Blue hour:🐑

 とある公園にお気に入りのベンチがある。
 園内は広く自然も豊富で、近隣住民だけでなく都内から多くの人が訪れる憩いの場だ。広場はもちろん、大小二面の池もあり、そのうちの一つが新一にとって特別な空間だった。
 正門から遠く離れた所にひっそりとある小さな池には水草も多く、生き物が姿を見せることは滅多にない。整備する側もここまで隅々へは手が回りきらないようで、冬には枯れ葉が降り積り、夏は草木が多く影を作る。そのせいか足を延ばす人も限られていて、いつ来ても静かだった。
「……変わってないな」
 流石に柵の劣化は放っておけずに新しくなっていたが、池を囲む歩道脇の四阿は昔のままだ。古い屋根の下には同じく古いベンチがひとつあるだけで、塗装も剥げかけている。風に乗ってやってきた落ち葉に席を譲ってもらい腰を下ろした。
 どこからか鳥のさえずりが聞こえる。太陽の光を浴びて輝く水面を見つめていると、体の奥に溜まっていた毒素が溶けていくような気がした。
 春の風に頰を撫でられ、思い立って足を運んだのだが、どうやら気づかぬうちにナーバスになっていたらしい。
 元の体を取り戻して大学を卒業し、探偵事務所の看板を掲げて随分と経った。ここに通い詰めていたのは、まだ学生服に身を包んでいた頃だ。仕事に追われている間に、気づけば随分といい歳になってしまった。三十路を前にして感傷的になったのだろうか。
 目を閉じると懐かしい記憶が次々に蘇る。


 ——これは思い出の話だ。








 *   *   *







 追い続けていた組織の壊滅とともに元の体を取り戻し、ようやくいつもの日常が訪れたのは高校三年の初夏のことだった。日常といっても解毒剤を完成させた科学者曰く、後遺症や副作用を考えると、まだ気を抜ける状況ではないという。
 捕らえ損ねた残党を追いかけている最中でもあり、事件そのものが解決したというわけではない。組織のことも、体のことも、正確には終息へ向かう途中だ。
 それでも『工藤新一』として生きる生活を取り戻したことは、間違いなく一つの戦いを終えた瞬間だった。
 次に新一を襲ったのは、予期せぬ違和感だ。時間をかけて培った『江戸川コナン』の生活は想像以上に自分の中で大きく育っていたのだ。つくはずのなかった癖や口調、人との距離感。体を取り戻しさえすれば解消されると思っていたジレンマは、しつこく纏わりついて新一を苛んだ。
 時間とともに薄れていくものだとわかっていても心が疲弊していく。
 運命なんて信じているわけではないけれど、新一の人生を変えた偶然は、そんな日々の中に訪れた。


