その街において、夜とは光であった。
階段状のデッキに腰掛ければ、ぬるい風が頬を撫でる。赤道直下のその国はいつだって常夏で、吹き付ける風は少しの潮と熱を孕んでいた。様々な言語がそのときを待ちわびて期待をつぶやくなかで、新一はひとりぼうっと人を待っていた。とは言っても、そいつと別れたのなんてものの十分前だが。
何百人と集まった人の群れはさながら回遊魚のごとく、同じ方向を向いている。ゆるやかに段差のつけられたウッドデッキはマリーナベイに向けて低くなっていた。待ち人たっての希望でイベントプラザの最前列に陣取った新一は、胡座をかいて座っている。ガムが落ちているなんて心配は、この国では必要がないことだった。
夜の帳はすっかりと降りているが、視界はちっとも暗くない。高層ビルのフロアライトに、ホテルを彩るイルミネーション。湾の向かい側にはこの国のシンボルが光を浴びて立っている。夜だから水は吐き出さないけれど。
以前見上げたときはコナン(ではなく、アーサーヒライだったが)の目線だったから、今回はそれに比べたら小さく見えるのだろうかと思っていた。けれど予想に反して、新一たちを出迎えた獅子の国のシンボルはあの頃と同じように大きく見えて、あの頃と同じように、盛大に水を吹き出していた。
「おまたせ」
「……っ、つめた」
不意に気配を感じたかと思えば、一人分空けていたスペースにどかりと男が座り込む。ちょっと飲み物買ってくるわと言って、背後のショッピングモールに消えていった男だ。どこで買ったのか、ペットボトルや紙パックではなく、コンビニのアイスコーヒーのようなプラスチックパックを手に持っている。
「どこで買ったんだ?」
「ん? ああ、一階のフードコートで」
「結構遠くね?」
「どーしても飲みたくて、ひとっ走り行ってきた」
揺らして見せた赤い液体(断じて血ではない。断じて)からはしゃらりと氷の揺れる音がした。スイカジュースに違いない。昼に買ってから相当気に入ったらしく、すでに三度目のリピートだ。腹を壊しかねないペースである。
「新一の分もあるぜ」
「ジュースか? シンガポールの飲みもの甘いんだよな」
「そういうと思って、コーヒー。砂糖も抜いてもらったから、これなら飲めんだろ」
くるりと手を翻して快斗の左手に現れたのは、おなじくプラスチックのカップ。なみなみと入った茶色い液体に思わず苦笑してしまう。
「どこに入れてたんだよ……」
ご丁寧にストローまで差されている。プラスチックのふたを嵌めただけの容器は、まっすぐに持ち運ばないと中身が漏れてしまうだろうに。新一の呟きを聞いて、恋人は得意げににんまりと笑った。
「俺もマジックの腕が上がったんでね」
「上がったってレベルか?」
マリーナベイでのイベントにマジシャンとして正式に招待されるような現役大学生がいるかよ、と新一は思わず苦笑してしまう。
「いつぞやと違って真っ白なオファーだから、気が楽でいいよなあ」
「とかいって、今回も俺を連れてきてんじゃねえか」
「そりゃ、今度こそゆっくり新一と観光できるからに決まってんだろ。恋人として」
「ばっ……」
最後のひとことだけ、潜めるような声で耳元に囁かれる。シロップのような甘みを帯びた声色に、新一はとっさに耳を押さえた。手に持ったままのコーヒーが揺れて、ぱしゃりと音を立てる。
「何やってんだ、外だぞ外」
そう、外なのだ。おまけに左右や後ろには大量の観光客。男友達の戯れにしてもいささか距離感が近いだろうに。
「問題ねえって、周りに日本人がいないのは確認済みだし、見られたとしてもすぐに忘れちまうよ」
スイカジュースを啜りながら、快斗は左手首の腕時計に視線を移し、文字盤が新一にも見えるように腕を差し出した。九時まで、あと三分。抜かりのないような、大雑把なような。あっけらかんとした恋人の物言いは、異国のせいかいつもよりも浮かれた響きを持っていた。
