きみが眠るまでは午前一時:スピカ

 夜遊びにハマっている。


「終わりましたよ」
 目を覚ますと、スクリーンにエンドロールが流れている。
 声をかけてきた男は、前列のシートの向こうに立っている。空の紙コップを持ち、透明なゴミ袋を引きずっているので、清掃中の係員だとすぐにわかった。館内はまだ薄暗いが、他に客がいないので、身体を傾けたまま昏々と眠り続ける新一を起こしにきてくれたのだろう。物語は中盤以降の記憶がない。
 重いまぶたを持ち上げ、何度かまばたきをした。スクリーンの放つ鈍色の光がやけに目を射る。
「すみません。もう出ます」
 足に力を込め、席を立った。腕時計を見ると、午前一時を過ぎている。
「タクシーを呼びましょうか」
 係員が言った。
「そんなサービスがあるんですか」
「ええ、常連のお客さんに、個人タクシーの運転手をしている方がいるんです。週末のレイトショーは終電を過ぎてしまうことが多いので、その方が近くで待っててくださるんですよ。だから、もしよければ、呼びましょうか」
 新一は少し考え、申し出を受けることにした。ここから自宅までは、電車で一時間ほどだ。歩くには遠い。タクシーがつかまらなければ、二十四時間営業のネットカフェかカラオケで、始発まで仮眠をとろうと思っていた。
「すぐに来ますから、外へ出て待っていてください」
「わかりました。ありがとうございます」
 タクシーの車種と色、ナンバーを告げると、係員はゴミ袋を引きずって出ていった。新一は言われるまま、エレベータで一階へ下り、正面玄関を出た。もぎりのスタッフは既におらず、古びた木製のカウンターとガラスのショウケースには色褪せた布がかかっている。
 表通りには、まばらに人の姿があった。終電は行ってしまったが、この辺りのガード下には居酒屋やラーメン屋やバルなどが軒を連ねているのだ。
 係員の言った通り、タクシーはほとんどすぐにやってきた。音もなく滑り込んできた黒のハイブリッドカーに乗り込んで行き先を告げると、運転手はカーナビを操作しながら「随分遠くからいらしたんですね」と言った。
「米花町には、立派なシネコンがあるでしょう」
「偶々立ち寄っただけなんです。仕事の帰りに、ふらっと……、まだ、帰りたくなくて」
 帰りたくなくて、という言葉はいやにセンチメンタルな響きを持っていた。新一は言い直したくなったが、他にうまい言葉は見つからなかった。
 新一はきょう、大学が終わると同時に目暮に請われ、この街で起きた殺人事件の現場に直行した。遺体の状態が悪く、現場もひどく荒らされていたために、犯人を突き止めるのには時間がかかった。日付をまたぐことなく解決できたのは工藤くんのおかげだ、と目暮は言った。新一はいいえ、そんなことは、みなさんの協力のおかげです、と殊勝な言葉を口にした。
 確かに推理は冴え渡っていた。あの暗がりから真実を拾い上げるには、新一でなければ途方もない時間がかかったに違いない。真実に指先が触れた時には、喜びを感じた。しかし、新一の胸を躍らせ、我を忘れさせ、夢中にさせるようなものは、そこにはなかった。そんな謎にお目にかかれることは、滅多にないのだ。奇跡にでもめぐり合わない限り。
 新一は、軽い空腹を覚えながら一課の面々と別れ、帰途についた。その時ふと、駅裏に佇むさびれたミニシアターの看板が目に留まった。客の姿はほとんどなく、入り口から見えるもぎりのカウンターには初老の男性がひとりぽつんと座っていた。入り口横の掲示板に貼られた上映スケジュールによれば、スクリーンは三つあるようだった。黄ばんだガラス越しにさらに見ようとすると、初老の男性が「五分後に三番のスクリーン」とびっくりするような大声で言った。新一は、「あ、はい、すみません」とよくわからない返事をし、チケットを買ってエレベータに乗った。百席ほどの館内には、案の定、新一の他に客の姿は見当たらなかった。
