パンドラの選択:猫又

「貴方、気をつけなさいね」
そう、灰原に言われた音声が風化する前に、気をつけなければならない事態に遭遇している己を呪う。塞がれた視界、後ろ手に固められた腕、知り合いだと油断しているからこんな目に合うのだ。
(いや)
知り合いだからこそ、気を抜いてはいけなかった。
「よう、名探偵。火遊びも程々にしないと火傷するぜ?」
「……KID」
ちょうどいい負荷がかかっている身体は、動かせばどこか痛めそうで動かすことをためらってしまう。視界からの情報が奪われた中で聴覚が鋭敏になっていく。それもまた手の内か。こんな状態で大音量でも聞かせられた日には脳が混乱してもおかしくはない。
耳元に生ぬるい風。唇が寄せられているのだと僅かな温度から察知する。
「はなせ」
解放しろ、と、いう意味が解っているだろうに、彼は同じ音の別の意味としたらしい。内容のない言葉ばかりが耳の内を滑っていく。今日の天気、風向き、綺羅びやかなネオン、雑踏の隙間。
「名探偵に会えたのはラッキーと言うかアンラッキーと言うか。どう思う?」
「本人に聞くか。――アンラッキーだぜ。お前を監獄に叩き込んでやれるからな」
「この体勢でそういう。そんなとこも――」
声が小さくて聞き取れなかった。聞き返そうとしたところで腕が開放される。そのまま視界を隠した腕を掴もうと動いたところで、意識が刈り取られた。




***




怪盗と探偵の出会いはいつにカウントすればいいのか迷うところだ。
例えば、対決のみというのなら、KIDが時計塔を盗もうとしたときが相応しいのだろう。
例えば、顔を合わせたときというのなら、もっと事態は複雑だ。工藤新一としてか江戸川コナンとしてか、取りうる可能性によって時期は変わる。
例えば、例えば……仮定はいくつも浮かび上がり、そのどれもに答えを返しながら、納得のいく答えがいまだ出せないことも承知している。
その最たるものが怪盗であるKIDの目的と対応であり、探偵である新一を悩ませるものであった。
(お人好しなのは確かなんだけどな)
あの夜、たまたま遭遇したKIDとのやり取りを思い出す。一般的な犯罪者像に属さない彼は、怪盗紳士と巷で呼ばれファンも多くいる。殺しや暴力を振るわない、見るものを楽しませ、夢のような一幕を演出する、というところから好意的に見るものは多い。多いだけで、犯罪者であることには変わりないのだから、否定的な者ももちろんいた。新一の立場としては、肯定はしない。第一、暴力はKIDだって振るう。その対象者がごく限られたものであるのは承知の上で、そのなかに己が含まれているのは認識している。かといって、それが肯定しない理由ではない。彼が盗みとそれにまつわる犯罪を行っている。それだけで十分だ。
だが、しかし。
新一が関わることの多い殺人とは遠い彼を、半ば身内として捉えているのも、無くはない。
利用し利用される関係は、お互いの利益を超えて情を生み出し、送られる暗号解読と盗みの攻防は、まるで文を交わすかのごとく、徐々にお互いの心理を暴いていく。
窓の外は夜。
とっぷりと暮れた夜空に、青白い雲が漂っている。その裏に隠れた月は輪郭をおぼろにして、弱々しい光を地上へと投げかけていた。
「盗みの目的、か」
今までの犯罪履歴をまとめたファイルを手繰りながら、落とされた言葉は無意識だ。新一としての姿を取り戻した後、とくに考えるようになったその真実を未だ解明できては居ない。
何かを探している。そのために盗みを繰り返す。
現時点の情報で立てられる予測はそこ止まりで、何故探しているのか、探し当てたならばどうするのか――最近、以前のような気安さが無くなったのは。
ページを捲っていた手が止まる。そこに乗っている情報は、KIDの犯行の中でいつもと毛色の違うものだ。


