金星:透湖

 退屈にさらなる退屈を上塗りしたような教養英語の授業が終わると、停滞した空気を打ち破るように大教室のあちこちから伸びをする声が聞こえてくる。新一もまたすっかり凝り固まった背筋を伸ばしてから、ペンケースに筆記用具を次々に仕舞い込んでいく。
 このところ込み入った事件に関わることが多く、大学に丸一日顔を出したのは久々のことだった。授業はただの座学で、事件と違って頭をフル回転させることはないし、思い切り体を動かして不審者を追い掛けることもない。とは言え、九十分間じっと座っているのはなかなか辛いものがあった。窓の方に目を向ければ、随分前に日が沈んだのか外はすっかり深い色に落ちている。
「工藤君。もし良かったらこの後一緒に夕飯でもどうだい?」
 横でとんとんとテキストをまとめる白馬に声を掛けられ、新一は視線を教室の方に戻す。夕飯という言葉を聞いて、ようやく自分も腹が減っていることに気づいた。本日最終の講義だったから、そろそろ空腹を覚えても無理はない時間だ。
「いいな。近場でどっか行くか」
 白馬とこうして顔を合わせるのも暫くぶりで、積もる話もある。
「なんだか工藤君とは会うのも久しぶりな気がするよ。なかなか大学に来れていないようだったから」
「確かに最近は忙しかったけど、その前は白馬だってバタついてただろ? お互い様っつーことだ」
 言いながら新一もテキストをバッグの中に押し込んでいく。するとバッグの底の方で、何か小さな紙のようなものがかさりと音を立てた。
「ん?」
 レシートでも入っていただろうか。紙の正体を探ろうと、一度入れたテキストを再び持ち上げた新一に、白馬が怪訝そうな声を向ける。
「どうしたんだい?」
「あ、いや、何か入ってるみたいで……」
 指がつまみ上げたのは見知らぬ濃紺のメモ用紙だ。
 全く身に覚えのないそれは、まるでくじ引きのように丁寧に正方形に折り畳まれていた。新一はぴくりと眉を動かす。
 テキストは今日の講義に合わせて、今朝自宅で用意してきた。その時にはこんなものは入っていなかった。そして荷物は講義中ずっと自分の隣の席に置いていた。当然ながら誰かが容易に触れられる状態ではない。
 と、なると――。
「困ったものだね。メモの中身を見なくても、これを入れた犯人が先に分かってしまうんだから」
 白馬も同じように眉を顰めて深々と溜息をつく。特に最後のふたコマはずっと白馬と一緒に行動していた。探偵二人に全く気取られることなく、こんなメモ用紙を滑り込ませることができる人物。新一も白馬も、たった一人しか心当たりがない。
 緩く首を振って濃紺の紙を開く。細い銀色のペンで、二行だけ短い数式が書いてあった。
「……はは、参ったな。こんなの久しぶりだ」
「そう言う割に嬉しそうだけれど、工藤君」
 白馬に指摘されて、新一は苦笑いを零した。早くもわくわくし始めていることは否定できない。手製の暗号は素っ気ないカードに印字してあることがほとんどだったが、稀にこうして手書きのものが送られることがあった。
 夜空のような濃紺の紙に、星屑を思わせる銀の手書きの文字。それは新一を謎の世界に誘うグリーティングカードのようにさえ思える。
 快斗だ。こんなことをするのは、黒羽快斗しかいない。
 新一は仕舞いかけたペンケースとノートを取り出して、ざっと二行の数式を書き出した。こういったものは、シンプルであればあるほど解くのが難しいと知っている。
「……白馬、飯の前にちょっとだけ手伝ってくれないか?」
「ふふ。もちろんだよ。僕たちにとってはこれが前菜みたいな節もあるしね」
 幸いなことに今日は二人がかりでの挑戦だ。あっという間に解けてしまうだろう、と淡い笑みを湛えながら新一はペンをくるりと軽快に回す。



「……ったく、これくらいのこと伝えるなら普通に連絡しろ」
「あっれえ? 思った以上に早かったな」
「すっとぼけんな。俺が白馬と一緒にいるの分かってやったんだろ?」
 無事に暗号を解いた新一は、その足でよく知ったマンションを訪ねていた。合鍵で躊躇いなくドアを開け、勝手知ったる部屋にづかづかと上がり込む。家主は廊下に備え付けられたキッチンで菜箸を持ったまま、きょとんとした表情で新一を出迎えてくれた。
