの。快斗?」
ひょこりと彼の連れが振り向いた時驚きから手を離さなかった自分をほめたい。幼なじみにどこか似ている女の子。かいと、が彼の下の名前ならばかなり親しいのだろうか。
「え? もしかして工藤新一」
「はい、そうです」
今はともかく、以前はメディアにしっかり顔出ししていた。相手だけが自分を知っているのはよくあることだ。
「あ、ごめんなさい、工藤くん。わたし、中森青子といいます。江古田高校の三年生。二課の中森警部の娘です。コナンくんは工藤くんの親戚なんですよね? 何度かお世話になりました」
ぺこりと頭を下げる少女に、世間の狭さを実感する。
彼女とコナンの縁はまだしも。新一が腕を掴んだままの彼が『キッド』であるのならば、これはかなり奇妙で困惑する縁ではないだろうか。
「あ、はい。コナンから話は聞いています。こちらこそその節はコナンがお世話になりました」
「コナンくん、どうしてます? キッドはいなくなっちゃったから……」
「あいつは今親元に帰ってますよ。今度連絡があったら中森さんのことも伝えておきますね」
「ありがとう! ……快斗、大好きなキッドのライバルの話だからってふてくされなくてもいいでしょ」
「……ちげーし」
「かいと?」
「こいつは青子のお隣さんで、黒羽快斗といいます。キッドの熱心なファンなんだよね! 騒ぎを起こしてた泥棒のどこがいいんだか」
ひとごとながらわずかに同情の思いを抱く。彼は自分の正体を隠し通すことができたのか。コナンについて蘭に教えなかったように。
「それで、快斗が工藤くんに何かしました?」
掴んだままの新一の手を見て、青子が首をかしげる。彼女がいるのならば離しても大丈夫だろう。この場で逃げ出されても、中森警部経由で繋がりを持つこともできるだろう。あくまで最後の手段となるだろうが。
「いえ、先日調査しているときに少しアドバイスをもらいまして。名乗らずに行ってしまわれたので。お礼を言わなければと。不躾ですみません」
ふたりに向けて、新一は深く頭を下げた。別段、今更キッドを捕まえる気などわいてこない。ふたりの関係に影を落としたいわけでもない。
「内容については口にできなくて申し訳ないのですが。あの時はとても助かりました」
コナンの時には何度も助けてくれてありがとう、と内心で付け加えて。
「……そんなこと別によかったのに」
「もう、快斗ったら。せっかく工藤くんがそう言ってくれてるんだから」
ぺしりと青子に背中をはたかれて黒羽はむぅと顔をしかめる。
「馬鹿力ではたくんじゃねぇよ。だから彼氏のひとりもできねぇんだよ」
「余計なお世話ですー。快斗こそ、おバカでスケベなことばっかりやってるから、彼女なんて夢のまた夢のくせに」
「なんだとぉ!」
遠慮のない言い合いに、ふたりは仲のいい幼なじみなんだなあと感じる。自分と蘭もいつかまたこういう風に戻れるだろうか。
「もー、工藤くんにあきれられちゃってるじゃない! 快斗のせいだからね! ね、工藤くん!」
「ちげーし。おめーのせいだろ! なあ、工藤サン」
ふたりから同意を求められるが、そういう感情などない。
「違いますよ。むしろふたりとも仲がいいなってうらやましいです」
「えー?」
「はあ?」
不思議そうな表情を向けてくるのも二人そろってで、これが仲良しでなくてなんだというのか。
「あの、よかったらどこかでお茶でもどうですか? 黒羽くんへのお礼として、青子さんもよろしかったらご一緒に」
「え、いいの? ありがとう!」
黒羽よりも先に青子が反応した。『将を射んと欲すればまず馬を射よ』ということわざが思い浮かぶが、多分黒羽もそうなのだろう。しかたない奴といった感じで中森さんを見ている。
そうして新一は、それぞれが別の姿の時のライバルと再会してなし崩しに知り合うこととなった。