 解決した事件現場から駅へと向かう途中、ビルに映る空は紅色に変わりはじめている。美しい夕空を求めて顔を上げてみたものの、四方をビルに切り取られ、望むものとは程遠い。そういえば街中に大きな公園があったことを思い出した。
(たまには寄り道してみるか)
 心地いい風が、まるで誘うように頰を撫でる。芽吹きの季節が訪れてもいる。新緑を見るには夜が近すぎる時間だが、まだ猶予はあるだろう。
 時間を気にして足早に正門をくぐると、打って変わり多くの人がゆったりとした時間を過ごしているのが見えた。家路につく親子、学校帰りの学生、犬の散歩をする老人、ジョギングをする人。穏やかな日常を眺めると心が落ち着いていく。
 奥に行けばいくほど人気は減って、かわりに自然が増えていった。人工の小川が流れる先には小さな池があり、そばに古い四阿が見える。
 時計を見れば18時を回ったところ、あと30分もすれば日の入りだ。それまでと決めて腰を落ち着けることにした。園内には池を通るルートがいくつかあるようで、時折人が通り過ぎていく。それ以外は静かなものだ。
 こういう時間を持つのは本当に久しぶりだった。望んでいた生活であることに間違いはないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。コナンでいた頃は今の自分に焦がれ続け、いざ戻ってみると今度は失ったものに目がいくだなんて、我儘にもほどがある。逆に言えばそれだけ江戸川コナンという存在を、周りが大切にしてくれたということだ。
 どちらの姿になっても偽らないといけない。わかっているつもりで全くわかっていなかった。
(贅沢な話だな……) 
 ゆっくり息を吐き出しつつ目を閉じる。少し休憩したら頭を切り替えよう。まだまだやらなければいけないことばかりだ。
 目的を果たしたのだから後は任せなさいと、大人達はやんわり切り離そうとしたが、新一は頑として拒み続けた。一度踏み込んだ事件を途中で放り出すことは出来ない。だって自分は探偵なのだから。
 その時、一定の間隔で近づいていた足音が止まったことに気づく。他の足音と同じように遠ざかっていくことなく、再び歩き出す様子もない。不審に思って瞼をあげると、一人の男がこちらを見ていた。
 いよいよ日が落ちはじめて、男の顔は逆光で薄暗い。背後を散歩中の小型犬が、嬉しそうに飼い主の顔を見上げながら通り過ぎて行った。
 いつどこで狙われるかわからないのだから気をつけろと、再三言われているが不思議と危機感はない。相手が学生服に身を包んでいるせいもあるが、何より深い紫紺の瞳に見覚えがあった。
 最後に怪盗キッドの現場に行ったのは江戸川コナンだ。解毒剤を飲んでからも予告状は何度か出ていたが、足を運べるような状況ではなかったのだ。
 抜け目のない怪盗のことだ。顔を合わせずとも存在を隠しているわけではないので、こちらの情報を手に入れている可能性は高い。どういうつもりで立ち止まったのか。 
 もし仮に偶然だったとしても、この程度のイレギュラーで動揺するような男じゃないはずだ。やはりわかっていてここに来たのか。その様子からは窺い知れない。
 しばらく見つめあった後、前触れもなく視線は逸らされた。新一の緊張を他所に、怪盗は無言のまま去って行く。
「……」
 遠ざかっていく背中を見つめながら、つまらないと思っている自分がいた。こんな風に再会する気は毛頭なくて、容赦無く追い詰めて余裕のない顔を見ながらザマァミロと笑ってやるつもりだった。
『まるで置いていかれたような顔してるわよ。最初からわかってたことなんだから、早く慣れなさい』
 走り去っていく子供達を見つめる新一に、バッサリと言い放った宮野の言葉を思い出す。実際どれもこれも大した悩みじゃない。時間が解決することばかりで、彼女の言う通り今だけのことだ。
 会うはずのない男に会ってしまったことで妙に感傷的になってしまったようだ。
 いつの間にか太陽は沈んでいた。