「何をご覧になったんですか」
 前を向いたまま、運転手は、いくつかのマイナーな映画のタイトルを挙げてみせた。車は走り出していた。よくしゃべる男だな、と思いながら、新一は彼が挙げたタイトルのひとつを口にした。すると、今度は感想を訊かれた。途中から寝ていたのでよくわからない、結末も知らない、と正直に答える。ミニシアターの常連客というなら、相当の映画好きだろう、寝ていたなどと言ったら機嫌を悪くするかもしれないが、それでこのおしゃべりが止むのなら構わない。しかし、運転手はそんな素振りは見せず「結末を知りたいですか」と言った。後部座席から、運転手の顔はミラー越しにも見えない。
「……そうですね。教えてください」
 もう一度、同じ映画を観に行くことはないだろう。
 運転手は非常に話がうまかった。主観を入れずまとめられた粗筋はわかりやすく、物語の結末はシンプルに語られた。新一は感心すると共に、少し、がっかりした。映画館で目を覚ました時、バックに流れていた音楽は荘厳で壮麗で、結末もそれ相応のものだと想像していたからだ。
「よくあることですよ。どんなに壮大に思えても、言葉にしてしまうとひどくチープになる」
 知っている。よくあることだ。他人の人生に触れ、罪を暴き出し真実を語ることを生業とする新一は、よく知っているのだ、そんなことは。
 タクシーは夜の街を静かに走り続けた。会話が途切れた後、短いあいだだが新一はまた眠っていたようだった。気が付くと窓の外には見慣れた住宅街が流れている。ほどなくして、工藤邸が見えてきた。閉ざされた門扉の前で、タクシーはぴたりと停まった。礼を言って車を降りる。
「ありがとうございました。楽しかったです」
「こちらこそ。楽しかったです。工藤さん」
「ぼくをご存じですか」
 新一はドアに手をかけると、身を屈めた。運転席の方を窺う。相変わらず運転手の顔は見えなかったが、声のようすからすると、父親くらいの年齢の男だろうと思われた。
「以前、テレビで拝見しましたよ。あの時はまだ、高校の制服を着ておられましたが。仕事というのは、捜査に協力されていたんですか」
「ええ、そうです。説明が難しいもので、仕事と言うことにしてるんです」
「随分お疲れのようでした」
「すみません、眠ってしまって」
「行き先はわかっていたので大丈夫ですよ」
 新一は、最寄りのコンビニの前で降りるつもりで行き先を伝えたはずだった。眠っていたので、新一を知っていた運転手が気を利かせたのだろう。
「ゆっくり休んでください。それでは、おやすみなさい」
 その時、一瞬だけ運転手の横顔が見えた。
「……はい、それでは。おやすみなさい」
 新一は目を伏せた。走り去るタクシーを見送り、門扉をくぐる。眠ったせいか、話したせいか、それとも峠を越してしまったのか、空腹はいくらかましになっていた。


「終わりましたよ」
 目を覚ますと、スクリーンにエンドロールが流れている。
 スクリーンは、傾いていた。いや、違う。傾いているのは新一の視界だ。身体は右に傾ぎ、首はさらに右に傾いている。普通なら、そのまま倒れていてもおかしくない角度。
 新一はゆっくりと身体を起こした。右隣のシートに座っている男の肩が、新一がずるずると倒れてしまうのを防いでいた。
「……すみません」
 目をこすりながら謝ると、男が笑った。
「よく眠ってましたね。いまにも倒れそうだったので、思わず隣に座っちゃいました」
 それは、先週新一を起こした係員だった。透明のビニル袋を持っている。館内には、きょうも客の姿は見当たらなかった。腕時計を見ると、午前一時を過ぎている。
「いつから……」
