「えー、東都大ミス有会、今年度も弾丸ミステリー捜索ツアーを敢行できまして、えー、嬉しい限りです。えー、はい、誠にありがとうございます」
ごほん、と咳払いを交えながら中心に立つひとりの男が缶ビールを掲げた。男の後ろの壁一面に嵌め込まれた大きな窓からはこのホテルのプライベートビーチが窺える。広い畳の宴会場だ。中心に立つのは東都大学の4回生であり、このミステリー捜索有志会の部長を務める男である。無精髭をそのままに、肩まで伸びたうねる髪をひとつに束ねた男は、手に持った缶をくるりと回し、この地でメジャーな星形マークのついたビールラベルを正面に向けて続けた。新一と、共に参加した黒羽はじっと座って男の話を聞いていた。
「今回の弾丸ミステリー捜索ツアーの舞台は南の島、沖縄です。飛行機を降りて約8時間、皆さんお疲れ様でした。えー、僕がこのミス有会に所属してから毎年参加しているこのツアーですが、皆さんご存知の通り団体割引を利用した格安旅行となるのが常だったのですが、えー、はい、今年は凄かったですね。レンタカー店では突然の立てこもり事件に遭遇! そしてスピード解決! シーサーの色つけ場では観光客を狙ったスリ師を摘発! ガラス工房近くでは露天商のぼったくり行為を暴き、無事正規の値段でこのお守りを手に入れることができました」
男が首元に吊るしたガラス玉を左手で持ち上げれば、「結局買ったんすか!」と野次が飛びドッと笑いが起きた。新一も思わず呆れた笑みを零す。
「だってこれ自体は素敵でしょ。沖縄だよ。琉球ガラスだよ、星の砂と龍のひげも入ってるんだって。このお守りをつけているだけで来年俺に降りかかる災難から俺を守ってくれるってあの兄ちゃんが」
「部長、部長。早く乾杯の音頭を」
男のアロハシャツの袖を引き、軌道を正したのは部員の男だった。
「ああ、失礼。そうそう、とにかくミス有会として有意義な活動ができたのは皆さんのおかげです。えー、特に今年はこのふたり。歩けばとにかくトラブルに遭遇、そして見逃すことは決してしない工藤と、それをフォローするかのように圧倒的コミュニケーション能力で人を丸め込む話術巧みな黒羽、お前たちがいたので刺激的で濃密な弾丸ツアーができました。感謝の拍手〜!!」
男が皆の視線を誘導し、それに合わせてパチパチと手を叩く音が一斉に上がった。ノリノリでウインクを返す黒羽を横目に、新一は軽く頭を下げる仕草を見せた。
「我々のヒーロー的な存在であるこの2名から一言いただきたいところですが、ビールも汗をかいてきたので……皆さん飲み物は? はいはい、オッケーね、んじゃ〜とにかく乾杯!」
かんぱ〜い、と太い声が揃って部屋に響く。持ち上げた缶ビールを揺らし、新一も部長やその他の部員、そうして黒羽と順に挨拶を交わす。堅苦しい形式ばったのは最初だけで、あとは各々好きに座って酒を楽しんでいた。
「みなさ〜ん、ちなみに今日のこのビールはレンタカー店の店長からの差し入れです。泡盛までもらっちゃいましたので、美味しく楽しくいただきましょう。海ぶどうとスパムはシーサーの店のおばちゃんからです」
部長の言葉に部員たちがほとんど叫ぶような声をあげ、部屋の中がより賑やかになる。がやがやと雑談する声がいろんなところから聞こえてきて、それぞれ楽しんでいるようだった。開始時から場所移動せず、座椅子に深く背を凭れた新一とその隣を陣取る黒羽にも部員たちは声をかけてくる。昼間の立てこもり事件の場で一般客を装った協力者の存在にどうして気づいたのかだとか、一体どんな声をかければスリ師が青い顔をしてスった財布を全部返してくるのだとか、部長が買ったお守りは本当に正規の値段なのかだとか、とにかく今日のミステリー捜索ツアーに関しての話題がじゃんじゃん出てきていた。時折笑い話を混ぜながら新一と黒羽が言葉を返せば、聞き手に回った部員たちは頷いたり手を叩いたりしながら盛り上がっていた。