 それ以来、夕空を見上げると公園を思い出すようになった。新聞の中で空を舞う怪盗の口元は相変わらず余裕の笑みだ。気配に敏感な男は、どんな時でも自分を魅せることを忘れない。
 それなのに夕空に染まる顔は笑みもせず、かといって怒りもせず、ただ静かだった。
 澄んだ紫紺が頭から離れない。
 制服から学校はすぐ割り出せるだろうし、そこから身元を突き止めるのは難しいことじゃない。難しいことではないが、それは何か違う気がした。
 どうしたものかと暫し悩んで、最終的につけた折り合いは公園に向かうことだった。会える可能性はないに等しい。探偵と鉢合わせた場所にわざわざ来るはずがないのだ。それでも何もしないよりはずっといいと思えた。加えて心地いい四阿をとても気に入ってもいる。何もなくても、少し休憩をして帰ればいい。
 そう思っていた新一の予想は大きく外れることとなる。
 日に日に日照時間は延びているので、同じ時間帯でも以前より太陽の位置は高い。四阿が見えたところで心臓が大きく震えた。あの日、自分が腰を下ろしていた場所に誰かが座っていた。ちょうど夕日が屋根の下に入りこむ角度で、遊ぶように跳ねる髪を照らしている。背後から近づく足音に気づいているはずなのに動く様子はない。横顔が見える位置に来ても、真っ直ぐに前を見つめたままだ。
(どういうつもりだ? やっぱり何かたくらんでいるのか?)
 やはりこれといった感情を見つけることは出来なくて、今更どうしようかと考える。らしくないのは自分も同じだ。会えるわけがないと思いながら、相手がいたらいたでうろたえる。
(待て。なんかおかしくないか? 会えるわけないって、俺は別に会いたかったわけじゃ)
 考えても一向に答えは出ない。一通り逡巡した結果、このまま帰るよりもと開き直って、わざと乱雑に腰を下ろして足を組んだ。
 人ひとり分ほどの距離を取って座る相手を横目で見れば、前回と同じく詰襟の学生服だ。校章が江古田の生徒だと教えていた。置いてある鞄は薄く、教科書の類が入っているようには見えない。あれだけの頭脳を持つ男だ。学校の授業など聞かずとも問題はないのだろう。太腿の上に置かれている指先は、一般の男子高校生にしては整いすぎている。いつも手袋に隠れているが、なるほどマジシャンの指だと妙に納得した。
 頭の上から足先まで、じっくり見ればもっと様々なことがわかるはずだ。しかしそれ以上の追求はわざとやめた。
 優しい風が吹くと揺れる葉の音が耳に届いて、無意識に体の力が抜けていく。ああ、やっぱり気持ちいいなと目を細めた。
 隣の存在に気を張っていたのは、ほんの5分ほどだ。その後は不思議と気にならなくなった。相手が意識して気配を消しているというわけじゃない。
(むしろ居心地がいいっつーか……)
 会話もないまま、流れていく景色を眺める。こんなところにまで足を伸ばす人の時間は、皆一様にゆったりとしているようで、ベンチに座る高校生を気にすることもない。
 時計の針が18時を半分程回った頃、不意に新一の胸ポケットが振動を伝えた。見れば庁舎に缶詰状態の男の名前が記されている。一瞬迷っている間に、座っていたはずの男が立ち上がった。今日初めて視線が合う。
 以前とは違う穏やかな瞳だった。口元は僅かに微笑んでいるようで、見たことのない表情に驚いてぽかんと見上げている間に、相手はまたしても先に背を向けてしまった。
 伸びる影を引き連れて小さくなる後ろ姿を見つめる。結局彼がいた理由はわからないままだが、それを言うなら自分がここに座っている理由だってはっきりしていないのだ。普段なら見つけた謎を放置するなんてことはしないのに、呆れるほどあっさりと考えることを放棄する。
 思い返せばこの時すでに、心の中の何かがころりと彼に向かって滑り落ちていたのだ。

 *

 6月に入ると厚い雲が覆う日が増えた。この一週間で太陽の光を見たのは一日だけだ。
 今日も公園の門をくぐると白糸のような霧雨が降りだして、慌てて四阿へと駆け出した。
 気温の上昇と共に生茂っていく木々の下を抜ければ、見慣れた後頭部が視界に入る。足音を聞きつけたのか軽く振り返った男は、瞬きを一つしてすぐに顔を下に向けた。
 制服にかかった雫を手で払い、定位置へと向かう。しばらく降るなと思いながら鞄を置くと、青いフェイスタオルが差し出された。驚いて隣を見れば、無言のまま押しつけてくるので思わず受け取ってしまう。
「サンキュ」
 細いながらも雨量は多く、思いの外濡れてしまっていた。素直に礼を言って髪の水分を拭き終えると、このまま返すべきか迷う。しばし悩んだ後、洗って返すと決めて首にかけた。
 人の気配が少ないかわりに、どこかで雨宿りをしている鳥の声がいつもより大きく響く。こうして肩を並べる回数も両手に近い数になっていた。時々は先程のように言葉を交わすが、基本的には沈黙だ。
 最初に話したのは今日と同じく小雨が降り注ぐ日だった。梅雨の始まりを教える優しい雨が、水面にいくつもの円を描く。感じるのはいつものような清々しさではなく、どちらかといえば穏やかな閉鎖空間だ。心地よさに自然と目を閉じて、雨粒が落ちる音に聞き入っていたその時……。
「ヒィ!!」
 ポチャンという水音の後に悲鳴が聞こえた。驚いて瞼を上げると、声の主は先ほどと変わらぬ姿で座っている。表情も目を閉じる前と変わりない。
(……?)
 気のせいにしては、やけにはっきりと聞こえた。よく見れば太ももの上に置かれた手は、色が白くなるほど握られている。声をかけようか迷っていると、また池から水音が聞こえて隣にある肩が大きく揺れた。
「——ッッ」
 顔を青くしながら、必死に唇を戦慄かせている。
「オメーもしかして、さか」
「わ——!!」
 予想以上の反応に驚いて思わず仰け反る。耳を塞いで体を丸める姿は、あまりに想定外だった。
「ふ……は」
 じわじわとこみ上げてくるもので喉が震える。耐えきれずに声が漏れるともう止まらなかった。
「おまっ、それは、反則だろ!」
 見れば潤んだ目が恨めしそうに睨んでいる。
「……しょうがねーじゃん、苦手なんだから」
 彼を怖がらせた原因は深く潜り込んだようで、再び雨音が四阿を包み込んでいた。口の中でモゴモゴと文句を言う姿が、今日まで纏っていた印象をガラリと変える。随分と親しみやすい。二人の間にある空気が一気に緩むのを感じた。
「くろば」
「え?」
「俺、黒羽快斗。あんたは?」
 知っている癖にという言葉は、すんでのところで呑み込む。きっと互いに名乗り合うところから始めることに意味があるのだ。
「……工藤新一、帝丹高校の三年だ」
「俺も高三。よろしくな工藤」
「ああ、よろしく黒羽」
 名を伝え、会話をするようになっても、探偵と怪盗のような小気味良い言葉の応酬をすることはなかった。夜のイメージが強く、どちらかといえば賑やかな男だと思っていたが、ここにいる間は違うようだ。
 張り詰めた糸を緩めて、ゆったりと過ごす時間が心地いい。他愛のないことを話す時もあるが、黒羽の声はいつも穏やかだった。たまに喋ったかと思うと突拍子もないことを言うのも通例だ。
「工藤は昼と夜どっちが好き?」
「夜」
「そう言うと思った」
「オメーは?」
 質問の意図はなんだと隣を見ると、夕日に染まる風景を眩しげに見つめている。
「俺は、どっちも好き」
 口元は緩く笑みを浮かべていて、光に溶け込むような美しさに目を奪われた。