「隣に座ったのは、さっきですよ。映画は、途中から観てました。このレイトショーがきょうの最後の上映なんですが、他にお客もいないし、掃除も終わっちゃったので」
 最後列の端で観ていたら、二、三列前でいまにも倒れそうにゆらゆらと揺れる新一の頭が気になって気になって、仕方なかった。それで、物語が終わりエンドロールが流れ始めるとすぐに、隣に移動してきたのだ、と彼は言った。
「隣に座ったとたん、倒れてきました。間に合ってよかった」
「はあ、すみません……」
 新一は、もう一度謝った。きょうは、前回よりも長く起きていたと思うのだが、それでも結末の記憶は全くない。主人公の相棒が拉致された後、主人公が犯人と疑われ始めたシーンが最後の記憶である。
 暗いスクリーンに、細かな文字がゆっくりと流れていく。かかっている音楽はどこか物悲しい。エンドロールは、終わりに近づいていた。
「説明しましょうか」
「え」
「先週は、タクシーの運転手から聞いたんでしょう? だったら、きょうはオレが結末を話しましょうか。映画には興味がなくても、物語の決着には興味があるでしょう」
 新一はスクリーンから隣の男に視線を移した。青みがかった紫の瞳が、うす暗い館内でもやわらかく光を湛えている。
「……そうですね。教えてください」
 新一は頷いた。映画が観たくて、ここへやってきたわけではなかった。依頼人と別れた後、帰る気になれずにいた新一の脳裏にふと浮かんだのが、このミニシアターだったというだけだ。
 係員の男は、じゃあ少しだけ待ってて、と言ってゴミ袋をひきずって消え、すぐに戻ってきた。その手には、ゴミ袋の代わりに飲み物の紙コップがふたつあった。ひとつを新一に渡して、「手が冷えてたから」と言う。中身はコーヒーだった。指摘されて初めて、新一は自分の身体がすこし、冷えていたことに気がついた。紙コップ越しの熱が、じんわりと指先をあたためていく。
「いくらですか」
「いりませんよ。これはサービス。それからさ、」
 と、男は言う。
「敬語は、やめにしねえ? オレたち、多分タメくらいじゃないかな」
 確かに、男は新一と同じ年頃に見えた。訊けば、ちょうど二十歳になる年だという。
「同い年だ」
「やっぱり」
 男は笑顔を見せ、新一の隣に座り直した。ふ、と甘い香りが漂う。彼の紙コップの中身は、ココアのようだった。
 コーヒーに口をつけながら、彼が映画の粗筋と結末を語るのを聞いた。彼は先週の運転手に負けず劣らず、話がうまかった。映画の始まる前、新一は軽い空腹を覚えていたのだが、眠ったせいか、コーヒーのせいか、はたまた峠を越してしまったのか、結末を聞き終える頃には空腹はいくらかましになっていた。
 新一はコーヒーと話の礼を言って、ミニシアターを後にした。男は先週と同じようにタクシーを呼んでくれたのだが、運転手は新一がすでに映画の結末を知っていると聞かされたのか、ほとんど話さなかった。新一は最寄りのコンビニの前でタクシーを降り、朝食用にきゅうりとハムのサンドウィッチとゆで卵、それからグレープフルーツのシロップ漬けを買い、帰途に就いた。まだ帰りたくない、という気持ちは、消え失せていた。


 その日からだ。月に一、二度、週末になると、ミニシアターに足を運ぶのが習慣になった。休日を除けば金曜の夜は学生である新一にとって依頼を入れやすい時間帯で、大学が終わって依頼を片付けた後、電車を乗り継いでいくとちょうどレイトショーに滑り込むことができた。映画のタイトルはなんだってよかった。週末の夜、特に事件を解決した後ともなれば疲れはピークで、ほとんどの場合、新一は眠ってしまうからだ。
 目を覚ますと、二回に一回は隣に彼が座っている。新一はその肩にもたれて眠っていて、たいてい、スクリーンにはエンドロールが流れていた。ゆっくりと下へ、または上へとすべっていく細かな文字列を眺めながら、新一は瞬きをする。