周囲のざわめきは熱を帯びて、徐々に大きくなっていく。マリーナベイの水面はゆるやかに揺蕩って、地上の光を映し出しては時折きらりと光っていた。ショーの始まりを予感させるように、小さな水の柱がふつりふつりと跳ねては水面へと戻っていった。
ふたりの正面、二十メートルほど離れた水面には小さなマーライオンのようなオブジェクトが設置されている。ガラスのプリズム、あれが広場の各所に仕掛けられたプロジェクターの映像を反射する役割を果たしている、と快斗が言っていた。これがショーの肝なのだ、と。一流のエンターテイナーとして、なにか感じるところがあるらしい。
シンガポールの夜には楽しみが多い。一夜では到底全てを回りきれないほどだ。たとえば深夜の動物園をワゴンで走る、大迫力のナイトサファリだとか。いま二人の居るレーザーと噴水のショー、スペクトラだとか。それから、ここからマリーナ・ベイ・サンズを挟んで向かい側、植物園のスーパーツリーがライトアップされる、OCBCガーデンラプソディだとか。いつぞやの夜、海賊がロケランで燃やしたアレのことである。
けれど前回この国を訪れたとき、新一も快斗もそれらを観ることは叶わなかった。無論怪盗は仕事なのだけれども。一日目の夜は横に座る男に駆り出されてどこぞのホテルの屋上から怪盗の仕事を見守る羽目になったし、二日目は園子がひき逃げに遭って病院に駆けつけていた。三日目に至ってはもはや改めて言葉にする必要はないだろう。視界に入れていたが、それどころではなかったのだ。
マリーナベイサンズの屋上を彩っていたレーザーが角度を変えた。空をぐるりと横切って反射板に光が集まる。舞台中央が赤く染まり、広場のあちこちに設置されているスピーカーから、心音のようなリズムが響き渡る。
数々のアクティビティの中から、ふたりはこのショーを選んだ。
「ーー始まるぜ」
音と光の奔流に飲み込まれゆく刹那、マジシャンの声が心地よく染みていく。
魔法は静寂から始まる。海に囲まれた小さな島国、豊かな水を象徴するようなやわらかいピアノのメロディと、それに呼応して溢れ出す噴水。白、水色、青とライトアップされて高く噴き出す水に、ストリングスが被さって幻想的で壮大な空間を作り上げる。
誰しもが、息を潜めてショーに魅入っていた。水と音、そして光が織りなす世界に、否応なしに引き込まれていく。
「……すげぇ……」
ぽろりと言葉が溢れた。湾の上で次々と移り変わる演出に目が離せない。次は何が起こるのだろうという予想をする思考すらだんだんと薄れていく感覚は、隣に座る男が魅せる奇術にも似ていた。
「綺麗だな」
隣で、新一によく似た、けれど新一とは異なる声が囁きかえしてくる。そっと横目で様子を伺えば、ゆるりと目を細めた恋人の姿があった。その深い色の瞳に、水色の光が反射する。
ふたりの目の前で、大きく噴水が立ち上る。細かな水の飛沫を感じた。
「あのとき、小さなオメーを肩車してたときは、必死だったからなあ。こんなすげえもんだなんて、気付く余裕もなかった」
まぶしいものを見るやわらかい目尻と、エンターテイナーとしての矜恃を湛えた深い蒼の瞳に、新一も口元を緩めた。
「俺ら、どの辺にいたんだっけ。……あ、あそこか」
右斜め前を指させば快斗がそうだな、と肯首した。マーライオン広場とマリーナベイサンズは、マリーナベイを挟んでちょうど反対側に位置している。あのときふたりが居たのは、マリーナベイから向かって右側の遊歩道だ。リシたちの狙いに気付いて、タンカーを止めようと走り出していた時のこと。
「そうそう。んで、あそこの船着場から飛び立って、そこからはまあ……このへんを飛び回ったわけだ」
上を見上げれば、緑色のレーザーライトと白色のライトがぐるぐると回転してマリーナベイを彩り、シンガポールの夜空をいっそう明るいものに見せていた。この国では地上の光の方が眩くて、色鮮やかだ。
