ブレイクスルー:みづき

 今にも千切れてしまいそうなほど細い月が、東の空にぽつんと浮いている。
 風はほとんどないけれど、鼻先が凍るんじゃないかと思うほど空気は冷たくて、白で覆われた道を歩くつま先は随分前からかじかんでいる。見慣れているはずの景色は彩度を失くし、輪郭がぼやけた街はまるで知らない場所みたいで、自分ひとりが夜と朝の隙間に取り残されているみたいだった。
 県境で起きた事件を解決したのはちょうど日付が変わった頃だった。被疑者を連行する警部たちと一緒に東都に戻り、家まで送ってもらったのが午前二時の少し前。遅くまでごめんねと詫びる若い刑事を見送って、ふと見上げた空に大きく欠けた月を見つけたとき、何だか無性に会いたくなった。すぐにでもベッドで休みたいくらい疲れていたけれど、家には入らずに踵を返した。終電の時間はとうの昔に過ぎていた。タクシーを呼ぼうか少し悩み、そう遠くない距離だからと歩いてみることにした。
 江古田駅までは大通りを進み、そこからは高台へ続く細い坂道を登る。通い慣れたとは言い難い道だけど、そのくせ思い入れだけは人一倍強い自負があった。駅から家までの道のりは一度で覚えたし、途中にある店の名前も交差点の名前もとっくに記憶してしまった。
 雪の小径を一時間ほど歩いてたどり着いたその家の明かりは全て落ちていた。迷惑かもしれないと逡巡したのは一瞬で、俺はすっかり冷え切った指先でぽちりとインターホンを押した。家の中に響く無機質な高音をドア越しに聞く。
 一分ほど待ってみても応答はなかった。眠っていて気がつかなかったのだろう。さすがにもう一度押すのは気が引けて、潔く帰ろうと半歩足を下げたところで、ことんとかすかな物音がした。顔を上げると同時に二階の一室に明かりが灯り、ただそれだけで、心の中がほんの少し温まった気がするから不思議だった。
 とんとんと階段を降りてくる音がする。この家は二階にもインターホンのモニターがあるから、画面越しに応じることもできたはずだ。つまり俺の姿を認めた上でわざわざ出迎えてくれるのだろう。途端に気恥ずかしさと申し訳なさが込み上げてくる。それらを取り繕う間もなく、玄関の鍵がガチャリと鳴った。
 ゆっくりと開いたドアの向こうから現れたのは、予想どおりの不機嫌な顔だった。
「……おい。今何時だと思ってんだ」
 声も予想どおりに不機嫌で、普段よりも低く重くざらりとしていた。それすら耳触りよく感じる自分に苦笑する。
 今が夜中の三時で、友人宅を訪ねるには不適切な時間である自覚は大いにあった。にもかかわらず訪れたのはそれなりの理由があったからだ。でもそれをうまく説明することが今の俺には非常に難儀で、難儀ゆえに億劫だった。
「コーヒー飲みに行かねえ?」
 だから理由はさて置いて、手っ取り早く要件を突きつけることにした。
 黒羽という名のその友人は、俺の顔をじろじろと眺め、「はあー」と大仰なため息をついた。失礼極まりない態度である。文句のひとつでも言ってやろうと口を開きかけたところで、腕を掴まれ玄関に引っ張り込まれた。
「準備してくるからここで待ってろ」
 そう言い残し、黒羽は二階へと上がって行った。外は寒いから、玄関の中で待つよう気を遣ってくれたのだろう。
 飾り気のない広い玄関には男物の黒いブーツが一足だけぽつんと置いてある。黒羽の家には父親がいない。母親は健在だが、一年のほとんどを海外で過ごしているらしい。そんなところも似ているから、親近感を抱いてしまうのも無理はなかった。もっとも今では親近感などという生温い感情は、別の感情に塗りつぶされてしまったのだけど。
 そんなことをぼんやりと考えていたら、さっきドア越しに聞いたものよりは幾分か軽快な足取りで、黒羽が階段を降りてきた。
「お待たせ」
 もこもこのダウンを着込み、ニットの帽子とネックウォーマーと手袋を装備して、さらに腕にはマフラーまで引っかかっていた。こいつが寒がりなのは知っているが、それにしたってやりすぎだ。そう思った次の瞬間には、そのマフラーは黒羽の手を離れて俺の首にふわりとまとわりついていた。
「鼻、赤い」
 さっきまでの不機嫌は二階にでも置いてきたのだろうか。目尻を下げて「ふふ」と優しく笑うから、俺はうつむいてマフラーに鼻を埋めた。こいつはやることなすこと全てが魔法じみているから、うっかり見惚れてしまわないよう気を引き締めるのが大変なのだ。
 玄関から一歩踏み出せば、すっかり忘れていた寒さが再び襲いかかってきて、俺はマフラーの有り難みを痛感した。黒羽は素早くドアを施錠しポーチの階段をひょいと飛び降りる。物音ひとつ立てずに着地する様は、かつての白い怪盗を彷彿とさせた。
「ファミレスでいいよな?」
「おう」
「じゃあ駅前だな」