 ああ、また、まだ、ここから動けないのだ、と思いながら。
 その後、男が映画の粗筋と結末について話すのを聞く。彼は話がうまいだけでなく声真似が得意で、しかも口にするセリフに迷いがなかった。それが日本語であっても英語であっても、仏語や独語であっても、だ。まるでネイティブスピーカーのように流暢に話し、物語を再現した。
「ひとりで吹き替えができるんじゃねえか?」
 新一が半ば呆れて言うと、男は「今度やってみせようか」と笑った。
 男の名は、黒羽といった。黒羽快斗。ミニシアターでアルバイトをしている大学生。
 初めの数回は、館内で話していた。やがて、ロビーへ出て、硬い長いすに座って話すようになった。彼のアルバイトが終わるのを待ち、映画館の外へ出て話すようになるまでに、そう時間はかからなかった。ミニシアターの近くには、深夜帯にも営業している飲食店が多い。居酒屋やファミレスにふらりと入り、軽く食事をしながら彼の話を聞く。新一は五月に二十歳になったが、それからも酒を飲むことはなかった。彼が六月に誕生日を迎えるというので、ふたりで酒を飲むのはそれからにしよう、と約束をしたからだ。新一が初めて彼に起こされたのは冬だったが、いま、季節は春を過ぎ、梅雨を迎えていた。
「誕生日、ほしいものあるか?」
 ふと訊いたのは、六月の半ば頃のことだ。
「オレはなにもあげてないのに?」
「前にコーヒー奢ってもらったし」
「あのくらい。忘れていいぜ」
「あれから毎回、楽しませてもらってる」
「オレもだよ。工藤と話すのは楽しい。奇跡みたいに」
「大げさだな」
 そんなことはない、と黒羽が首を振る。
「次はいつ来るんだろうって、いつも思ってる」
 その時ふたりは、居酒屋の小さな木箱のようなテーブルを挟んで向かい合っていた。じゃがいものグラタン、きんぴらごぼう、カプレーゼ、ウーロン茶、そしてコーラを隙間なく乗せたテーブルの下で、何度も膝がぶつかるくらいの距離だった。
 黒羽が店内を見回した。深夜一時を過ぎた居酒屋は、どこか倦んだような空気があった。客席は半分ほどが埋まっており、酒が十分にまわった人々は緩慢に笑いさざめきあっている。もうすぐ午前二時だ。取り決めはないが、どちらかがそろそろ出るか、と言い出すことになっている時刻。
「工藤」
 黒羽が軽く伸びあがり、ほんの少し、腰を浮かしたのが見えた。首の後ろに熱い手のひらがひたりと触れる。新一は、ウーロン茶を飲もうとグラスの取っ手を掴んだところだった。動けず、そのまま彼からのキスを受けた。
 青みがかった紫の目と、ずっと視線が合っている。
「……そろそろ出るか」
 新一はキスの直前に頭に浮かんでいたセリフをそのまま言った。黒羽が一瞬目を見開いて、それから噴き出した。はは、と声を上げた後で、腹を抱えてくくくと笑いだす。
「笑うなよ……」
「それは無理ってもんだぜ」
 客や店員の視線を感じる。新一はくちびるをとがらせ、今度は「出るぞ」と言った。まだ笑っている黒羽が、うん、と頷いた。目の端にちょっと涙をためて。
 店を出ると、湿度を含んだなまぬるい風の中を泳ぐように歩いた。黒羽はこの近くに住んでいるらしい。新一がタクシーをつかまえるのを待って、じゃあまた、と別れるのが習慣だった。
 タクシーはすぐにつかまった。じゃあまた、と黒羽が言う。タクシーのドアはもう開いていたが、すぐには乗り込まず、新一は振り返った。
「工藤?」
 ものも言わず、新一は黒羽のくちびるにキスをした。
 黒羽はびっくりしていた。
「ほしいもの、考えとけよな」
 気まずさをごまかすために言う。顔が熱くてたまらなかった。そのままタクシーに乗り込もうとすると、腕を掴まれた。
「いらない。いま、もらったから」
「欲がねえな」