 白馬との夕食の約束は暗号を解いた時点で断らざるを得なかった。
 なぜなら暗号には、『十九時に俺ん家』と書かれていたからである。思わず白馬が脱力したほどのふざけた答えだった。
「数式。どうだった?」
 ボーダーのエプロンをつけた快斗が、フライパンから目を離さずに問う。まるで子供だ。自分が仕掛けた悪戯の感想を知りたくて、うずうずした声色になっている。
「ん。まあまあ楽しめたぜ」
 前菜くらいには。と付け加えて、新一は部屋の中央に置かれたローテーブルに腰を下ろす。
 大学生が住むありきたりな間取りの1Kは、狭すぎるというわけではないが、何もかもがこじんまりとしている。廊下と居室を区切るドアを開け放してしまえば、鼻歌を歌いながら料理に勤しむ快斗の姿がよく見えた。何を作っているのだろう。ぱっと料理名が浮かばないくらいには様々な匂いが混じり合っている。
「んなことより腹減った。白馬との約束断ってきちまったんだから、相応のモン食わせてくれないと割に合わねえぞ」
 この時間に家に呼ぶということは、一緒に夕飯を食べようということなのだろう。
 ――それも二人きりで。
 これは別に暗号に記されていたことではない。新一と快斗との関係を鑑みれば当然のことだった。何しろ二人は恋人同士なのだから。
「ちょっと待ってろって。なんてったって今日はコース料理なんだから、一品一品ゆっくり出してえの」
「コース料理?」
 今度は新一の方がきょとんとする番だった。片目を瞑ってみせる恋人に呆けた瞬きを返す。数式を前菜と喩えたのはほんの冗談のつもりだったのに、快斗は初めからそうする予定だったらしい。よっ、という軽快な掛け声と共にターナーで何かをひっくり返してみせる。
「そ。最近ゆっくりできてなかっただろ? たまにはこういうのもいいかなって」
 そう言って火を止めて、踊るような足取りで冷蔵庫からガラス製の皿を取り出した。
 事前に作っていたのだろう、バジルの乗った色鮮やかなカプレーゼが姿を現す。キッチンから居室までものの数歩で辿り着き、『サーブする』という表現が似合う動きでゆっくりと皿を置く。ローテーブルの真ん中に出されると、すぐに空腹をくすぐる冷えたオリーブオイルの香りが漂ってきた。
「で、これが一品目」
 一種の職業病なのかもしれないが、快斗はいちいち仕草が目を引く男だ。最近はマジックバーで働いていることもあり、日常の動きさえもどんどん洗練されてきている。
 快斗は新一の前と、対面の自分の席に箸置きまでセッティングし、勿体ぶった動きで揃いの箸を乗せる。普段は使わないものを出してくるあたり、相当に気合が入っていると見えた。箸置きも色違いの箸も、新一がこの家を頻繁に訪れるようになってから買い揃えたものだ。
「へえ……メインは何なんだ?」
「それはまだ内緒。ちなみに、こっから先の料理はただじゃ出て来ないぜ。ほれ」
 快斗はエプロンのポケットをごそごそと探り、新一の前に細長い紙を差し出す。
「なんだコレ?」
 ストローの包み紙かと思うような細くしなやかな紙に、何やらボールペンで無造作に文字が書いてある。
 また暗号だ。
 今度は英数字の羅列で、一見すると規則性がないように思える。新一がふと顔を上げると、したり顔の恋人がこちらの反応を窺っていた。コホンとわざとらしい咳払いをして恭しく礼をする。
「お客様、本日のコースにはメニュー表はございません。当店独自のルールで、暗号を解かないと次の料理は提供されないのです。……ふっ、我ながら名案だと思ったね。作る俺と受け取る新一、お互い腹も頭も満たせて一石二鳥だろ」
「お前はまーた変なことを思いつきやがって」
「変なことじゃなくて、面白いことって言ってほしいな。ちなみに二品目のヒントはもう出したつもりだよ。あー腹減った。そいじゃ、お先にいっただきまーす」
「あっおい!」
 呆気に取られる新一を置き去りに、快斗は軽く手を合わせるとさっさとトマトに齧りついてしまう。本当にどこまでも勝手なヤツだ。
 家に来てからの快斗の動きに不自然なところはなく、新一はただ漫然とその流れる所作を眺めていただけだ。既にヒントは出ている。ということは、その一連の流れの中に何かしらのメッセージが忍ばされていたのだろう。