 *

 恐らく偶然から始まった夕暮れ時の逢瀬は、約束したわけでもなく夏が終わるまで続いた。日が落ちる時刻が遅くなるにつれ、肩を並べる時間も増えていく。毎日というわけではなく、予告が出ると来ない日もあるし、自分が行けない時もある。
 一人の日も、右側は必ず空けて座った。毎日同じコースを歩いている老夫婦が通り過ぎて、ふと見るといつの間に来たのか、ベンチの上を歩くてんとう虫に気づいた。
「そこはお前の席じゃねーぞ」
 進行方向に指を差し出すと、避けることなくよじ登ってくる。大人しく留まる姿をしげしげと見つめて問いかけた。
「なぁ、あいつは何でここに来るんだろうな。お前、知ってるか?」
 当然答えは返って来ず、あっさりと羽を広げて去ってしまう。途端に置いていかれたような気持ちになって、晴れでも雨の匂いを感じる梅雨時の空気を深く吸い込んだ。
 盗み見る黒羽の横顔はいつもどこか寂しげに見えた。そのたびにチクリと胸が痛む。相手の心はわからない。けれど自分の心の痛みの正体は、突き止めるのにそう時間はかからなかった。

 前夜から続く雨が傘を濡らす日のことだ。状態の悪い土の道を避け、いつもとは違うルートで四阿へと向かった。遠目にベンチが視界に入ると、ちょうど着いたばかりの黒羽の背が見える。青い傘を椅子の背に立てかけると、座面の上に舞い落ちた葉を払っていた。後から来る自分の場所まで綺麗にしているのだとわかり自然と笑みが浮かぶ。
 初めて会った日以来、黒羽が先にいるのが常だったので気づかなかった。毎回ああして待っていてくれていたのかと思うと何故か胸が締めつけられる。嬉しさとは違う。でも悲しいわけでもない。
 一体これは何という感情なのだろう。胸元を押さえてみるが、ちっともわからない。
 いつもとは違う道から現れたことに、黒羽は僅かに不思議そうな顔をしたが相変わらずの無言だ。こちらも黙ったまま、葉一枚落ちてはいないベンチに腰を下ろした。
 しばらくすると長い雨が上がり、嘘のように雲が切れていく。少しずつ顔を出す空が淡いピンクからオレンジになって、太陽が落ちると見る間に赤く染まっていく。木々も道も池も、そして隣にいる男の顔も。まるで映画のワンシーンのようだった。
 どうしてその時だったのかは、後になってもわからないままだ。空模様以外に何か特別なことがあったわけじゃない。それでも隣にいる男への想いに気づいたのは、この瞬間だった。
(ああ……そうか。俺は、好きなんだ)
 雨の名残が輝いて、黒羽の瞳の中でも反射している。
 突然に世界の色が変わっていった。鮮やかに、けれど優しく。同時に胸が苦しくなって、胸の痛みが愛しさからくる切なさだと知った。
 それからの日々は恥ずかしいほどに一喜一憂だ。何でもない仕草や表情に胸が高鳴り、会えない日には相手を想いながら寂しさと寄り添う。