光と水のショーを眺めながら、快斗が買ってきたコーヒーを飲む。実のところ新一の好みよりは少しだけ薄いけれど、これも旅の味というものだろう。
「……そういえばさあ」
同じようにスイカジュースを転がしていた快斗が、前を見据えたまま、思い出したように呟いた。
「ん?」
「あん時、なんで左手だって分かったんだ?」
「あんときって……ああ、富の噴水でのことか」
あのブルーサファイアを巡る事件のとき、新一はキッドと行動を共にすることが多かった。当時は大変不本意だったけれども、こいつしか頼れなかったと言うのもある。なにせあのときの新一は毛利探偵事務所に居候していた江戸川コナンですらなく、工藤新一とシンガポールで出会った、ただの現地の子どもだったのだから。
二度の夜を超えた後のこと。コナンは黒幕であったリシの家で、キッドはキッドでそれぞれ情報収集を行い、朝食を食べ終わった(途中で放棄したとも言うが)ところで合流した。そして、互いが得た情報を共有しあったのが、ここから少し離れたところにある富の噴水だった。そして、思考がまとまらない新一に、キッドがココナツウォーターを差し出してくれたのだった。マジックで。
どうみても手のひらに収まるはずのないココナツウォーターを造作もなく取り出して見せる手腕には内心感心していたが、どちらの拳に何があるのかなんて、推理する必要もなくわかったことだった。
彼の怪盗としての矜恃を考えれば、簡単に検討がつく。
「簡単だ。オメーがあのとき負傷したのが左腕だった、それだけだよ」
思ったよりもやわらかい声が出たことに、新一自身が驚いた。隣に座る快斗の気配がわずかに揺れて、視線がこちらを向いたことを肌で感じ取る。
「新一……」
「前日の夕方、オメーはシンガポールの警察に銃で撃たれて、園子が運び込まれた病院の屋上で手当てをしてた。……俺は見ちまったけど、本当は誰にも気付かせるつもりなかったんだろ」
「……そりゃあまあ。キッドが手負いだなんて知れたら、仕事がやりにくくなるからな」
眩い灯りとは一線を画した、あの静かな夜を思い出す。今日とは比べ物にならない夜だった。不夜の騒めきとは程遠く、エアコンの室外機の音だけが静かに響く屋上でひとり包帯を巻く後ろ姿を見たときに、新一は何を思っただろう。
彼にしては珍しく焦っていたし、ミスもあった。本人の落ち度だ。けれども、結果として銃で撃たれて傷を負ったことに、心が揺れないはずがなかった。
「それに、あの時キッドは俺にさえ怪我の詳細を見せなかった。怪盗としてのプライドと線引きが、お前にそうさせたんだろう。たとえ無意識だったとしてもな」
あの夜、翻されたマントを思い出す。今はもう無くなった、真っ白に引かれた線引きを。右腕に快斗の体温を感じながら、新一は推理を締めくくりにかかった。
「そして、お前は左手にココナツウォーターを仕込んだ。怪我を目撃した俺に向けて、左手の動きに支障はないことを無意識でも示そうとしたって訳だよ」
「……なるほどなあ」
不意に、右肩に重みを感じた。慣れた体温だった。境界線はもう、どこにもない。
ふう、と息を吐いた快斗の口元が緩むのを、視界の端で見た。
「……ったく、名探偵は目敏くて困るねぇ」
「そうでなきゃ探偵はつとまんねえよ」
「はは、そうかもな」
快斗の左肩に触れている。服の下に隠された、その肌を知っている。最初の処理が雑だった故に少々傷跡は残っているが、マジックにも、もちろん日常生活にも、何ら支障はない。彼と再会した後に、新一はたしかにその事実に安堵した。
「……完治してよかった」
「たりめーだろ、俺を誰だと思ってんだ」
快活に笑う快斗の顔が、スペクトラの色鮮やかな光に照らされる。ステージに立ち、スポットライトを受ける姿とはまた違う顔をしていた。あの時よりも何倍も成長した、新一からみても良い男の顔付きだった。すぐ調子に乗るところは玉に瑕だけれど。