 新一は玄関を開けた瞬間からの映像をコマ送りで頭の中に流し始める。快斗はいつも通り無駄のない美しい所作で……いや、やけに勿体ぶった仕草が一つだけあったはずだ。あれは新一に印象を植え付けるためのものだったに違いない。
 オリーブオイルの豊かな香りが新一を包み込む。目の前のこの一品目を、カプレーゼを敢えて箸で出してきたということは。
 箸を一本だけ手に取り、すぐさま細長い紙をくるくると等間隔に巻きつけていく。自然に笑みが溢れた。全く古典的な暗号ではないだろうか。快斗にとってはお遊びの域にすら達していない。
 スキュタレー暗号だ。古代ギリシャのスパルタで使われていたもので、暗号が記された紐を棒に巻き付けると隠されたワードが浮かび上がってくる。箸と暗号文が『セットで出された』というところが今回のヒントだったのだろう。紐と棒のどちらか一つだけでは答えは得られない。
 紙を巻き付けた箸をくるりと回転させる。全く規則性がないように見えた英数字は、ある一面だけ意味をもつ綴りに変化していた。新一はにやりと笑って快斗にその一面を見せつける。
「ほらよ、読めたぜ。B/r/o/t/h。ブロス……いやこれは英語圏の言い方だな。 コース料理っつーことは、前菜の次はスープなんだろ? 答えはフランス語で『ブイヨン』。どうだ料理長、合ってるか?」
 僅かに目を見開いた快斗は、次の瞬間には満足そうな表情を作る。
「やっぱ簡単すぎたかぁ。大せいかーい。ま、今日は市販の固形コンソメなんだけどね」
「なんだよ、どうせなら暗号に合わせてブイヨンから作ってくれたら良かったじゃねえか」
「簡単に言ってくれるなよ! そういうのは手間が掛かるもんなの!」
 新一は喚く快斗を無視してしゅる、と箸から紙をほどいて食べ始める。「ん、美味い」と率直な感想を伝えれば、快斗も素直な笑顔を零して箸を進める。
 出された問題をクリアできたことは嬉しかった。新一と快斗は、お互いの期待に応えられる瞬間に強い喜びを感じる。それは出会った頃からずっと変わらない関係性だ。
 けれど同時に、なぜこんな面倒なことを? と思わずにはいられなかった。
 カプレーゼに掛けられた液体がぬるぬるとシーリングライトの光を反射する。このスキュタレー暗号は新一が箸を使う前に解くことを前提としている。オイル塗れになってからでは、先程の細い紙など簡単にちぎれてしまいそうだ。
 いや、カプレーゼに限定するのは違うのかもしれない。新一は一旦咀嚼を止めて考え直す。
 自分が答えに辿り着かない限り、快斗は準備した料理を全て出すことができない。折角用意したのだから、快斗としてもそれは避けたいだろう。ということは、今晩の暗号は基本的にシンプルで単純なラインナップと見て間違いない。暗号を解く、ということがメインなのではなく、あくまで余興としての要素が強い。
 新一はモッツァレラを頬張る快斗の顔をまじまじと見つめた。本当は、コイツは何か言いたいことがあるのではないだろうか。
 好敵手時代や友人関係だった頃ならまだしも、付き合ってからのこういった『遊び』は、新一を試すというよりは単純に構ってほしい、という意味合いの方が強かった。快斗は何よりも自分が楽しめることを優先するけれど、意味のないことにわざわざ新一を巻き込んだりはしない。
 新一の視線に気づいた快斗は、大袈裟に目を丸くして「何?」と問う。
「………快斗。今日のコース料理の意味って何だ?」
 疑問を言葉にしたら、想像以上に鋭い響きになってしまった。「いや、嫌なわけじゃなくて」と口ごもった直後、上からあっけらかんとした笑い声が被せられる。
「別になんもねえって。いやあ、新一も俺も最近忙しかったじゃん。クイズ解いて、ちょっとずつ食べるのっていいよなあって思って。ただそれだけだよ」
 だらしなく緩む目元が、最後にほんの少しだけ引き攣って柔らかさを取り戻す。恐らく半分は本音で半分は嘘なのだろう。
 快斗は嘘をつく時、いつも以上に自然に笑う癖がある。困ったことにその自然さは、一緒にいる新一でさえも明確に真贋を見抜けるものではない。瞼の一瞬の痙攣なんて『嘘をついている』証拠としてはあまりに弱い。
「なら、いいんだけどよ……」
 間もなく出されたコンソメスープは家庭的な味がして美味しかった。