「ほんとよかったな、お前らも沖縄に来れて。スケジュール合わせるの難しくて、参加できないって聞いてたけど」
近くにあった座椅子を引っ張り、新一の前に腰掛けた男が新しいビールのプルタブを開けた。プシュ、と弾ける音がして男が喉を鳴らす。
「いんや、俺は元々この旅行は来るつもりだったぜ。夏休みは特に予定入ってなかったし、一応部員だしさ。それに旅行は野郎だけって聞いて気が楽だったし」
「へぇへぇ、モテる男は言うことが違いますねぇ。俺なんか女の子不参加って聞いてガックリきたのに」
泣き真似をする男の横で、もう一人の部員が黒羽に話を振った。
「んじゃ、スケジュール難しいって言ってたのは黒羽だったのか? 来れてよかったな」
「おう……まぁな。工藤が行くって言うし、旅のしおり見たら楽しそうだったし。レンタカー借りて観光スポット回ってフルーツ食うって、最高の流れじゃん」
箸で切り分けたスパムをつまみながら言う黒羽に、新一が顔を伏せて小さく笑いを堪えた。目の前の男たちは旅の工程決めとしおり作成担当だったらしく、黒羽から褒められたのだと受け取って気をよくしたようで、新一の些細な変化には気付いていないようだった。唯一黒羽だけが男たちと会話を続けながら肘で脇腹を突いてきたが、顔をあげて黒羽の方へ視線を向ければ、ジトっと拗ねた目があってついにぶはっと吹き出してしまった。
「どしたん工藤」
新一の声に驚いて、ひとりの男が声をかける。
「いや、行程表は確かによかった。沖縄といえば水族館が有名なのに、どうして入れなかったんだ?」
「工藤っ」
そうなのだ。今回黒羽が参加を渋っていたのは理由はただひとつ。この旅行の行き先が沖縄で、沖縄といえばついてまわるのが黒羽の苦手な『魚』だったからだ。暇だったしたまには部の催しに参加するか、と言っていた新一に「本当に行く? 沖縄に? だって、沖縄といえばあそこだろ? アレがいるんだぞ?」と何度も声をかけてきたのだ。黒羽のスケジュールも空いていることを知っていた新一としては、行くだけ行って見たくないなら中に入らず周辺を散歩でもすればいいと思っていたので黒羽を連れていく気満々だったが、出来上がった旅のしおりを確認するとどこにも水族館の文字はなかった。そのことを黒羽に伝えた時の彼の喜びようと言ったら、「ほんと? やったー! 俺も行く! 絶対行く!」と、小さな子どもみたいにはしゃいでいてとても可愛らしかったのだ。
「あー、あそこ行くと滞在時間延びちゃうから、今回は無しって話でさ。部長から」
「へぇ、そうなのか」
黒羽が大の魚嫌いであることは新一をはじめ、ごく限られた友人しか知らない。部長がそこまで配慮したとは考えにくかった。とはいえ、東都大学ミステリー捜索有志会を立ち上げ、その名の通り有志会にもかかわらず学校から部費としての予算枠を確保している、見た目にそぐわず頭の切れる男である。新一と黒羽をセットで参加させるため、どこからか情報を仕入れこうなるように仕向けた可能性もゼロではない。
「なになに、俺がなんだって? お前らー、飲んでるぅ?」
突然新一と黒羽の隙間から聞こえた声に驚いてそちらを見ると、紙カップにロックアイスとなみなみ入った泡盛を揺らしながら部長がニッと笑っていた。
「俺はねえ、酒は好きなやつが飲んだらいいと思ってるんだけど、せっかくご厚意でいただいたものだからね、さ、飲め飲め」
