夜明けの珈琲:入木

 慢心は人間の最大の敵だ。
 かの有名な劇作家が書き記したその言葉の意味を痛感したのは、十代最後の春だった。長く好敵手としての関係を築いていた相手と大学の同期という至極自然な形での出会いを果たし、数ヶ月ぶり、いや初めて正面からまっすぐな視線を送りあったそこに認めたのは強い熱を持つ恋心だった。
 互いにその気持ちをぶつけ合い、恋仲になるのに時間はかからなかった。性別やそれぞれの過去がこの関係性の妨げになることもなく、俺たちは自他共に認める相思相愛ラブラブカップルになった。
 同じ講義では必ず隣に並んで座っているし、休みの日は一緒に映画にも行く。ペアリングだって買ったし、快斗と色違いの服を着て大学に行った日なんかは一日中気持ちが浮ついていた。とはいえ相思相愛ラブラブカップルだからといって俺たちはモラルを失ったわけではなかった。
 手を繋いだり、キスをしたり、そういう恋人同士にだけ許されたことをするのは人目のない場所でだけ、と決めていた。それでも俺は快斗に愛されている自信があったし、快斗を愛している自覚があった。だから、優しく触れるようなキスから続く出来事だって、そういう雰囲気になる機会だって、すぐに訪れるだろう。そう思っていた俺は、一線を越えるための努力を一切しなかった。
 ——そのことが何よりも俺の慢心だったのである。その驕りにより、いずれ、じきに、まもなく、を何度も繰り返し、初めて一夜を共にしたのは相思相愛ラブラブカップルとして可愛らしく手を繋ぐだけで眠るいくつもの夜を過ごした先の、ようやくだった。


 隙間から入る薄い光に導かれるように持ち上げた瞼の先に見えたのは、恋人——黒羽快斗の穏やかな眠り顔だった。少しだけ開いた窓から入る風がカーテンを揺らす音と、爽やかな鳥のさえずりにまじって快斗の規則的な呼吸音が聞こえる。タンクトップからのびた程よい筋肉のついた腕が布団の上から俺を抱き寄せるように重ねられていて、彼の頭のしたにあるひとつしかない枕のかわりに俺の頭の下には快斗のもう片方の腕がのばされていた。ぼやっとする視界にそれを捉え、かたい腕枕の心地よさに自然と頬がゆるむ。そのまま、緩やかに上下する快斗の胸に耳を近づける。タンクトップの薄い生地はしっとりと汗ばんでいて、向こう側からどくどくと血を送るための振動が伝わってくる。熱帯夜のように溶けあったことを思い出し、じんわりと心があたたまる。満たされた喜びが、からだじゅうに広がっていく。そう、快斗と俺はようやくひとつになったのだ。
「いっ……!」
 快斗を起こしてしまわないようにそっと、中途半端に折り曲げていた自身の腕の位置を変えようと体を動かしたところ、ずん、と腰に走った鈍い痛みに思わず大きな声が出た。慌てて唇を閉じたが、それより数秒早く快斗が身じろいだ。
「……ん、」
 何度か瞬きをして、快斗が目を開ける。寝起きの快斗は普段より幾分冷えた目をしていて、朦朧とした様子でこちらを見ている。
「……お、おはよ」
「おはよぉ、しんいち」
 小さな声で挨拶した俺に額をくっつけて、快斗がふにゃりと笑った。それから俺の肩に顔を埋めて快斗がぎゅっと腕に力を込める。いろんな意味で悲鳴をあげそうになった。こんなに照れくさくて、幸福な朝がかつてあっただろうか。節々が鈍く痛むのを堪えながら、俺は快斗の背中に腕を回した。
「あいしてる」
 ちゅ、と音を立てて快斗の唇が俺の首筋に触れる。返事をするように俺も快斗の首に唇を寄せた。それからどちらともなく、唇を触れ合わせた。
 何度かキスを繰り返したあと、珈琲を飲みたい、と言ったのは俺だった。ベッドから起き上がり、洗面所に向かう。順番に軽くシャワーを浴びて、髪の毛を乾かしあった。大学入学を機に一人暮らしをはじめた快斗の家には浴室もドライヤーもひとつずつしかない。ふたり並べば肩がはみ出てしまう鏡の前で、横向きになった俺の髪の毛に快斗が温風をあてる。鏡ごしに見た、優しく梳かすように指を添えながら乾かす動作ひとつひとつが格好良くて、同性の自分から見ても惚れ惚れしてしまう。こういうとき、いつも思う。客観的に見て「兄弟のようだ」と評されるほど似たような顔つきなのでも、自分が同じ仕草、立ち振る舞いをしたところで快斗の持つ惚れ惚れするような格好良さにはたどりつかない。自分の顔や姿を見て特別気持ちが昂ぶることはないが、快斗のことを見ていると何度でも恋に落ちる音がする。俺は快斗のことが心の底から好きだった。もちろん喧嘩だってするし、ひどい時には互いに手も足も出る。ねちっこく手回しをした頭脳戦だってする。俺はそういう時の快斗も含めて、全部好きだった。たぶん快斗が思うより、もっと深いところで彼に惹かれているのだ。