 また出来栄えを褒めてやると今度は鼻の下を伸ばして本気で喜ぶ。すぐに調子に乗るあたり、別段大きな悩みを抱えている様子もない。考えすぎなのだろうか、と新一は微かに腹の底が燻ったのを感じた。
 黒羽快斗とは大学一年の時から付き合っている。
 高校生で出会い大学に入って再会し、それまでの探偵と怪盗という関係を脱ぎ捨て、全くフラットな状態で友人関係を始めた。そのフラットな感情がいつの間にか『特別』なものへと傾いた時、新一はグローブを脱いだありのままの手を取ろうと思ったのだ。
 以来、二人の仲は極めて良好で、新一は快斗のことなら誰より理解しているという自負があった。だが――。
 琥珀色のスープの中には半透明の玉ねぎや角切りのベーコンが沈んでいる。
 快斗の感情の出し方はちょうどこのスープに似ている。透けて見えているのに、全部が容易に手に取れるわけではない。例えば今晩のように、何を考えているのかいまいち分からないことだってある。
 親しき中にも礼儀ありというスタンスを貫いてきたせいか、お互いの胸のうちに一歩踏み込むのは躊躇われることだった。新一は快斗にどうしても無遠慮な質問を浴びせる気にはならなかった。気になることがあったところで、それを何でもかんでも白日の下に晒すのは違うと思っている。快斗が自分で言い出すのを待つか、あるいはそれより先に自分で答えを掴むべきだ。
 快斗の本心を探ること。それが、快斗が無意識に新一に出した今宵一番の暗号なのだろう。
 これはどんな問題よりも難易度が高いぞ、と密かに覚悟を決めスープを啜っていると、快斗は待ちきれなくなったのか、妙なにやけ面で次の暗号を差し出してきた。
 今度は真っ白なルーズリーフの裏に、小さな字で『Pair-Ship』とだけ記されている。レポートを書いている途中でなんとなく書きつけた、という感じのラフな字だった。
「Pair-Ship……? 一対の船、か?」
 新一は下から快斗を覗き込むように尋ねる。ルーズリーフを照明に透かしてみても、それ以上の情報は浮かび上がってこない。
「まあそんなとこ。授業中に思いついちゃった。自信作だからゆっくり考えてみてよ」
 快斗はそう言って、おもむろに机の上で「とんとんとんとん」と指を叩いてみせた。これがヒントだ、と念を押すように新一と一瞬目を合わせ、もう一度爪の音を響かせる。
 新一はその長い指の動きをスローモーションで脳裏に焼き付けた後、未だに薄く笑う快斗に視線を移した。空になったスープ皿を端に寄せ、空いたスペースに肘をついてにやにやとこちらを眺めている。
 短点四回。 欧文モールスなら「H」、和文モールスならば「ヌ」を表している。
 初めのうちはモールス信号だと信じて疑わなかったが、快斗の表情を見るに恐らくそうではない。腹立たしいことに、新一の思考を読んだのか「そうじゃないんだよなぁ」とでも言いたげな口元をしているからだ。
 シーザー暗号だ。暗号を考えたことのある者にとっては基本中の基本、ローマ字を任意の数だけずらして読むという換字式暗号である。
 別名カエサル暗号は、かの皇帝ユリウス・カエサルが用いたとされる暗号で、現代でも暗号に必要とされる要素を備えている。
 シーザー暗号ではアルファベットを『どれだけずらすか』ということを解読のキーとしており、送り手と読み手の間で事前にその数が取り決められている。仮にキーが分からず、総当りすることになったとしても、所詮は二十六文字のアルファベットだ。その気になれば誰でも答えに辿り着ける単純な暗号だと言える。
 快斗の指の音は四回。つまりアルファベットを四つずらせば元の文が現れるということだ。
 今回の出題、『Pair-Ship』という単語を前に戻すなら「L/W/E/N/O/D/E/L」、後ろに倒すなら「T/E/M/V/W/L/M/T」となるが――。
「………アナグラムか?」
 新一は短く息を漏らした。
 変換してみたところで、そのままでは意味をなさない文字列のままだ。ならばこの八文字を並び替えることで、ようやく意味を成す英単語が出現するのではないだろうか。
 ぼそりと呟いた新一に、快斗の口角がほんの僅かに持ち上がる。