 歩き出した黒羽に従うように、俺もポーチからジャンプで飛び降りてみる。静かに着地するつもりだったのにぼふっと情けない音がして、俺は何だかばつが悪い気分になった。この男と一緒にいると、自分がやたらと不器用に思えて嫌になる。
「結構積もってんなあ」
「予報だとしばらく降るみたいだぜ」
「まじで? 雪だるま作れっかな?」
 半年後には二十歳になろうという男が、目を輝かせて子供みたいなことを言うものだから、俺は少し笑ってしまった。
「もし積もったら白馬と服部も誘ってみんなで雪合戦しようぜ」
「やだよ、ガキくせえ」
「ついこのあいだまで小学生だった奴がよく言うぜ……」
「それ禁句だって言ってんだろコソ泥野郎が」
「それも禁句な」
 時間が時間なので声のボリュームは控えつつ、辺りに人気がないのをいいことに、普段は周囲を気にして避けている話題を持ち出してみる。
 こいつとは出逢ったときから悪態を吐き合う仲だった。最初は売られた喧嘩を買っているだけのつもりだったのに、いつからかその応酬が楽しくて仕方がなくなった。奇妙な縁で結ばれたこの男との関係をどう呼べばいいのか、自分の感情をどう名付ければいいのか、ずっとわからないままここまで来てしまった。
 先を歩く黒羽の背中をじっと見つめる。こんな時間に連れ出しても恨み言ひとつ言わないこの男の優しさに甘えている自覚はあった。黒羽のことを思うのならば自戒すべきなのだろう。でも、黒羽のことを想うからこそ自戒できないのだから、我ながらたちが悪い。
 だってこんなとき、真っ先に顔が浮かんでしまうのだから仕方がないではないか。

 *

 二十四時間営業とはいえ、三時過ぎともなれば客はほとんどいない。店にいたのはいかにもやんちゃそうな男女四人組と、テーブルに突っ伏して眠っているおっさんひとりだけだった。安全とは断じ難いけれど、事件性を感じない以上平和な光景だ。
 先に店に入った黒羽が選んだのは店の一番奥の窓際の席だった。店員にドリンクバーふたつを注文し、一緒に飲み物を取りに行く。いつものようにブレンドコーヒーを淹れる俺の横で、黒羽はチョコレートのようなとろりとした茶色の液体をカップに並々と注いでいた。
「うわ、何だそれ」
「バニラココア」
「すげえ甘そう」
「すげえ甘いぜ。飲んでみる?」
「遠慮しとく」
「そっちはすげえ苦そうだな」
「苦くねえよ、まろやかなコクと酸味だぜ。飲んでみろよ」
「遠慮します」
 差し出したカップから逃れるように、黒羽は軽やかに隣のソフトドリンクサーバーの前に移動して、今度は透明なグラスに氷とジンジャーエールを注ぎ始めた。こんな時間によくやるなあと思ったけれど、こんな時間に声をかけたのは自分だから、口に出すのはやめておいた。
 テーブルの隅にはすでに伝票が置かれていた。今日は奢るつもりだったので、黒羽にばれないようにこっそり手元に引き寄せておく。四角いテーブルの対角に座り、熱いコーヒーをひとくち飲んで、俺は窓の外に視線を移した。
 駅に近いおかげだろう、ガラス窓の向こうは街灯や車のライトや信号の明かりでぼんやりと明るくて、さっきまでの無彩色の景色が嘘みたいだった。遠くの席からは時折楽しそうな笑い声が聞こえてくる。夜と朝の隙間というのは、思っていたほど寂しいものではないらしい。
「──で?」
 感傷めいた思考に暮れていると、頬杖をついた黒羽が窺うように顔を覗き込んできた。何を促されたのかわからずに首を傾げる。黒羽はおいおいと呆れ顔をした。
「なんか話があったんじゃねえのかよ」
「話……? 別に話なんてねえけど」
「えっ? 話もねえのにこんな時間に家まで来たの?」
「おう」
 おっしゃる通りだったので正直に頷く。コーヒーを飲みに行こうというのはもちろん建前だったけれど、取り立てて話したいことがあるわけではなかった。今日はひどく疲れていた。理由があるとすればそれだ。
 しばらくぽかんと口を開けていた黒羽は、さっき玄関先でやったのと同じように、「はあー」と大きな息を吐いた。
「……何だよ、その反応は」
「いや、オメーはそういう奴だよなあって思っただけ」
「何だそれ」
 わかったような口を利かれてむっとする。
 こいつは知らないだろうけど、今日の俺はひどく疲れているのだ。それなのに、寒い夜道を一時間もかけてわざわざ家を訪ねたのだ。
 俺がそこまでする理由なんて、こいつはきっと一生わからないに違いない。そう思ったら無性に腹が立ってしまった。
「……ちょっと、顔が見たかっただけだよ」
 腹立ち紛れに呟いて、呟いた次の瞬間に後悔した。伝えるつもりなんてなかったのに、つい口にしてしまった。
 うつむいたまま小さく吐いた本音だから、コーヒーの中に沈んで聞こえなかったかもしれない。そうであってほしいと思ったけれど、黒羽が聞き損なうわけがないこともわかっていた。
