イヤホン越しに届く電子の波は、どれも普段以上のノイズにまみれていた。およそ聞き慣れた彼の声ですらも、ひしゃげて寄越すほどの酷い有様である。
とはいえ、現状はこれがベストと言うほかないのだろう。なにしろ立地が悪すぎた。
それに砂を踏むような有象無象の音の中から一握りの必要な情報を拾い上げる煩雑な作業でも、快斗の手にかかれば造作もない。近頃では珍しく封印シールもされていない雑誌を手に、その内容すらもを同時に理解しながら、流れる音を選別していた。背後の棚を一つ挟んだ向こう側では、怠そうな様子を隠しもしない男性店員がインスタント類の陳列に精を出している。コトリ、コトリと軽い音が続き、やがて彼もバックヤードへと消えていった。
時刻は、午前四時を回った頃。
片田舎にぽつんとあるコンビニの店内は人の気配を遠くに置き去って、虚ろに近い腹の中を快斗に煌々と見せつけている。チェーン店でないというのも、恐らくは理由の一つだろうか。見慣れたロゴや店内配置でないというそれだけで、落ち着かない気持ちが背筋をぞろりと這い上がるようだった。
もう、そろそろだろうか。
相変わらずのノイズの中でも、事はつつがなく展開しているようだ。人の群れが動き、何かを蹴り上げ、酷い言葉が飛び交った。そんな中に、彼は居る。
店内へ向けていた目を正面に戻せば、光を浴びた一面のガラスが半透明の快斗を映し出していた。その姿は、上下も帽子も真っ黒なのに、嫌になるほど鮮明だ。だからこそ表情すらも明け透けで、不自然に歪んだ口角も隠しようがない。
ポーカーフェイスを忘れるな。
ポォンと不意にチャイムが鳴るかのごとく、脳裏でいつもの一言が響き渡る。同時に、コンビニで立ち読みをしている若者はかくあるべきと、表情筋がすかさず違和感を打ち消した。そうして自然を整えた快斗は、指紋一つ残らない雑誌を元の場所へと戻し、陳列棚へと足を向ける。手にとったのは、チョコレート味のシリアルバーと缶コーヒー、小さなペットボトルのジュースを一つずつ。どうやら監視カメラは正常に作動しているようで、快斗がジュースを取り上げる頃には店員がレジで待ち受けていた。やる気の無さそうな態度の割には、しっかりと時給分の職務を全うするタチらしい。好ましいことだな、と無味無臭の感想をいだきながら、会計を済ませて外へ出た。
途端に、夏を間近にした木と土の匂いが噎せ返るほどにくまなく肺を満たした。
なるほど森林浴とはよく言ったもので、まさしく溺れそうなほどに山の匂いが漂っている。まだ不快というほどの湿度でないのが救いだろうか。いずれにしても慣れない匂いと五月蝿いぐらいの虫の音は、少しばかり鬱陶しかった。おかげで先程までより随分と慎重を強いられながらイヤホンへと耳を傾け、買ったばかりの商品はボディバックへと仕舞っていく。そうして両手を開け、手袋を嵌めて、ヘルメットを装着しながら愛車に跨った。ひとたびエンジンをふかせば先程まで気になっていた虫の音など、あっという間に聞こえなくなる。きっと、今度はあちら側こそが快斗の立てる爆音を煩わしく思っていることだろう。
僅かに視線を上向ければ、どっしりと構えた山の稜線が闇より色濃く浮き上がっていた。いっそふてぶてしく映るそれは、さながら快斗の侵入を拒むかのようだ。向こうの夜空には、ついぞ見慣れた星の配列が瞬いているというのに、親近感などまるで湧くものではない。
とはいえ夜のさなかを駆け回る快斗が親しげに迎えられたためしなど、これまで一度だって無かったのだ。
つまりは、この眼前の光景とて今更のこと。怯みもせず、臆することもなしに、快斗は愛車のアクセルを回し、地を駆ける。スピードに乗って切る今夜の風は、グライダーでのそれよりも随分と生温かった。