 わくわくする、そう思っている時の顔だった。今日の食事がコース料理だと予め宣言したことも、ヒントの一部になっているのだろう。これまで前菜、スープと来ていれば、自ずと次のメニューも想像がつくというものだ。
 頭の中にぽっかりと浮かび上がったローマ字が、忙しなく順序を入れ替えて動き始める。数秒瞼を閉ざして考えた新一は、やがてニッと片頬で笑ってから目を開けた。
「分かったぜ。前に四つずらして『WELL-DONE』。……次はメインのステーキだ!」
「さっすが名探偵。もうちょっと悩むかと思ったのに。早すぎて笑えちまうぜ」
「今まで何回この手のものを解いてきたと思ってんだ」
 新一も褒められると気分が良い。快斗は心底愉快そうに声を上げて笑い、ステーキを温め直すためにキッチンへと立った。
 やられたやられた、と歌うように言ってフライパンに火をつける。どれだけ匂いが混じっていても肉の気配は感じ取れなかったのに、と新一が訝しんでいると、やがて飾り付けまで終えたらしい快斗が大皿を手に戻ってくる。
「じゃじゃーん。どうよ、この創作料理! 大根の器を船に見立ててな、中にも色々入ってるんだぜ」
「自信作って暗号じゃなくて料理の方かよ! っていうか肉ですらないじゃねーか! メインなんだからケチってんなよ」
 快斗が持ってきたのは大根ステーキだった。正式なコース料理なら魚のメインが出てくるところだが、快斗は残念ながら魚が全く食べられない。そうなると肉料理が二回出てくることになるが、それではバランス面も金額も良くないと思ったのだろう。まるで前菜の延長のように、丁寧に味付けした厚みのある大根が出てきた。
「うっせーな! 俺は普通の仕送りでやりくりしてんの!」
 文句を言われると思っていなかった快斗は、憤慨したように音を立てて皿を置く。
「んな厳しかったんなら品数なんて増やすなよな。どうせ、割り勘なんだから……」
 新一は茶化しておきながら、どんどん尻すぼみの声になり最後には口を噤んでしまった。こちらは料理を作ってもらう側なのだから、言ってくれれば材料費くらい出しても良かった。
 快斗が今バイトをしているマジックバーは、基本的にアルバイトを雇うことのない店だ。オーナーは黒羽盗一の古い知人で、快斗がマジックの大会に向けて腕を磨きたいと頼み込み、何とか働かせてもらえることになったと聞いている。毎晩店に顔を出しているものの、ボランティアに近いためバイト代も雀の涙だ。寧ろレッスン代なしで修行させてもらっている身なのだと言っていた。
 だからと言って他のバイトを掛け持ちするのも難しい。大会はもう目前まで迫っていて、快斗はその調整に明け暮れている。
 快斗にとって、今はマジックのことが一番だ。他のことを考える時間も余力もないほど打ち込んでいると、側にいる新一が最もよく知っていた。
 快斗の「最近ゆっくりできていなかった」という言葉はこの状況を端的に表している。
 二人は長い間すれ違い生活が続いているのだ。
 昼の間捜査協力で走り回っている新一と対象的に、バーに出勤する快斗は夜から動き始める。致し方ないこととは言え自由時間が真逆になってしまっている。大学一年の時より二年の方が、更に三年の方がお互いに忙しくなった。そのせいで会える時間がどんどん減っていって、今では深夜にふらりとコンビニに連れ立つことすら贅沢になってしまった。
 仮に一緒に住んでいたら少しは違うのかもしれないが、生活リズムが全く異なる二人が住むメリットは皆無に等しい。
 新一も今まで、ちらりと同居を考えたことがある。しかし自然と、お互い無理に合わせようとして上手くいかなくなる場面ばかりが頭に浮かんでしまった。意味のない同居はそれこそ贅沢がすぎる。
「……まあ、大根は俺も好きだし、悪かったって。色々作ってくれてありがとうな」
 快斗の気持ちを考えるなら、ここで文句を言うのは筋違いかもしれない。こうして会える機会が少ない今、新一はできるなら機嫌よく笑っている快斗を見ていたかった。次にいつ会えるか分からないのであれば尚更だ。
 謝罪を聞いた快斗はむくれたように頬を膨らませて、柔らかくなった大根に箸を入れる。本当に怒っているわけではなく、フリなのは表情を見れば明らかだった。こんなやり取りでもそれなりに楽しんでいるらしい。
「くっそー見てろよ、今はこんなのしか出せねえけど、俺だって何年か後にはめちゃくちゃ稼いで……」