ごくごくとまるで水でも飲むかのように自分のカップを空にした部長は、フィルムの包装紙の中から人数分のカップを取り出して自分のものと合わせて並べ、ロックアイスを適当に入れ泡盛を注ぎ出す。旅のしおり班の男たちも酒好きと見えて、ヒューヒューと口笛を鳴らした。部長はいつも通り健康的な顔色で飄々としていたが、言動と行動はどうみても酔っ払いのそれだった。
「黒羽、泡盛って度数高くて水割りが基本って……」
「ああ、あの部長タチわりぃぞ。相当強いが基本絡み酒だ。そこそこのところで切り上げるぞ」
「ほいほい、おふたりさんもさぁ〜どうぞ!」
こそっと耳打ちされた言葉に小さく頷いて、部長から差し出されたカップを新一は笑顔で受け取った。
◇◇◇
「ん……」
生温い風を肌に感じ、目を開けた。畳の上からゆっくり体を起こせば、部屋の至るところに寝転がる男がいた。丸まったり手足を広げたりうつ伏せだったりと様々で、辺りには飲みかけの酒類やつまみが放置されたままになっている。まさしく惨状だった。低いいびきがそこらじゅうから聞こえる。
「お、工藤起きた?」
「黒羽」
声のする方へ視線を向ければ、ミネラルウォーターのペットボトルを持った黒羽がいた。渡されるまま新一はそれを手にしてキャップを回す。一度口をつければ思っていたより喉が渇いていたようで、一気に半分以上飲んでしまった。
「俺もさっき起きたんだけど、部屋中酒くさくってさ。窓開けたとこ」
「あー……うん……、現場よりひどい」
新一の横にしゃがみ込み、黒羽が新一の手の中にあるペットボトルを掴んだ。中身を全て飲み干したあと、空になったボトルを部屋の角に置かれたゴミ袋に向かって放り投げる。見事ゴールを決めた黒羽の動きを半覚醒の意識で追いかけていたら、黒羽が空いた手のひらで新一の髪を撫でた。
「宴会場と寝るところ、襖で仕切ってもらっといて正解だったな。向こうは酒臭くねえし、多少静かでここより快適だ」
元々団体旅行であるから、宿泊部屋は大広間の一室であった。この10人近くの参加者ほぼ全員が酔い潰れている飲み会の会場はその大広間を半分に区切った宴会場であり、襖の向こう側には事前に人数分の布団を敷いてもらっていたのだ。
「ああ、なるほど、こうなることを見越してたのか……あれ、部長だけいない? どこいったんだ?」
黒羽に相槌を打ちながら、室内を見渡してこの場を先導していた人物が見当たらないことに気づく。黒羽へ視線をよこすと、乾いた笑いが漏れ聞こえた。
「あの人すげーぞ。一人だけちゃんと浴衣に着替えて、向こうの布団の中で寝てた」
親指で襖を示しながら黒羽が言う。呆れているのか感心しているのか、判断が難しい表情だった。
「あーいうタイプ、敵に回したくねえよなあ。抜けてるように見えてちゃっかりしてる」
「ああ、ぶつかるとやりづれぇぞ、あのタイプは。純粋に楽しんでるからな」
黒羽が小さくため息を吐いた。2回生の新一たちは、部長との付き合いも2年目になる。サークル活動や有志会に属するつもりがなかった新一がこの東都大ミス有会に属しているのも、あの部長に上手く乗せられて判を押してしまったからだった。その話を聞いた、大学で出会ったばかりの友人である黒羽がまるで保護者のように追いかけて部員になり、ふたりの予定が合えば緩く活動に参加していた。活動内容は映画鑑賞や街歩き、美術館鑑賞や飲み会など、ミステリーに出会えそうなものであればなんでもOKという緩さだった。去年は一度も合宿など日を跨ぐ活動に参加できなかったが、泊まり込みの活動はこの夏の旅行以外にも年に数回あるらしい。
「ま、嫌いじゃないだろ」
「お互いにね」
黒羽と顔を向かい合わせ、ふふっと笑いあった。それから今日の何が楽しかったとか、面白かったとか、そんなことをふたりで話した。普通の音量で会話していても、寝転がる誰一人として起きることはなかった。弾丸ツアーと銘打っているくらいだ、早朝からの移動疲れもあったのだろう。頭の中に残っていた酒の余韻が落ち着いたころ、新一は黒羽にひとつの提案をした。