「……その割には、全然目が合わねーんだけど」
 ──ほらな、やっぱり聞こえてた。
 返す言葉を見繕えず、俺はぷいっと顔をそらした。言わなきゃよかったという思いが胸の中をぐるぐると駆け回り、それがあんまり息苦しくて、今すぐここから逃げ出したい気分になった。
「悪い、今のは忘れてくれ。別にオメーの顔なんてこれっぽっちも見たくねえから安心しろ」
「そこまで言う?」
「とにかく迷惑かけて悪かった」 
「まあ確かにちょっとは時間考えろって思ったけど、別に迷惑だとは思ってねえよ」
「……」
「俺は工藤と違って、いつだって工藤の顔が見たいからさ」
「……、は?」
 思いがけない言葉を聞いた気がして、俺は驚きのあまりせっかくそらしていた顔を正面に向けてしまった。真面目な顔をした黒羽と目が合って、心臓が大きく跳ねる。
「……それ、どういう意味だよ」
「さあ。当ててみれば?」
 茶化すような口ぶりだけど、その目はいつになく真剣だったから、からかわれているわけではないのだとわかった。
 黒羽は誰にでも分け隔てなく優しいようで、その実線引きのわかりやすい男だ。そして俺は、自分がどの線まで踏み込んでもいいのかをちゃんと理解しているつもりでいた。他の連中よりもずっと深い場所にまで入り込める自信はあったけれど、友人としての域を逸脱しない範囲だと思っていた。それ以上には踏み込んではいけないと思っていた。
 もしかしたら俺は、その線引きの意味をずっと取り違えていたのかもしれない。停止線だと思っていたその線は、もしかしたら、予防線だったのかもしれない。
「……さてと。そろそろ帰ろうぜ」
 考えがまとまらない俺にしびれを切らしたかのようなタイミングで、黒羽はジンジャーエールとバニラココアを飲み干して立ち上がった。その手には、俺がついさっき確保したはずの伝票が握られている。
「あ! オメー、いつの間に……!」
「さーていつでしょう?」
「オメーなあ、その手癖の悪いとこどうにかしろよ。ICPOに国際手配されちまうぞ」
「だからそれ禁句だって」
 伝票を取り返そうと伸ばした手をひらりとかわし、黒羽はお返しとでも言わんばかりに俺の頭をぽんと撫でる。
「こんなときくらい奢られとけよ」
 労わるように優しく笑い、さっとレジに向かう。
 こんなときってどんなときだよ──そう文句を言ってやりたかったのに、言葉がひとつも出てこなくて、俺は居た堪れなさから逃げるように店を出た。頭を撫でられただけでこんなに動揺してしまうなんて情けないったらない。
 支払いを済ませて店から出てきた黒羽は「さみいなぁ」と呟いて、何事もなかったかのように歩き出してしまった。俺は黙ってそのあとに続いた。夜に揺蕩う人口光が視界の端を滑っていく。
 黒羽の家へ向かう道と駅へ向かう道の分岐点が近づいてきて、俺はほんの少しホッとした。離れ難い気持ちはあったけれど、これ以上一緒にいると、次々と沸き起こる感情の処理が追いつかなくなりそうだったから。
 それなのに、交差点まであと数メートルというところで、黒羽が突然ぴたりと立ち止まった。くるりとこちらを振り返った次の瞬間には一気に距離を詰めてきて、逃げる間もなくがっしりと手首を掴まれて、何が起こったのか把握したときにはしっかりと指を絡め取られていた。
 名前を呼ぶことも理由を問いただすこともできなかった。手を引かれるまま歩いているうちに分岐点の交差点も超えて、俺は見慣れた街並みに戻ってきてしまった。
「……なあ黒羽。俺、すげえ疲れてんだけど」
「俺だって誰かさんに叩き起こされたせいですげえ眠てえよ」
「……だったら何で、」
「俺んちのほうが近いだろ。とっとと帰って一緒に寝ようぜ」
 繋いだ手にぎゅうっと力を込められて、胸まで締め付けられた心地がした。どうしてこんなことになっているのかさっぱりわからなかったけれど、この手を離すつもりにはなれなくて、俺は勇気を振り絞って黒羽の手を握り返した。どうか黒羽が振り向きませんようにと願った。とても顔を見られそうになかったし、見られたくもなかった。
 工藤、と俺を呼ぶ声は、いつもよりもずっと優しい。
「次からは、疲れてるときはさっさと寝ろ。もし眠れねえなら電話しろ。話し相手にならなってやるし、会いたいってんなら会いにいってやるから」
 前を向いたままで黒羽が言う。そりゃどうも、と絞り出した声は自分でもびっくりするくらいか細かった。
 新聞配達のバイクがすぐ脇を走り抜けていく。辺りはまだ真っ暗だけど、そこには間違いなく夜明けの気配が紛れ込んでいた。夜と朝の繋ぎ目を超えて、街はこれから少しずつ輪郭を取り戻していくのだろう。
 きっとそれはまったくもって平凡で、何の変哲も無い当たり前の光景なのだろうけど、俺にとってはひどく特別な朝だった。