きのう帰宅した時に、門柱のところに彼の姿を見かけて驚いた。手持ち無沙汰な様子で待っている様子に。
彼の元々のスキルを持ってすれば玄関ポーチのところにでもなんなら家の中でだって待つことはできるはず。黒羽快斗としてはそうしないだろうが。
「……黒羽?」
「よお」
「どうした?」
「ちょっとお裾分けにきた」
何度か会って話をして、すっかり気安く話すようになった。新一がキッドをどうこうするつもりがないのを理解し受け入れたのか。
「お裾分け? サンキュ。コーヒーくらいしか出せねぇけど、上がっていけよ」
「おう」
躊躇などなく黒羽はついてきてリビングのソファにおさまった。コーヒーを淹れてリビングに戻ると、新一はなんだか不思議な感慨を覚える。
キッドが自宅のソファに座っている。彼はそんな雰囲気は出していないから、別の人格ではあるのだろうけど。新一としてはキッドとして出会ったのが先だから、完全に切り離して考えることは難しいのかもしれない。ましてやライバルという以上に命の恩人でもある。
「工藤?」
「なんでもねぇ。あ、砂糖もいるんだっけ」
「ミルクも」
トレイの上を見てのことだろう。新一はおおむねブラックで飲むから、つい自分基準でコーヒーだけもってきてしまった。
「甘いのが好みなんだなあ」
キッドが、とは心の中で付け加える。けれどそれは簡単に読み取られたらしい。
「糖分はアタマに必要なんで」
「へーへー」
急いで両方を持ってくると、黒羽はテーブルの上に茶色の紙袋を置いていた。
「これ、お裾分け」
なんの飾りもない薄茶色の袋はそこそこな大きさがある。
「ありがと。なんだ?」
「マフィン」
「……もしや黒羽の手作り……?」
「文句あんなら」
ひっこめようとするのを新一は素早く遮る。もし黒羽が本気でそうするつもりならば新一のスピードではかなわないだろうから、あまり本気で言ってはいなかったのだろう。
「いただきます! 手作りケーキ久しぶりだぜ」
「ん? 幼なじみ、いや彼女になったんだっけ? 青子と違って料理上手だろ?」
前に会った時の雑談で、中森さんのぽろぽろハンバーグについて得々と語った黒羽は、ぺちぺちと彼女から容赦なくはたかれていた。
「あー、まあ、ちょっとあったんだ。おめーだから言うけど、コナンのことがどうしても言えなくってな……」
全部言わずとも察した黒羽はしょうがねぇなあという視線を向けてくる。自分だって似たようなもんだろうがと思ったが、彼と中森さんは変わらない関係をキープしていそうだ。
「これ、今食っていいか?」
話を変えようと袋から一つ取り出す。ラップでくるまれただけではあるが、おいしそうな焼き色がついている。
「どうぞ。食って俺の多彩さを思い知れ」
不遜とも言える物言いではあるが、何しろ彼は月下の奇術師として警察を翻弄し、いろんな人間に変装して不審を感じさせない男だった。菓子のひとつやふたつ焼けるだろう。
がぶり、とかじりつく。レモンのさわやかな風味が口に広がる。少し甘くはあるがこれなら食事としてもいけそうだ。食べ終わってすぐにもうひとつと手が伸びる。
「え?」
不思議そうな声が耳に届く。黒羽を見ればなんだか呆然とした顔になっている。
「黒羽?」
「工藤、甘いもの好きだったか?」
「嫌いじゃねぇよ。甘ったるいのをいくつもは難しいがな。これ、あっさりしてるし。何個でもいけそうだ」
「口にあったのならよかったぜ」
十個単位でもってきた当人にしては食べきれないかもと心配していそうだ。
「冷蔵庫にいれときゃ数日はいけるし、なんなら冷凍しときゃもっと持つ」
「黒羽、料理のことも詳しいんだ」
「ほぼ一人暮らしだからな。いや、そういう工藤だってひとりじゃん」
「あー……中学の頃からだけど、蘭もいたし、隣の博士と適当に……」
「だから工藤はそんな細っこいのか」