 新一が笑うと、黒羽は「オレは欲深いよ」と言った。
「そのうちわかる。オレが教えるから」
 それからは、時折、黒羽とキスをするようになった。週末、遅くまで帰ってこない新一に、隣家の少女は「夜遊びもほどほどにしなさいよ」と言った。そんなんじゃねえ、と新一は返したが、内心では確かにこれは夜遊びというのだろうと思っていた。夜遊びだし、多分、火遊びだ。
 目を覚ましてエンドロールの流れるスクリーンを見るたび、停滞した気持ちになってしまう。


 新一が元の姿に戻ったのは、高校二年の終わりのことだ。慎重に時期を見極め、満を持して解毒薬を飲んだ。結果、身体は元に戻ったが意識不明となり、目を覚ましたのは二か月後だった。
 新一が眠っているあいだに世間では様々な出来事が起きていたが、中でもメディアが大きく取り上げて騒いだのは、怪盗キッドが最後の予告状を出したことだった。彼は、とあるビッグジュエルを盗んだまま消えてしまい、以降、どんなに鈴木次郎吉が煽ろうとも、姿を現さなかった。月下の奇術師は消えてしまった。宝石を盗んでは返す、または盗まずに去る大怪盗の目的がなんであったのか、そんな彼が最後に真実盗んだ宝石がなんであったのか、一切わからないままになってしまった。
 新一は、呆然とした。ひどく落胆している自分自身に対しても、驚きを隠せなかった。
 まるで、映画の途中で眠ってしまったようだった。目を覚ました時にはすべては過ぎ去っており、結末はわからない。できるのはエンドロールを眺めることだけで、もやもやとした飢餓にも似た思いを消す術がわからない。
 新一はずっと、動けずにいる。


 黒羽の誕生日は、日曜日だった。前日の土曜日は、朝からずっと雨が降っていた。
 土曜のレイトショーが終わり、また眠ってしまっていた新一が目を覚ますと隣には黒羽がいた。静かにエンドロールが流れる中、ふたりはなにも言わず、くちびるを合わせた。映画は一時五分に終わることになっていたから、もう日曜になっているはずだった。彼の誕生日だ。
 約束通り、初めてふたりで酒を飲んだ。いつも行く居酒屋は、その二軒隣に雰囲気のいいバルがあったのだが、ふたりは迷わなかった。黒羽がよくチョコレートアイスを最後に頼むのを知っていたので、きっとそうするだろうと思っていたら、やはり、ビールで乾杯をした後にモーツァルトミルクを頼んだ。チョコレートリキュールを使った甘いカクテルだ。新一はモヒートを頼み、二度目の乾杯をした。
「オレさ、そろそろバイト辞めようと思って」
 二杯目の酒がなくなる頃、黒羽が言った。
「掛け持ちしてるバイトの方で、もう少し日を増やせないかって頼まれたんだ」
 ほら、オレって器用だし話もうまいし顔もいいから引く手あまたで、と黒羽は笑った。
 三杯目を頼む前に、黒羽が「そろそろ出るか」と言った。時計を見たが、まだ午前二時にはなっていない。
「きょう、部屋の掃除してから出てきた。いつもそう散らかってるってわけじゃねえけど」
「……」
 鈍い自覚のある新一も、この言葉の意味を察することはできた。酒のせいではなく、身体が熱かった。黒羽がまっすぐに新一を見ている。
「行く」
 来るか、とは言われていないけれどそう答えた。答えながら、オレは欲深いよ、と言った黒羽を思い出していた。


 雨音を聞きながら歩き、やがて雨音を聞きながらキスをした。彼のマンションは店から歩いて十分ほどの距離にあって、玄関に入るなり、どちらからともなくくちびるを合わせた。
 抱き締めると、雨の匂いがした。腰を抱かれ、目を閉じて雨音を聞く。黒羽のくちびるが、指が、頬に触れ、りんかくをなぞる。新一は顔をずらし、そのくちびるにくちびるを押しあてた。
「なあ、名前、呼んでいい?」
「……だめだ」
「なんで」
「バイト、辞めるんだろ……、もう会わないのに、」