「なあ、ちょっと外歩かねえ? せっかくだし、潮風にあたるのも悪くないだろ」
「いいなそれ」
「よし、んじゃ行こうぜ」
黒羽が笑って頷いたのを見て、新一はホッとした。ホテルのチェックアウトは午前7時だと聞いている。明日も早いのだからもう寝よう、と断られる可能性も考えていたので、黒羽が乗り気で返答してくれたことが嬉しかった。沖縄の夜の海は星空が眩いことで有名だ。せっかく黒羽とこの地まで来たのだから、一緒にその景色を見てみたかった。
ビーチサンダルをひっかけて、宿泊客が自由に出入りできる裏口からホテルの外に出た。ビーチまでの細い通路は並んで歩くのには狭く、新一は黒羽のあとをついて歩いた。舗装されていない自然のままの小道には木の枝や欠けた石がゴロゴロしていた。ホテルの裏口につけられた照明の光がかろうじて届き、不安定な足元を照らしている。道を覆うように両横から生えて伸びた木の葉が、湿度を孕んだ生温い風で緩やかに揺れていた。
「あー、この空気。沖縄、って感じだよなあ」
「んだよそれ、そのままじゃねーか……うわっ、おい、急に止まんなって、」
感慨深げに呟いた黒羽に、新一が思わず笑ったとき、急に黒羽が立ち止まった。気づくのが遅かったせいで思い切り黒羽の背中に顔をぶつけた新一が、鼻を摩りながら黒羽の首に腕を回し、その肩に顎を乗せたとき。
「すっげぇ……」
目前に広がるのは、真っ暗な海の上で煌々と光る小さな星の数々だった。星空ならさっきまでも見ていたはずなのに、そこはもう別世界だった。昼間はあんなに青々としていた海が闇に溶け込んで、その天井には無数の煌めきが散り散りと、ひとつひとつが確かな輝きを持っている。ざぶん、ざぶんと近づいては遠くに消えていく波の音。そこに重ねるような、小さな虫の声。芸術を鑑賞するセンスの乏しい新一にもわかるほど、圧倒的な感動がそこにはあった。
「綺麗だな、ここは」
せっかく望み通り黒羽と同じ美しい景色を見ることができたのに、確かにじんとくるような感動はあるのに、ありふれた言葉しか出てこなくて新一は情けなくなった。ちらりと黒羽を見たけれど、一般人より夜目が効く新一にも黒羽がどんな顔をしているのかは見えなかった。
「……うん」
小さな感嘆の声があがる。そうして、黒羽はしばらくその景色を眺めていた。
「黒羽、もっと近づいて見ようぜ。しばらくは砂浜のはずだし」
星空に見入っている黒羽の頬をつつくと、弾かれるように黒羽が肩を揺らした。
「……ああ、うん、そうだな」
小道から出て砂の上を歩いていくと、進む度に足音が聞こえた。ようやく広いスペースを歩けるようになったので、新一は黒羽の横に並んで歩いた。海と砂浜の境目は曖昧だった。ゆっくり砂を踏む黒羽に合わせ、新一もゆっくりと前に進む。腕時計を一瞬点滅させて時間を確認すると、ちょうど日付が変わったところだった。
「座ろうぜ」
「ん」
波の音が随分近くから聞こえるようになって、新一が声をかけると黒羽が立ち止まって頷いた。腰を下ろす前にしゃがんで砂の上に手を触れて、水が滲みていないのを確認する。
「大丈夫、ここはまだ浜だから」
くす、と小さな笑い声が聞こえ、新一が驚いて顔をあげた。
「黒羽、オメー見えてんのか」
「名探偵より、夜目は効く方なんでね」
「まあそりゃそうだな」
黒羽快斗は大怪盗だった男だ。夜の闇に紛れることが得意な、白を纏う男だった。そんなことは随分前から知っている。大学で出会うずっと前から、その存在を知っていたのだ。
「いい夜だなあ、本当に」