コンビニの明かりはすぐさま遠ざかっていき、やがて月光とヘッドライトばかりが頼りの行路となる。はたして乗用車が対向して行き交えるのか疑問に思えるほどの細い山道をひたすら登り、数えるのが嫌になるほどカーブを曲がった。時には崖側にガードレールすらないヒビ割れた道を、それでも快斗は危うげなくハンドルを操り、スピードを落とすことなく駆け抜けていく。
目的地は、ほど近い。
ルクスの明かりに目が慣れた頃、突如ひらけた場所で、道は二本に分かれていた。外灯もない二本道の間にヘッドライトを向けてやれば、古びた看板が朴訥と立つ。それによれば、片側は県道、もう一方は私道であるらしい。なるほど、と誰ともなく小さく頷いて、快斗は迷うことなく私道へ向けてハンドルを切った。
その道は、先程までよりも枝木が荒れて、道もおおよそ手入れがされていないのだろうと伺えた。こんな夜でなかったら、きっと獣でも駆け回っていることだろう。この辺りを住処にしている動物たちにとっては災難だろうが、平穏はしばらく望めない。
分かれ道から何百メートル走った頃か、ようやく目指す光が見えてきた。
快斗はバイクのスピードを緩め、その折に、ひときわクリアな声を聞く。
——午前四時二十二分。……犯人を、確保。
やがて視界が大きく開け、私道の最終地点へとたどり着いた。砂利の敷かれたスペースには、何台ものパトカーが停車し、赤色灯を踊らせている。山間部という単語に不似合いなほどの人の群れは、刑事や警官たちにちがいない。いずれも揃って緊張の面持ちを浮かべ、いかめしい門扉の向こう睨みつけていた。あれが、ノイズの合間に何度も登場した洋館だろうか。二階建ての上階部分と屋根だけが、高く造られた塀の奥に見えていた。
そうか、ここが。
ヘルメットを外しながら見上げて、感慨もなく思考を浮かべた。
快斗が知ること。
それは、此処に一人の男が住んでいるということ。男の両親はなかなかの資産家で、手の付けられない男へ早いうちにこの私有地と洋館を譲り、山の奥深くへと追いやってしまったということ。この洋館には地下室があり、男の趣味はそこへ連れ込んだ女性をいたぶり、レイプし、首を絞めて殺害するということ。
あるいは。
「警部! 八体目が出ました!」
洋館の裏手の大きな樹の下に、八人分の遺体が埋められていること。そして、パトカーに追いやられるようにして隅に停車する救急車が誰の治療もしていないのなら、地下室に生存者はもういなかったということ。
それだけだ。
未だ規制線は張られていないが、それも時間の問題だろう。ここまでの大きな事件だ。いくら山奥といえど、間もなくメディアも動き出す。
快斗はなるべく警察車両の邪魔にならないように端の方へとバイクを停めて、シートにもたれながら門扉を眺めた。入れ替わり立ち替わり、忙しなく人が出入りしている。知っている顔もあれば、知らない顔も多かった。その一つひとつを記憶に刻み、相変わらずノイズの多い波にひたすら聞き入った。
声は、眼前を行き交う人たちと同じぐらいに多種多様だ。
怒りを孕み、冷静であろうとし、諦観を滲ませ、そして誰もが悔いている。
あと少し、早ければ。
しかし、誰もその一言を吐き出しはしなかった。九人目が出なかった。それが今夜、彼らにできた精一杯だったのだろう。または、他でもない、工藤新一にとっても。
早く、はやく。
チリ、と後頭部あたりへ焼けるような焦燥が懐いた。それはイヤホンから訥々と流れる状況や証拠をあげつらう声を聞くほどに増していく。
まだか。もういいだろう。
いつの間にか噛んでいたらしい唇が痛んだが、それすらどうでも良いと門扉を睨み据えた。
そうして、ようやく。
人波の合間に、彼が見えた。所詮この暗がりだ。表情すらまともに見えはしないけれど、それでも間違いなく彼だった。刑事らに囲まれ、立ち姿ばかりはいつもと変わりない。スッと背筋を伸ばし、首筋は一ミリもブレることはしない。