「…………今は? あっ、いや、なんでもない」
 新一は自らの失言にかっと頬を熱くして、慌てて目を伏せて大根をつつき始めた。
 今のは拾うべきところではなかった。少し、期待してしまったのだ。まるで『先』のことを示唆されたようで。
 快斗との関係は傍から見れば友人の延長線上にあって、二人は今まで将来の話をしたこともなかった。一緒に住むことを簡単に提案できなかったのも、ここら辺のことが関係している。決して終わりが来るような関係だとは思えなかったけれど、お互いに明確な未来を話し合ったこともない。それがこうして自由に会えなくなって、初めて二人のその先について考えるようになった。
 今晩もこのコース料理を食べ終わったら解散なのだろうか。新一はなんだか胸がぽっかりと空いたような、言葉にできない焦燥感に苛まれている。
 普段からきちんと会えていればこんなに感傷的になったりしない。明らかにコミュニケーション不足だと分かっているから、快斗のちょっとした違和感に敏感になったり、自分だけが寂しいのかと気を揉んだりする。
 無言で味の染みた大根を食べていると、新一は無性に快斗に何かを伝えなければならないような気持ちになってきた。箸を当てただけですっと下まで切れる大根は、快斗が時間を掛けて下処理をしてくれたのだと雄弁に伝えている。少なくともその間は、自分のことを考えていてくれたということだ。
「……こういうの、ずっと食えたらいい、って俺は思うけど」
 ちら、と一秒にも満たない間快斗を見遣って、また大根に視線を落とす。新一にはその一言が精一杯だった。
 頬がみるみるうちに熱くなって鼓動が勝手に速くなる。じわじわと後から情けなさが込み上げて仕方なかった。口下手にもほどがある。本当は、「贅沢な肉なんか要らないから、お前とずっと一緒にいたい」というようなことを言いたかったのだ。それだって、なんだか大袈裟で正答例だとは思えないけれど。
「え、なんか言った?」
 ハムスターみたいに頬を膨らませた男に聞き返されて大きく首を振る。急激に恥ずかしくなってきて、新一も大根で口が塞がったフリをした。
 これはもう、スタンスの問題ではないかもしれない。快斗にもっともな理由をつけられて拒絶されるのが怖くて、思っていることを口に出せずにいる。
 一緒に住もう、顔を合わせる時間を増やそう。言いたいことは数多くあれど、それを形にすることができない。
 快斗には快斗の目指す夢があり、その大事なものを邪魔する気は毛頭ない。新一も探偵としての活動に口出しされることは望んでいないし、適切な距離を保つことができるからこそ、快斗の隣は居心地が良かった。
 今でも一緒に暮らすことへの淡い憧れはある。たとえ日々が慌ただしいものだったとしても、帰って来る場所が同じなら生活はもっと豊かなものになるだろう。一つ屋根の下に住んで、お互いの大変さをカバーできるような生活ができれば良い、とも思う。
 しかし――、それはあくまで新一側の気持ちだ。
 踏み込んだ話ができていないせいで、快斗がどう思っているのかは確かめようがなかった。互いの領域に踏み入らないという暗黙の了解が、今更仇となって返ってきている。
「……つ、次の暗号って何だよ?」
「えー、飯よりそっちの方がいいの?」
 居たたまれなくなった新一は快斗を急かして次の暗号をねだった。どこからともなく取り出された小さなカードを解読しても、メイン第二弾だというきのこの和風パスタが出てきただけで、快斗自身に大きな動きは見られない。
 結局、快斗が自ら言う通り、今日の食事には深い意味はなかったようだ。
 新一はつい隠しきれない溜息を漏らしてしまった。大学で星空のような紙を手にした時の高揚感と、『特別』を直感した自分の嗅覚は間違っていたということだ。
 快斗の家、快斗の手料理、そして快斗のペース。仕事を行う時は自分のフィールドで有利に事を進めるタイプだと信じていただけに、今晩は何かが動くものだと思い込んでいた。
 パスタを完食しても尚、新一が次の一手をどう打てば良いか考えあぐねていると、キッチンに皿を片付けに行った快斗が、やけに落ち着かない足取りで戻ってくる。
「実はデザートにアイスもあるんだぜ」