「……しあわせだなあ」
「ん? なんか言った?」
 そんな快斗とついにひとつになれた、という事実を何度でも確かめてしまう。そしてその度に浮かぶ感情は柔らかくてあたたかくてふわふわしている、気持ちの良いものだった。思い出すたびににやついてしまう。つまり、俺は相当浮かれている。自然と言葉がこぼれたのもそのせいだ。ドライヤーのスイッチを落として聞き返す快斗にふるふると首を振った。
「なんも言ってねえ。ほら、交代だ」
 言いながら快斗の手からドライヤーを奪い、快斗の体をぐるりと横向きにする。快斗の動作をなぞるように風をあてて髪の毛を梳かしていく。俺より癖の強い快斗の髪は、濡らしたあとでもすぐに毛先が意思をもっているかのように好きな方向に跳ねる。乾かし合うのははじめてではないが、いつもはだいたい乾けばいいだろうくらいに思ってとりあえず風をあてていた。今日はなんとなく、それではいけないと思ってゆっくりと、丁寧に指とドライヤーの首を動かしていく。
「新一、」
「なに? こら、動くなって、」
 こちらを振り返るように軽く首を反らした快斗を鏡ごしに咎めると、快斗が口元を緩ませて唇を動かした。
『おれもしあわせ』
「っ……、オメー、聞こえてたんじゃねえかっ……!」
 音もなく発された言葉に、自然と唇を読んだ俺は耳まで一気に熱くなるのを感じた。読唇術の心得があるのは、この場にいる人間で俺だけじゃない。快斗が体を反転させ、わなわなと震えている俺の手からドライヤーを抜いてスイッチを落とす。
「ごめん、かわいすぎて黙ってた」
「……、意地わりぃぞ!」
 宥めるように額に落とされた唇に、単純な俺は黙ってしまう。腹が立ったわけじゃないと言えば嘘になるが、それよりもただ恥ずかしかった。同時におれもしあわせ、という快斗の言葉が嬉しくもあって、いろんな要素がまぜこぜになった感情が表出して変な表情になる。そんな俺を「可愛い」と形容するのだから、黒羽快斗も相当盲目である。
「快斗、珈琲飲もうぜ」
 また表情が変になるのを誤魔化すように絞り出した言葉は、唐突で、それでいて俺たちに馴染みの深いものだった。


 髪の毛を乾かしきったあと、ダイニングキッチンに移動した。快斗のあとに続いて短い廊下を歩く時、足を前に出すたびに腰や太ももに鈍い痛みが走った。庇うように手でさすった。ひどい筋肉痛である。深く深呼吸をしながら、リビングとキッチンを区切るように配置されたダイニングテーブルのイスに座った。まるで一日中泳いでいたような全身の気だるさだ。快斗がブラインドの向きを変え、室内に淡い光が入り込む。
「ごめん。色々無茶したかも。一応、昨日新一が飛んじゃってからケアしたつもりだったんだけど」
「いーよ、俺もしたかったんだし」
 椅子にひっかけていたカーディガンを羽織り、やかんに水を入れて火にかけながら快斗がこちらを見た。
「もうちょっと横になっとく? まだ早いし、寝てていいぜ」
 言われて壁掛け時計を確認する。時計の針は六時を過ぎて十分経ったところだった。俺は首を横に振って、快斗にもう一度言う。
「気にすんなって。怪我人じゃねぇんだしそんな繊細じゃねえ。それより俺、オメーと一緒に珈琲を飲みたい」
 ダイニングテーブルに突っ伏しながらも強気な言葉な送る俺に、快斗が小さく肩をすくめて戸棚から珈琲粉が入った瓶を取り出した。
「わかった、わかった。とびきりに美味いやつ淹れてやるからそこで待ってて」
「ん」
 俺は突っ伏したまま頷いて、快斗と色違いのカーディガンを隣の椅子からたぐり寄せた。袖を通し、頬をテーブルの表面に押し付ける。木製の冷たさが心地よかった。それからは快斗の動きを見ることに専念した。