工藤新一。
それこそが、快斗をこんな場所にまで呼び寄せる、たった一つきりの理由だった。
深い夜の中、見つめる先の唇に合わせて、彼の声がイヤホンを通し流れ込む。現場の状況、動機や証拠、それから他の被害者の有無についての話。いずれも快斗の領分にはほど遠く、けれども一つ残らずに聞き入った。彼が咀嚼し、飲み込むものを、快斗は一つたりとも取り零したくなかったのだ。
だからこんな夜の終わりに、快斗もまた此処にいた。
やがて、両腕をそれぞれ刑事に抱えられた一人の男が、モーゼのごとく人の群れを割り、一台のパトカーへと押し込まれる。その車両を含めた数台は、まもなくこの場を走り去っていった。
大きく息を吐き出したのは、一人や二人ではないだろう。
彼を囲む数人も僅かに肩の強ばりを抜き、その流れでようやく一人が快斗へと目を向けた。
人垣が動き、ようやく快斗の視界にも彼の目が映る。おそらくは目が合ったのだろう。警察車両を背にする彼の表情は、逆光のせいで判然としない。それでも、彼がこちらを認識したことは確かだった。
『……かいと』
イヤホン越しに、呼ぶ声がある。
そうだよ、と唇を動かしてから、快斗はそこを笑みに象らせた。ポーカーフェイスなど必要ない。彼に向ける、ただそれだけの表情だ。きっと、彼は快斗に笑い返しはしなかっただろう。そのことを、どうこう思う次元はとうに過ぎていた。
そんな快斗の視界のなかで、一言二言、彼と顔見知りの刑事らが言葉を交わしている。その内容を簡潔にまとめれば、彼はこのまま県警本部へ向かうつもりらしいとのことだった。まぁ、そうだろうなと予想のつきすぎる内容には苦笑すら浮かぶ。ここから本部までは軽く二時間以上はかかる。この時間帯なら渋滞もなく、僅かな移動時間のみを仮眠に充てようという魂胆が見え透いていた。そして恐らくは、この場にいる多くの刑事らも似たようなスケジュールを強行することだろう。それも仕方のないことだ。何しろ事件の内容が内容で、彼らのすべきことは手錠を掛けた後にも山とある。
けれども、だ。
それが工藤新一にも同様に当てはまるかと問われれば、快斗は即座に否定する。きっと、そう考えるのは快斗だけでもないはずだ。九人目が出なかった。その結果に彼が身を削り尽力したことを、この場の誰もが知っている。そんな彼の出来ることが、手錠をかけた後には随分と限られることも、同時に理解されているはずだ。
ならば、快斗は遠慮しない。
本部への到着が二時間後から二十六時間後に延びたところで、もうあの狂人は誰一人として傷つけない。その事実があればこそ、快斗は彼をなんとしてでも連れ帰るつもりでいた。
だから。
快斗は彼の名を呼び、こちらへと手を招く。
するとイヤホン越しには、苦々しく快斗の名を呼ぶ声が届けられた。とはいえ、そうして嫌そうにする彼の思惑など快斗の知ったことではないし、隣の刑事に背を押されてまで張る意地でもなかったようだ。快斗がほんの少し待つだけで、本人の意志はともかく、彼はきちんと快斗の触れられる距離にいた。
「おつかれ、新一。コーヒー飲む? それとも小腹空いた?」
彼の前で閃かせた手の中に、コンビニで買ったばかりの商品を取り出してみせる。しかし、いずれも一瞥を受けるのみで、彼の手に取られることは無かった。
「……こっち来る前に、本部で軽く食べたから」
だからいらないのだと首を振る彼は、快斗がなぜ此処にいるのかと尋ねはしなかった。きっと、分かりきってもいるだろう。何しろ快斗は、彼への想いを隠さない。たとえ其処が真実の果てであったとしても。
「じゃあ、うちで何か食べよう」