犠牲が、出た。


KIDが直接手を下したわけではないことは証明されている。別の事件とバッティングしたか、求めるターゲットが同じであったのかは証拠不十分で明らかになっていないが、確かに、人が一人死んでいた。ただ、死んだ人物がある国で指名手配を受けた者であったことが事態をややこしくした。国同士の調整、事実確認。二課から公安へと引き継がれた事も合わせて、KIDの事件、というよりは別のものとして意識には残る。そうしてその後処理はまだ終わっておらず、そのときに盗まれた宝石も、返されては居ない。
殺人からは遠いKID。
(本当に?)
彼自身が手をかけることは無いだろう。だが、彼を取り巻くものが真に優しいかと言えばそうではない。
返されない宝石――それが妙に引っかかる。
目的のものならば、その後KIDは消えてもおかしくなかった。しかし未だ犯行は繰り返され、その後の盗品は全て返却されている。そして、公にはされていないが、あの事件の後からKIDの犯行時には最低でも一人、犯罪に関わったものが検挙されていた。偶然と片付けるには、数が多すぎる。
(違う、そうじゃない)
思考を、無理やり引き戻す。あの夜、いつもの攻防とは違い『偶然』KIDを見つけた。声を掛ける前に向こうもこちらに気づき、瞬きの間に視界を奪われ拘束された。その後解放されたものの、問い詰める前に首へと衝撃を受け、気づいたら自宅の床に倒れていた。一通のメッセージと共に。
ファイルを閉じる。心を慰めるために過去を見ていたわけではない。
そのまま立ち上がり、所定の位置に手にしたものを戻した後、コナンの頃に愛用していた麻酔銃を手にとった。
「招待、受けてやるよ。KID」




***




「真実が欲しければ、牡丹の咲き誇る刻においでください。美味しいからといってまっすぐに進まないように。鼠に出し抜かれてしまいますよ」
残した文言を一字一句違わず口に出して、唇を引き上げる。
探偵の大好きな謎と真実を転がしているのだ。どこか空虚になってしまったこの身体を満たす、スリリングで愉快なものにしなくては、怪盗で居続ける意味がない。
「お前はもう出演者だぜぇ……」
観客になどさせてやらない。舞台に上がったのなら踊るだけだ。正義も仕立て上げられた幻想で、善悪の判断が溶けて消えていく。
「なあ、切り裂いてくれよ名探偵」
真実はどこにある。真実とはなんだ。
コツン、こつんと、階段から音がする。高層ビルの十階、ゆっくりと上がるエレベータがKIDの前を通り過ぎていった。照明の消えた廊下にごろごろと転がる物体。手元にはボタン。
気配はよく知ったもの。彼ならば、きっと――
「っ、」
飛来してくるものを紙一重で避ける。何であるのか、を、確認するより先に握っていたボタンを押した。廊下に転がった鉄の塊から吹き上がる煙。白いそれを吸い込まないようにしながら廊下を駆ける。
数メートルもいけば、開いておいたドアが見える。外の非常階段へと続くそこをくぐり抜け、閉まらないようにしていたストッパを蹴り飛ばす。ドアの隙間からこちらへと走ってくる姿が、煙へ遮られていった。
(さて次は)
考えながら階段を駆け上がる。鉄筋の赤い通路がカンカンと音をたて、吹き付ける風に白いマントが煽られた。二階ほど上がったところで締めた扉の開く音がする。袖口から取り出したカードキーをかざし、室内へとふたたび戻る。これでドアを壊すか、もと来た道を戻って階段を使うしか無くなった。




***




「時間稼ぎができた、とか思ってるんだろうけどよ」
煙に視界を遮られながらドアを開け、非常階段を登り、目の前には今。ロックされたドアが立ちふさがっている。
「なんの用意もせずに来たわけじゃないっての」
懐から管理者より借り受けたカードキーを取り出し、かざす。至極まともな正攻法だ。偽造したのだろうKIDより、よっぽど正当ルートを辿っている。
ハッキングで破る可能性も、上の階から回り込む可能性も、もしかしたら合鍵があることまで想定済みかもしれない。カードキーが必要なのはこの階とその上の階で、更に上はただの鍵だ。
ピッキング道具は一応所持していた。カードキーをわざわざ用意せず、上階から下階へと追い込んだほうが、ハンググライダーを封じる意味では上策。それを取らないのは、出来るだけ他人との接触を絶ちたいため。
(怪我人、出したくないからな)
その思考ルートはKIDにもあるだろう。乗るか乗らないかは彼のさじ加減だが、お人好しなKIDならば乗ってくると踏んでいた。
急いては事を仕損じる。
ゆっくりとドアを押し、細く外界から光を室内へと入れた。
何も動きはない。足で蹴りつけ即座に距離を取る。瞬間、光るものが三つ、開いた闇から飛び出して背後の手すりへと突き刺さった。
足音は聞こえない。待ち受けているのか、罠を張ってすでに居ないか。ジリジリとした緊張感に唇を舐め、トランプのクイーンを手すりから引き抜く。開いたドアが緩慢に閉まっていく。完全に閉まる前、一人通れる幅を残したその隙間に、地面ギリギリに身をかがめ飛び込んだ。
頭上に風の音。腕を振ってトランプを飛ばす。
カンッ、と、軽い音がした。ずらされた銃身から放たれたトランプが壁に刺さる。それを確認して立ち上がった。
「罠のほうか」
ここにナイフでもあればワイヤーを切って、KIDお得意のトランプ銃を持ち出せるのだが、生憎ここにナイフはない。
(とでもなると思ったか)
ナイフはないがトランプならある。鉄にすら食い込むトランプが。