先に座り込んだ黒羽の横に、新一も腰をつけた。どちらからともなく寄せ合って、互いの体の端だけ触れ合っている。友人にしては近すぎる距離であることを、新一は理解していた。いつからかこの不自然な距離が自然な距離になって、ふたりの間では普通のことになっていた。
「ああ、そうだな」
「俺、昼間の海も結構好きでさ。まあ、アレがアレだからあんまり近づいたりはしないんだけど。どうして海が青いのか気になって、昔親父に聞いたことがあって」
「ああ」
アレとアレの部分を魚と嫌いに置き換えて新一は頷いた。
「あれは海が青いんじゃなくて、海水が太陽の光のなかにある青を反射してるんだって教えてもらって。太陽のなかに青色なんか見えないから、俺は混乱してたんだけど、親父に言われたんだ。太陽の光のなかにある青色は見えないかもしれないけど、それを映し出してるのが海と空なんだって。そこにあるものだけじゃなくて、何かを通して見えてくることもたくさんあるんだ、だから目を瞑ってはいけないよ、って教わって。俺、大人になってさ、その親父の言葉を思い出すことがたくさんある」
黒羽の口調は穏やかで、優しい声だった。新一は相槌を打ちながら黒羽の話を聞いた。左肩がじんわりとあたたかくて、頬に触れる黒羽の横髪は柔らかかった。
「工藤、俺が今日この景色を見たときにいちばん初めに思ったこと、わかる?」
「へ?」
黒羽の突然の問いかけに、不意打ちだった新一は狼狽えて首を横向けた。幾分か夜になれた目が、黒羽の顔をはっきりと視界に捉える。黒羽の唇は新一の顔の目の前で小さく動いて、黒羽の声がはっきりと聞こえた。
「好きだ」
ざぶん、とあれだけ近くで聞こえていた波の音が、途端に止んだ。今この瞬間、この空間だけを切り取ったかのような静けさだった。スローモーションで世界が動いて、黒羽がゆっくり新一に近づいてくる。逃げることも、避けることもできたけれど、新一はその場から動かなかった。そうして、次に新一が感じたのは唇に触れる生温い感触だった。
「……ずっと、言っていいのか、言わない方がいいのか、迷ってた」
「……迷ってたわりに、告白してすぐ、キ、キスすんのかよ……」
唇が離れた代わりに、左手の上に手を重ねて置かれ、新一の肩がびくりと揺れた。頬に熱が集まっていく。
「……だってオメー、逃げなかったじゃねーか」
「そりゃ、急にあんなこと言われて、びっくりして動けないだけかもしれないだろっ」
「……あのなあ、誤魔化し下手なオメーのことなんだ、顔見てたらわかるっての」
ふっ、と柔らかい笑みを溢した黒羽に、握り込まれた手がじんじんと熱くなる。ずっと、最適な距離を探していた。近づきすぎた過去には、どうしても触れられない場所があった。時を経て同い年で並んで見える景色がある今は、その届かなかった場所に手を伸ばすことができる。けれど、そこまで行くともう戻れない。知らない今には戻れない。不自然が自然になったあと、その均衡を崩すリスクは大きかった。だからこそ躊躇って、見えていないふりをしていた。けれど気持ちは素直で、どこまでも惹かれ続けていた。
ずっと心のどこかでそのことに気づきながら、頭のどこかで理屈をこねて、あと一歩踏み出す勇気を持てずにいた。たぶんそれは、どちらか一方だけの話ではない。
「工藤、好きだ。好き。ねえ、工藤は? 俺のこと、どう思ってる?」
黒羽の額が新一の額と触れ合う。慈しみに満ちた動作だった。新一は、本当に心が動かされたときに、言葉がなくても伝わるものがあることを知った。
「……、これでわかるだろ、」
ばーろ、と呟きながら、新一がそっと体を伸ばして黒羽の唇に自分のそれを触れさせた。しっとりと、汗ばんだ唇が接触を交わす。すぐに訪れた3度目のキスで初めて、新一は唇を薄く開いた。
午前零時すぎの波は穏やかに、星灯の下で揺れていた。