そうしよう、それがいい。此処へ来る前に、ちょうど阿笠から桃のおすそ分けをもらったんだ。冷蔵庫で冷やしてあるそれなら、口当たりも良いし、酷使した脳みそにも丁度いい。帰ったらさっさとシャワーでも浴びて、その間に桃の皮を剥いて準備しておくから。それから少しでいい、横になって、目を閉じて。
「……ね、そうしよう。新一」
そう言ってヘルメットを差し出せば、幾ばくかの逡巡を挟んで、彼はそれを受け取った。
「本部まで」
「うん、明日ね」
それを最後の憎まれ口にして、渋々の体ではあれど、彼はようやく諾の意を込めて快斗に頷いてみせる。その様子に快斗もまた笑みを深くして、先にバイクへと跨った。ついでに、こちらの様子を伺っていた刑事らへも会釈を投げる。そうすれば、早く帰れとばかりに彼らもこちらへ軽く手を上げて返してくれた。恐らくは、それが決定打だったのだろう。彼はおとなしく快斗の後ろでバイクに跨り、慣れた様子で腰を落ち着ける。
二人の間では、もう随分と慣れたスタイルだ。
何しろ快斗はもう、彼のために空を飛んであげられない。白い怪盗が既に居ないからとか、彼の今の体重ではどうだとか、挙げればキリがないほど理由はある。けれども、何より明確なのは、きっと、そう。生きる道が違うから。別々のものを選び取って、そもそも、そんなことは初めから分かりきっていて、それでも必死に互いの手を繋ぎ合っていた。
ただ、この男が愛おしい。
たったそれだけの理由をもって、快斗はこんな暗い夜の奥まで、呼ばれもしないのにバイクを飛ばしてきたのだ。それこそ手出しなんて、なに一つだって出来ないことは分かりきっていた。それどころか、手出ししようなどと欠片も思っていなかった。
それでも。
「……好きだよ、新一」
今の彼の脳裏には、未だ醜悪な言葉や映像ばかりがこびりついていることだろう。けれどそんな彼の黄泉にだって、歌の一つぐらいは必要だ。きっと快斗が尋ねたところで、一つも分けてはくれないだろうが、それで良いとも思っている。それが彼の領分ならば、快斗は快斗で好きにするだけだ。
そんな快斗の思惑通り、彼に向けた小さな告白はきちんと彼に伝わったらしい。後ろから回された彼の腕が、ぎゅうと一層強く快斗の腹に抱きついた。
「なぁに? 新一」
問いかけながら、エンジンをかける。しかし答える声はなく、ただヘルメット越しの頭が背中に強く当てられた。その幼気な仕草に喉を慣らしつつ、快斗は重い車体を立てる。
「しっかり捕まってろよ、ダーリン!」
「うるせぇ、前見て運転しろ!」
仰せのままに、と軽い応答を返し、快斗は地につけた足を浮かせてアクセルを回した。
「あっという間にベッドまで連れてってやるよ! エスコートには自信あるぜ!」
ヘッドライトだけを頼りに私道を下る。そうしながらジョークを飛ばしてやれば、返事の代わりにと腹へ回された指先が僅かに爪を立てた。その感触ひとつに、快斗はまた笑みを深める。
そうして行きよりも幾分早く私道を抜けて、二又の道へと戻ってきた。あとは曲がりくねった県道を下っていくだけだ。後続車は未だなく、対向車も来そうにない。ただ、二人きりでエンジンの音を聞きながらひたすら来た道を戻っていく。
相変わらず、彼の熱は快斗の背に懐いたままで、それが正しい姿勢でないことなど、二人ともが百も承知していた。けれども所詮、空だってまともに飛んだことのない二人だ。これでも上々というものだろう。
やがて、山を中ほどまで下った頃だろうか。
星は遠く瞬いて、今夜も快斗へ行路を示している。そんな見慣れた光景の端の方では、月が山影へと身を隠しかけていた。ならば、間もなく暁も知れることだろう。地を這いつくばっていたって、二人で見る朝は何にも代えがたく、きっと美しい。
そんな思考に自然と笑みが浮かんだ。
そうして快斗はさらにスピードを上げて、未だ暗い夜道を我が家へ向けて駆け抜けた。