***




(さーって、手にとってくれるかね)
半々の賭けだろう。勝率は決して高くない。
階段を上がる。駆け上がる。結果を確認したい気持ちはあるが、時は有限。あの場に居たとして目ざとい名探偵が見逃してくれるはずはない。
十三階、最上階の二歩手前に到着する。エレベータが一階に止まっているのを横目で見ながら廊下を奥へと進む。
構造が、少し複雑なビルだった。十階から外階段で十二階、そこから内に入って一階上の十三階。この工程を踏まないと十四階には辿り着けない。十二階から繋がる十三階と、十一階から繋がる十三階。十三階は二重構造になっており、十二階から繋がる十三階からしか十四階への階段はない。
つまり、KIDの誘いに乗らず、上階から追い詰めようとしたところで、辿り着けはしないのだ。
建築資料に記載されていないのは確認済み。
名探偵なら追ってくると踏んだ上での、もし追ってこなかった際にも同じところへたどり着くようなバックアップ。
「最初からノーゲームなんだ」
辿り着く先が同じなら、八百長の親戚でしか無い。それを親切に告げてやる義理はないけれど、この声は届いていることだろう。
「なあ、名探偵?」
階段の終わりから踊り場を見下ろす。そこには冷たい銃口をこちらに向ける、工藤新一の姿があった。
にっと口角を釣り上げ、こちらも同じ銃口を彼へと向ける。
「聞かせてもらおうか」
「推理を放棄するとは貴方らしくない」
「あの夜、何をしていた」
切り込む口調に笑みは深まる。楽しい、という感情が膨れ上がって持て余すほどだ。
「お前が見せたくなかったものはなんだ!」
「それが、貴方が望む真実?」
違うだろう、という――己の願望込みで問いかける。怖ろしく綺麗な月光が窓の外から射し込んでいた。
あの夜、名探偵の視界を奪ったのは、KID自身を見られたくなかったからだ。白いマントに白い服装、白いハットにモノクル。KIDだと思って声をかけようとした名探偵の「背後」から、黒い服装を身にまとった快斗は工藤新一を拘束した。
「あれはお前じゃない」
「ええ、そうです」
「拘束される瞬間まで、あいつは目の前に居た。背後から襲撃はできない」
「瞬きの間に移動したのかもしれませんよ」
「もう一度聞く。あの夜、お前は俺から何を奪った?俺からなにを隠そうとした?」
こころが、ふるえる。
同じ拳銃、交わらない平行線、意識を刈り取った名探偵におれは。
「貴方の、時間を」
引き金を引いた。
飛び出したトランプが名探偵へと向かう。同じ動作を期待したが、彼は銃を撃つことはなく、銃身でトランプを弾く。その動作のまま投げ捨てられたことを残念に思いながら、床を蹴った。
一息の間に懐へはいりこみ、顎下へと銃口を突きつける。モノクル越しに懐かしい時計型麻酔銃の穴が見えた。
「こうして生身で会うのは十二年ぶりかあ?いい面するようになったじゃねえか」
「若作りもいいかげんにしろよ」
「お互い様だっての」
くっくと喉で笑う。日付が変わる直前の時間、けれどそれすらもう、俺達には関係がない。
(狡い男だ)
永遠の鬼ごっこを望んで、答えを壊した。
「時間はたっぷりあるんだ。何ラウンドでも、勝ちが決まるまで勝負しようぜ。名探偵が勝ったら、どんなことでも答えてやるよ」
投げ捨てられたトランプ銃から煙が吹き出す。二人の姿を覆い隠すほどの大量の煙。それでも微動だにしない名探偵へ、愛しさのこもった瞳を向けて。
「パンドラが俺たちを選んだんだ」
真実の一端を、恭しく差し出した。