「おいおい。何出すか先に言っちまっていいのか? 今日はそれを解くのが趣旨だろ」
「いいんだ。アイス自体は既製品だから。一応暗号は用意してあるけどね」
 再び新一の目の前に腰を下ろした快斗は、なぜだか少し緊張したように視線を彷徨わせていた。
「……どうした?」
「あ、いや……新一がなんて言うかなって。ちょっと気になって」
「何勿体ぶってんだ。言いたいことがあんならはっきり言え」
 新一は先程まで散々悩んでいた自分のことを棚に上げ、妙にもじもじした雰囲気の快斗を叱る。快斗は観念したように天井を仰いでから、ローテーブルの上にすっと見覚えのある濃紺のメモ用紙を置いた。
 新一は思わず大きく瞬きした。このメモ用紙は、今晩自分を謎めいたディナーへと誘った招待状だ。数式が書かれていた時と同様に、丁寧に四つ折りにされている。
「中、見てもいいのか?」
 声なく頷く快斗を一瞥し紙を開くと、中にはまたもや銀のペンで、上下に三つずつ合計六つの五線譜が書かれていた。
 いずれも楽譜のどこか一部分を切り取ったような形で、音符の数もまちまちだ。快斗はその中の一つを指差し「これ、何を示してると思う?」と挑戦的な瞳で尋ねてきた。どうやら暗号そのものに自信があるらしい。新一とよく似た双眸にきらりと鋭い光が入り込む。
 指し示された五線譜は上段の二つ目のものだった。中には音符が三つだけ同じ高さのところに並んでいる。見ればその下には小さな字で『243』と記されていて、これが唯一のヒントになっているのだろう。音楽記号でないのは一目瞭然だった。
 恐らく六つの楽譜の順番には規則性があり、その中の二番目が何を意味しているか問われている。
 ただしその規則性を読もうにも、英数字のみの暗号とは勝手が違う。解読のためのセオリーというものが存在しないからだ。きっと、なぞなぞを解くのに近い閃きが求められているに違いない。
 一見、これまで出されたものの中で最も難易度が高いように思えるが――、新一は緩く首を回してから、真剣な表情で座している快斗に挑発的な笑みを返す。
「……ヒント、出しすぎじゃねえか?」
「あれっ? マジで?」
 驚いた快斗が素っ頓狂な声を出す。そう来るとは思わなかった、と度肝を抜かれている顔だった。
 新一はヴァイオリンを習っていたこともあり、楽譜は人並み以上に読める。何よりこの断片的な譜面には見覚えがあった。ヨハネス・ケプラーの『惑星の音楽』だ。
 天文学者であるケプラーは、惑星が太陽に最も近い位置と遠い位置にある時の移動角度の比を計算し、その比率を音程で表現した。惑星の動きを和音で表すことができると考えていたのだ。それがこれらの楽譜である。
 もちろん知っていたからこその発想はあったけれど、そうでなかったとしても新一はいずれ答えに辿り着いたことだろう。濃紺の紙と銀の文字のコントラストは、それだけで夜空や宇宙の輝きを想起させる。
「この下の数字が大ヒントだったな。六つ並んだものの二番目が243っていうのは、俺は一つしか思いつかない。自転周期の243日って意味なんだろ? 地球の243日がこの惑星では一日に相当する。この楽譜は上から順番に、水星、金星、地球、火星、木星、土星だ。……だから答えは金星、合ってるよな?」
「何だよ知ってたのかあ。ヒントなんか書かなきゃ良かった」
 快斗はがっかりしたように肩を落とし、渋々といった様子で冷蔵庫に向かう。新一はその背に向かって更に推理を投げ掛ける。
「デザートはアイスだったよな。金星のアイスってことは黄色か……? もしかして、レモンシャーベット、とか?」
「はは、冷凍庫の中身見たのかよ? それも当たってる」
 降参、というように芝居がかった動きで肩を竦めた快斗は、新一に見せつけるように冷凍庫からアイスを二つ取り出した。
 安売りでなければ滅多に買うことのない、そこそこ値が張るものだった。箸置きをセッティングした時と同様に、新一と自分の前に注意深くアイスとスプーンを並べた快斗は、どこか緊張した面持ちのまま席につく。新一がアイスを手に取るのをひたすら無言で待っていた。
 一体何を気にしているのだろう。新一が不思議に思いながらカップを取ると、ずしりと異様な重みがあることに気づく。何かが入っている。かたかたと音が鳴る硬いものが。新一は表面についた薄い霜を溶かすようにカップを握りしめ、すぐさまプラスチック製の蓋を剥ぎ取る。