「バーロ、普通は怪我した翌日にあんな無茶な動きするもんじゃねえだろ」
「オメーが普通を問うか? 第一、あの日の何割かはオメーの指示だろ。屋上プール吹っ飛ばせっつったのオメーだぜ」
だから少し諭そうとも思ったのに、逆に痛いところを突かれて新一は思わずぷいと顔をそむけた。ちくしょう。慣れない一般論なんて言うもんじゃなかった。めーたんてーはすぐ無茶するところ変わんねえしなあ……と快斗は呆れた声で言いつのる。
「ま、でも、俺に無茶振りしてくれんのは嬉しいけどな」
「え?」
「だって、オメーはその力量がないやつにはんなこと言わねえだろ。俺なら何とかしてくれるって思うから、容赦無く要求してくれるんだって、俺は思ってっけど?」
目の前が赤く染まったのは、噴水を彩るライトアップのカラーチェンジによるものか、それとも急に吹き込まれた口説きにも似た文句のせいか。こいつ、当時にもまして気障になったのではなかろうか。思考回路が鈍り始めた新一に追い討ちをかけるように、ちゅ、と頬に感じるやわらかな感触と、リップ音。
「、オメーなぁ……」
頬を手で押さえながら向き直れば、にんまりとした恋人がそこにはいた。紫紺の瞳にシンガポールの星屑が混ざり込み、繊細にきらめく。
「大丈夫、誰も見てねぇよ」
みんなスペクトラに夢中だから。そう囁いて、快斗の腕が腰に回る。シャツ越しに感じる腕の感触は、夜でも三十度近い熱気のせいかほんの少しだけ汗ばんでいた。
こいつ、ひとりで先に二人だけの世界に入りやがった。周りに何百人見物客が居ると思っているのだろうか。みんな見てないとはいえど、ここ最前列だぞ。色々と文句は思い浮かぶ。
それでも無理やりに引き剥がす気になれなかったあたり、新一もきっと同罪だ。そして紛れもなく重症だ。
十五分ほどのショーは、クライマックスにむけていよいよ盛り上がっていく。ふたりの背後にそびえ立つマリーナベイサンズのスカイデッキからも、幾筋ものレーザーが放たれてメインステージを輝かせる。観客を呑み込む静かな渦は、どんどんと熱量を増していった。激しく盛り上がるエレキギターの旋律と響き渡る重低音は、それほどまでにパワーを持っている。
これが、ひとりの青年実業家と彼を恨む男の手から逃れ、蘇った獅子の国の姿なのだ。マリーナ湾を彩る圧倒的な水と光を目の当たりにして、新一は心からそう思う。
「無事に復興して、本当に良かったよな」
「ほんとにな。鈴木のじーさん様様だぜ」
湾の向こうの高層ビル群に、立ち並ぶ高級ホテル。マーライオンパークに、シンガポール・フライヤー。一時は炎に燃えたガーデンズ・バイ・ザ・ベイ。そして上階部が丸ごと吹き飛んで湾に落下したマリーナ・ベイサンズまで。シンガポールの街は生まれ変わることなく、もういちどその姿を取り戻した。そのどれもが眩しい電飾を灯して、シンガポールの夜を引き立てている。
スペクトラの噴水ショーは四部構成だ。そのフィナーレを飾る第四部のテーマは「シンガポールの未来」。光とエネルギーに満ち満ちた、圧巻の光景が目の前で繰り広げられる。これがきっと、この国の望んだ姿なのだろう。
あれから数年振りに、この国を訪れた。本物の工藤新一として、キッドではない黒羽快斗と共に、恋人として。昼間も色んなところをまわった。マリーナベイの散策に中華街でのランチ、アラブ街のモールでのショッピング。どこも人々の活気と明るさに溢れていた。
昼を照らす陽光の強さは、夜になっても光に変わって、醒めることなどなく。
「……なあ、快斗」
「うん?」
「ちゃんと観られて、よかったな」
全ての噴射口から水が飛び出し、マリーナベイが白く染まる。恋人となった好敵手が、眩しげに瞳を細めた。その向こうに、この男は何を見ているだろう。
「……ああ、そうだな」
勢いよく上がる白い水柱。新一はその彼方に、かつてこの空を駆けた白いハンググライダーと、その腕の中の小さな少年を見た。