 快斗は先ほどのやかんの火を止めたあと、食器棚に伏せられていた珈琲カップを上向きにしてお湯を注いでいる。快斗の家で珈琲を飲むときは、あの青いカップを使うと決まっているのだ。有名な陶器ブランドロゴが底に印字されている珈琲カップは、快斗の母親である千影さんから俺がもらったものだった。付き合って一ヶ月が経ったある日、自宅に届いたのだ。黒羽千影、という送り主にどきまぎしながら開封したダンボールのなかに入っていたのは、可愛くラッピングされた有名な陶器ブランドのお揃いの珈琲カップだった。「息子の恋人さんへ 快斗と仲良く使ってね。末長くお幸せに」と踊るような手書き文字のメッセージカードを見つけて、慌てて快斗に連絡したことを覚えている。誰にも隠していなかったが、だからといって親になんでも打ち明けるほど子どもでもなかったし、そもそも俺たちの親は一年の半分以上を海外で過ごしているような人たちだった。そういった事情もあって、各自の親に知らせているかどうかなんて話は一切していなかったのだ。親子関係は良好だと聞いていたが、まさか何から何まで伝えているのだろうか? と半ば怯えながら快斗に確認したところ、珍しく間の抜けた声を出した後、電話のむこうで叫んでいるのが聞こえて驚いたものだった。
 あとから聞いた話、快斗は千影さんに恋人ができたことも、その恋人が男でこの俺工藤新一であることも何一つ伝えていなかったらしい。「出どころ? 聞くだけ無駄だ。あの人はどこからでも情報を得てくるし自分がやりたいことのためならなんだって使う。我が母親ながら、あの人ほど恐ろしく敵に回すと厄介な人はいない」と、眉間に皺を寄せて卸したての珈琲カップに口をつけていた。俺は驚きが大きかったけれど、同時に嬉しくもあった。何より、千影さんが選んでくれた青い陶器の珈琲カップは洒落ていて、俺も快斗もそのセンスの良さに流石だなと頷いたのである。俺たちは珈琲を飲むならこのカップにしようと決めて、デートの8割を過ごす快斗の部屋に置いておくことにしたのである。
 カップの中のお湯を捨てた快斗が、次にキッチンカウンターの上にあったサイフォンの前に来て、フラスコに常温のミネラルウォーターを入れ熱源にかける。温度を確認し、慣れた手つきでフィルターをセットしたロートに珈琲粉を入れ、ヘラで撫でるように攪拌する。器用で丁寧な快斗は、サイフォンで珈琲を淹れるのが上手かった。休日に豆の焙煎をしていることもあったが、その手腕と知識のルーツはビリヤードバーを経営するマスター直々に教わったらしい。配分やタイミングが味の決めてとなるサイフォンにおいて、計量器具の必要不必要を快斗に問うのは愚問だ。
「相変わらずそつがねえなあ、オメーは」
「惚れ直した?」
「バーロ、」
 手元から顔をあげ、首を傾けながらいたずらっぽく笑う快斗は、すべてが完璧だった。完璧ほど低い基準はない、とよくいうがこの男にはよく似合う言葉だ。なにをしても格好良い。それは快斗が見られることを常に意識しているエンターテイナーだからだとか、自分をよく見せる技術に長けているからだとか、そういったものは関係なく思えた。だって、俺の前で快斗が見せる表情と、他の場所で快斗が見せる表情は確実に違う。違うけれど、どちらも完璧に格好良いのだ。自分も大概、快斗に対しては盲目である、という自覚は持っている。
 だらしなくテーブルの上で頬杖をついたまま、快斗へ笑いかえす。俺の表情を確認した快斗が目線を下げ、慣れた手つきで作業を進めた。淡かった珈琲の香りが深まり、部屋いっぱいに広がる。鼻から息を吸うと体に染み渡っていくようだった。
「はい、お待たせ」
 ことん、と目の前に珈琲カップが置かれる。隣に座った快斗に礼を伝え、両手でカップを持った。
「うん、美味い」
 快斗が自分のカップに口をつけて、俺と同じように美味い、と言った。今日は珍しく、快斗もブラックを選択したらしい。理由を聞けば、「新一と同じものを飲みたい気分だったから」と笑った。
「……快斗、もしかして気付いてる?」
「ん? 新一がずっと珈琲を飲みたがった理由のこと?」
 快斗がにんまりと笑みを浮かべた。やっぱり、と観念して
「…………憧れ、っていうか、まあ、ロマンというか。昔、母さんから聞いたことがあったんだよ」
 俺は広がる珈琲の味わいを堪能しながら、脳内である曲を再生する。ずいぶん古い曲だというが、俺はこの曲にまつわるストーリーを母親から何度も聞いたのだ。「お洒落な言い回しよねえ。憧れて、優作とよく一緒に飲んだわぁ」とどこかうっとりした様子で語る母親は、いつも幸せそうだった。
「俺も母さんから聞いたなあ、親父と一緒に飲んだって。幸せそーに笑うけど、息子にする話じゃねーよな」
 おんなじだ、と相槌を打ってそれぞれ思い出し笑いをする。デリカシーに欠ける親を持つと大変だな、と互いに言い合ったあと、俺は珈琲を飲み干して言った。
「次は俺が淹れてやるよ、とびきり美味しい夜明けの珈琲を」