 ピンと貼られた一枚のフィルム――、その上に見たことのない鍵が乗っていた。
 この部屋の合鍵ではない、別な部屋の鍵だ。慌てて顔を上げると、快斗は好物のアイスを前に微動だにせず新一を見つめていた。
「この、この鍵……」
「プレゼント、っていうには、随分勝手かもしれない。俺一人で決めちゃったから。今日ずっと言いたかったことはこれ」
「え?」
「…………良かったら、もし新一が良かったら、なんだけどさ……二人で一緒に住まない?」
 いつの間にか正座していた快斗は、膝の上で拳を作り一言一言を区切るように言葉を紡ぐ。新一は息を詰まらせた。快斗の声を反芻するのに手一杯で、それ以上の反応を返すことができない。
 一緒に、住む。自分と快斗が、同じ家に。
 タイミングさえあれば新一から提案しようと思っていたことだ。快斗の考えを推し量るところから始まる、先の長い願望だと決めつけていた。言い方を間違えたら、困ったような顔でやんわりあしらわれるものだと思っていた。
 普通、物件探しは一緒に住むことを決めてから行うものだ。何もかも全部決めた後で鍵だけ渡すなんて、こんな風に何の予兆もなく先回りされているなんて。
 黒羽快斗は昔から少しずるい。
 後には引けないようなシチュエーションを用意してから舞台に臨み、けれどその大胆不敵な行動とは裏腹に、人並みの不安や怯えを抱えている。それがひどく人間的だったから、新一はこの男から目が離せなくなったのだ。
 踏ん切りがつかなかったのはお互い様だったのかもしれない。良かったら、と新一の意向を何度も伺う歯切れの悪いセリフは、「もしかしたら断られるかもしれない」という快斗の憂いを如実に表していた。
「順番……、おかしいだろ」
 新居はどんな家になるのだろう。新一は受け取ったばかりの鍵を宝物のように手のひらに転がす。
 やはり二人は似た者同士のようだ。
 新一の想像の遥か上を行く恋人は、それでも、どんな時だって同じことを考えている。

**
 
 掴もうと思えば、星にも手が届きそうな夜だった。
 窓の外で煌めく人工の光を見遣った新一は、また目の前の皿へと視線を戻す。
 時刻は二十時前。数年前と同じく、快斗に急に声を掛けられて、自宅で当時をなぞるかのような手料理を振る舞われている。
 変わったのは料理の質と腕前だろうか。暗号を解くごとに出てくる一品は、どれもこれもが手間ひま掛けられたものだ。ブイヨンから作ったコンソメスープに、ソースも手作りした柔らかいステーキ。あの日新一が文句をつけたものが全てグレードアップされている。
「次のデザートで最後だよ」
 そわそわした様子の快斗が、今宵で最も複雑な暗号を出してくる。
 一緒に住んでいて、お互いに時間も金もあって、それなのに何を不安に思うことがあるだろうか。
 これからどんなことを伝えようとしているのか、既に答えが出ているようなものだ。新一は緊張する快斗を愛おしく思って、暗号の書かれた紙をゆっくりと開く。
 解くまでもない、答えは金星だ。
 どうしてあの日の最後の答えが金星だったのか、長い間疑問に思っていた。
 けれど快斗とのこれまでを振り返ってみれば何ということはなかった。意外にも縁起を担ごうとする男の、ただの願掛けであったのだと気づく。
「……これは実に呼び名が多い。明けの明星、宵の明星。古くは別々の星だと考えられていたみたいだな。赤星、夕星。長庚、啓明。ヘスベロス、フォスフォロス。あるいはヴィーナス、平和をもたらす者。……で、俺は何と答えれば正解なんだ? 快斗。もう答えは分かってるぞ」
 新一は不敵な笑みを浮かべ、柄にもなく体を強張らせている恋人に向かって尋ねる。
 一流のマジシャンとして成功を収めた男は数多くのステージをこなしてきたはずなのに、たった一人の観客を前に張り詰めている。
 快斗の中で、答えの読みはキンセイではなかったというだけの話だ。絶対に勝つことを必須としている勝負事に勝利すること。即ち、金星(きんぼし)である。
 数年前、暗号解読の報酬は銀色の鍵だった。ならば今日は……プラチナの指輪だろうか。穏やかに微笑んだ新一は、じっと快斗の言葉を待つ。