「あ、でも」
「?」
「もう無茶振りは勘弁しろよな? いまハンググライダー持ってねえから」
その言葉に、新一は思わず吹き出した。白い水飛沫が消えて、拍手が沸き起こる。
「バーロ、無いなら別の手段で何とかしろ」
新一の言い草に、快斗も勢いよく破顔した。同じものを見ていたことは、言わなくても伝わるだろう。
そうであれば良い。
十数秒続いた拍手も徐々にまばらになり、周囲に座る人たちが順番に立ち上がってイベントスペースを去っていく。ある人はこの後遅めの夕食を取るのかもしれない。またある人はバーでお酒を嗜むかもしれない。シンガポールの夜はまだ始まったばかりだ。
この時間、この場所で一瞬だけ糸が交わり、また分かれていく。以前この国を訪れた時、ふたりの糸は幾度目かの交差を迎えていたけれど、帰国すれば分かたれるものだった。
けれど、今は違う。ふたりで、共に居るのだ。
場所取りも含めれば、おおよそ一時間振りに立ち上がる。靴の裏にじんと重みが伝わってきた。ひょっとしたら少しばかり痺れているかもしれないけれど、まあ歩いているうちにどうとでもなるだろう。
ゆるやかな曲線を描くショッピングモールの天井付近には、淡い紫色のライトが灯っていた。かと思えば、紫から青に、水色にと、徐々に色彩を変えていく。穏やかに、けれど色鮮やかに。
「さて。この後どうする? 部屋に戻るか? それともどっか行きたいところあるか?」
ふたりに充てがわれた部屋はタワー3、マリーナベイ側の高層階だ。カーテンを開けば一面にシンガポールの華やかな夜景が広がる、シンプルでいて洗練された部屋。バスタブがあるのも良い。アーサーヒライとして転がり込んだ工藤新一の部屋には、シャワーブースしか無かったものだから。
部屋で過ごすのも良いな、と思っていた新一だったけれども、どうやら快斗は少しばかり違ったらしい。
「それなら、ナイトプール行こうぜ」
ショッピングモール越しに背後を見上げれば、三本の棟からなる高層ホテル。そしてその上に船を乗せたような、ここにしかない形のスカイデッキと屋上プール。宿泊者しか入れないその空間は、世界中の旅好きの憧れでもあるだろう。落ち着いて気品に満ちた空間は、家族で楽しむにも良ければ、恋人同士のムードを高めるのにも打ってつけだ。新一とゆっくり時間を過ごしたい、ともういちど付け加えた快斗の声には、わずかに甘さが滲んでいる。
「……しょうがねえなあ。明日はオメーあんまり時間ねえもんな」
「新一のそういうとこ、俺大好き」
「だからどこだよ、そういうとこって」
明日の夜、マリーナベイでは黒羽快斗のマジックショーが行われる。朝食を取った後は、最終打ち合わせにリハーサルにと、彼のスケジュールはいっぱいだった。恋人としての時間を過ごすなら、たしかに今夜が最適だろうと判断したまでなのだが。
マリーナベイから踵を返して、ホテルへと繋がるプロムナードに足を向ける。エスカレーターで地下一階に降りて、高級ブランドの連なるショッピングモールを歩いていけば、ホテルエントランスへの道に繋がっていく。
ホテルに着けば、エレベーターだ。一棟あたり六基用意されている大型エレベーターに乗って、ふたりの部屋へと向かう。高層階だから乗り換えも必要だ。
「新一は前入れなかったからなあ。アダルトプールで大人のデートと洒落込もうぜ」
「なんだそのいかがわしい名前」
「ほんとに書いてんだって。水深がちょっとだけ深いの。子供が入らないようにだと思うけど」
「紛らわしい言い方すんなよ……」
ショッピングモールへの入り口のガラス戸を、快斗が開ける。その瞬間、ふわりと南国の風が吹き抜けた。後ろを振り返る。風が通り過ぎていった方向へ。
そこに在るのは、新一がかつてこの男と身体を張って守り抜いた、きらきらと輝く地上の星たち。
もういちど訪れたふたりをあたたかく迎え入れてくれた、光の街の姿だった。