「細いって、標準だろうが」
「んなわけあるか。ほら、これみろよ」
すい、とおもむろに手首をとられる。黒羽の親指と中指でつくられた輪の中で新一の手首が泳いでいる。マジシャン志望の黒羽の指は標準よりも長いにしても。
「……まだ成長期だからな」
そう言ってみるが、多分悔し紛れにしかとられてないだろう。
「もうちょい食事について考えねぇとなあ。探偵だって体力勝負だろうが」
ごもっともである。
「黒羽んちが近くだったらなあ……」
「もしかしてそれ、俺に料理しろと」
「ちょっと考えただけじゃねぇか」
「自分で覚えな」
言葉とともに手首にまわった指は離れていった。
そうして新一は、いまさらながらに黒羽に対して何の危機感ももってない自分に気づいた。
彼が持参したものを躊躇なく口にし、手をとられても焦りも感じない。
黒羽が自分を害さない存在だと無意識に覚え込んでいるのか。
元々は敵対する相手だった筈だ。
これは一体どういうことなのだろうか。
「……どう、工藤?」
「あ、え、なんだ」
呼びかける声にようやく気づく。
「どうした?」
「黒羽に作ってもらいてぇもん考えてた」
「だから、料理覚えろよ」
多分隠せた筈だ。自分が何について考えていたのかを。
「交通費出す」
「この金持ちおぼっちゃんめ」
「小遣いの範囲内でだ」
「どんだけ?」
「電車賃と材料費の実費」
「アルバイトにもなりゃしねぇじゃねぇか」
わがまま野郎という評価をくれて、黒羽は自宅に帰っていった。
これが多分、自分の気持ちについて考えるきっかけで。
午前十時。
太陽はとっくに昇っている。遮光カーテンのおかげでか、夜更かししたあとの睡眠時間の確保は充分にとれる。
新一はそうっとベッドを抜け出す。
同じベッドを共有する相手はまだ夢の中。昨夜舞台で出かけた海外から帰国したばかり。大学を卒業してからマジシャンとして活動を始めた快斗は大忙しだ。
時差ぼけもあるだろうに、休むだけではなくて新一の補充がしたいとそこそこ張り切っていた。ベッドの上で。
とはいえ、そこはやはり疲れていたのだろう。新一としてもありがたいことに、動くことに不自由は感じない。これが国内での仕事であれば……いや考えるのはよそう。
キッチンに降りてまずはコーヒーをセット。それから冷凍庫を覗く。目的のものはすぐに見つかり、ラップのまま電子レンジで温める。
ほかに何か、と冷蔵部分も開けたところで、ぺたぺたとスリッパの音がした。
「……しんいちぃ?」
「もうちょい寝てるかと思った」
ふりかえればぼさぼさアタマの快斗。眠そうな声。気の抜けるような足音も、かわいらしさを感じる。舞台に立つ姿はかっこいい。誰よりも。気の抜けた姿はかわいい。どんな黒羽だって好きだ。
「新一がいねぇの気づかないわけないでしょ」
「昨日の晩飯適当だったから、昼前にちょっとつまむといいかなと思って」
言葉と同時に暖め終了の音がする。
「なになに?」
レンジの扉を開く快斗の目がきらりと輝いた。
「マフィンだ! もしかしてお隣から……」
ハズレと新一が口にする前に、マフィンを見つめる快斗は首を小さくかしげる。
「……ちょい焼き色にムラがある。高さも均一じゃねぇ。……ってことはもしかして、これ、新一が?」
「食べて文句言うなよ」
「しないしない。するわけねぇ! なあ、もしかしてこれ、あんときの?」
「だぜ。あとでレシピ教えてくれただろ?」
「早く。早く食べようぜ!」
ウキウキした様子で快斗はキッチンのテーブルにつく。
瞳が早く食べたいと催促している。ソーセージとか卵とかもつけようかと思ってたけど、とりあえずはこれだけでいいか。食べ終わったらもうひと眠りしてもいいかもしれない。
そして、あれが始まりだったのだろう。自分たちがこんな風に幸せな時間を一緒に過ごしていけるのも。