 また未練を残すようなことを、許したくなかった。ただでさえ、過去に一度、許してしまっているのに。
 新一の心をひきつけて離さない奇跡とめぐり会ったことを、受け入れてしまっているのに。
「バイト辞めたら、もう会ってくれねえの?」
 カチ、と音がして、玄関に灯りがついた。黒羽が新一の顔のすぐ横の壁に、手をついていた。真剣なまなざしをして新一を見ている。
 昼と夜の境界の空を映したような、やわらかく深い色。この目は人を魅了し、惑わせる力を持っている。少なくとも、新一にとっては。
「……そのつもりで、オレに会いに来たんだろう。怪盗キッド」
 鼻先の触れそうな距離に、黒羽の顔がある。新一とよく似た、けれど新一にはない奔放な少年の無邪気さや青年の色気をまとう顔立ち。記憶より、彼は少しだけ背が高い。身体の厚みも、筋肉のおうとつも。時間が流れたのだ。新一が眠っているあいだに彼は肩の荷を下ろし、そうして身軽になった身体がいよいよ変わっていこうとしている。
「怪盗キッドはもう消えたんだと、……オレが眠っているあいだに消えたんだと教えるために、来たんだろう。違うのか」
「怪盗キッドは消えたよ。仕事を終えたからな」
 怪盗であったことを暗に認めるような発言だった。けれど、彼は初めから隠すつもりがなかったのだ。出会った時、他に客がいないのに空の紙コップを持って現れた姿を見て、そう思った。元大怪盗が映画館の係員を装い、物語の終わったことを知らせるために近づいてきたのだと。あの日、新一を乗せた運転手は彼と同じ色の瞳をしていた。いくら工藤新一が有名だと言っても、自宅まで迷わず送り届けられる者がそうそういるわけはない。
「でも、オレは消えねえよ。欲深いって言っただろ」
「それなら、なんのために」
「なんのためって、そりゃ、決まってるだろ。名探偵」
 黒羽が新一のまぶたにキスをする。左に、次に右に。くすぐったくて、思わず目を細める。
「もう一度、始めるためだよ。映画が終わっちまっても、エンドロールが流れても、その先に物語は続いてる。……オレは続けたいと思ってる」
 本当は、最後の予告状を出す前に会いに行ったのだと黒羽は言った。病院に忍び込んで、窓越しに寝顔を見たと。
「会えて嬉しいぜ、名探偵。すっかり大きくなったな」
 黒羽は身体のかたちを確かめるみたいに、新一の背を抱き寄せた。首筋を、肩を、背骨のひとつひとつのおうとつをなぞりながら、くちびるにキスをくり返す。
「……オレは、執念深いぞ」
 キスを返しながら、ささやいた。
「うん、知ってる」
 重なる黒羽のくちびるが笑っている。
「名探偵のおそろしさは、世界中の誰よりも知ってるつもりだぜ」
「捕まえたら、逃がさねえ」
 ぎゅう、とことさらに強く抱き返した。
「願ってもない」
「……最後の仕事の話も、聞かせろよな」
 他人の口から語られることが癪で、新一は事件どころか彼が最後に出した予告状すら見ることを拒んだ。あれからもう、二年だ。新一は長い、長いエンドロールを見続けていた。
「うん、聞いてほしい。……全部、教えるよ。オレのこれまでの人生、完璧な吹き替え付きで」
 鼻先を寄せ合い、目を見交わしながら、新一は笑った。いつだかの約束を、ふたりともちゃんと覚えている。
「……でもその前に、さわらせて」
 ねだるような、甘えるような声が耳もとでささやく。熱を帯びたふたつの身体が、まずはとてもわかりやすい交感を求めている。
 新一は頷いた。結末も、その先も、そのまた先も、すべてを知りたくて知りたくてたまらず、身体が疼いている。相手がこの男ならば、それはもはや、永遠に尽きぬ恋の証だ。
 目を閉じると、眼裏にもうすっかり見慣れたスクリーンが浮かんだ。
 光は消え、音楽は止んでいる。そこに観客は、ひとりもいなかった。

おわり