 ある日、いつものようにベンチに向かうと、ソフトクリームを差し出されたことがある。見ればもう片方の手にも同じものが持たれていた。
「これ、どうしたんだ?」
「あっちで売ってた」
 いつも黒羽がやって来る方向を指差しているが、顔は手元に向けられたままだ。月が変わり、出会った頃に着ていた学生服は半袖シャツに変わっている。
 礼を言って受け取ると、黒羽は既に頭からかぶりついていた。こちらも垂れそうになっている場所に慌てて舌を伸ばす。
(……あま)
 嬉しそうに頰を綻ばせている様子を眺めると、視線に気づいた黒羽が「ん?」と小さく首を傾げた。
「もし俺が来なかったらどうするつもりだったんだ」
「あー、なんでかな。今日は会えるって思ったんだよな」
「勘で二つ買ったのか?」
「おう、でも実際に会えただろ」
 珍しくにっこりと満面の笑みを向けられて一気に体温が上がる。ちょうど西日があたる時間で、気づかれずにすんだと思いたい。〝来る〟ではなく〝会える〟と言われたことが嬉しくて心が跳ねる。
 お返しにと後日、自動販売機の前でウンウンと唸りながら悩んで甘いカフェオレを買った。自分用にブラックコーヒーを買ってベンチへ向かう。
 けれどその日、黒羽は姿を現さなかった。
 温くなっていく缶と共に、空が夜を連れてくるまで一人過ごす。寂しいと思う傍らで、あのソフトクリームを黒羽が一人で食べずにすんでよかったと思った。

 そうして夏が終わりを告げる頃には、生まれたばかりだった恋は広く深く新一の心に根づいていた。同時に黒羽がここに来る理由にも気づき始める。
 ぽつりぽつりと交わす会話は、相変わらず他愛ないことばかりだ。天候や季節、園内ですれ違う人々のこと。交友関係や家族など、互いのバックグラウンドについて触れることはない。それでいいと思っていた。初めて会った日から、どれか一つでも間違っていれば黒羽は来なかっただろう。
 いつのまにか新一の心の中で燻っていたものが昇華していた。ただ隣にいてくれる存在があるだけで、変わっていくものがあると知る。
 黒羽の中にある何かが、同じように癒されていくといい。そして願わくば、続く未来も肩を並べられる存在でいられたら。

 しかし願いは虚しく、予想もしない早さで終わりは訪れる。

 *

 いつもと変わらない暑い一日だった。昼間に通り雨が降ったが、今では名残さえ見えない。ベンチに座って、額に滲む汗をハンカチで拭いとる。隣にいる男は同じ空間にいるのが奇妙なほど涼しい顔をしていた。
(キッドの時も変わらず涼しい顔してやがるもんな)
 恐らく汗をコントロールする方法を身につけているのだろう。怪盗でいるために、一体どれだけのことを習得しているのか。制服に身を包んでいる横顔だけでは、誰も気づきはしないだろう。
 日が傾いて蝉の鳴き声が少なくなっていく。涼しくなるのはまだ先だが、秋になれば紅葉が楽しめるはずだ。寒くなったら焼き芋を買ってこよう。聞いたわけではないけれど、きっと黒羽は好きなはずだ。
 未来に思いを馳せていると、突如かん高い声が聞こえた。見れば遊歩道の真ん中で転倒した子供が、地面に横ばいになって泣いている。後から女性が駆けて来るのが見えた。この世の終わりの如く泣く子供を見つめながら、黒羽がぽつりと呟く。
「あの子と俺は、どう違うのかな」
 質問の意図がわからず黙っていると、再び沈黙が訪れて黒羽はそれ以上言葉を重ねることはなかった。夕映えが頬を照らし、黄昏へと変わっていく。
 頭の中で先ほどの言葉を何度も繰り返す。小石に足を取られて地面に横たわった子供は、痛くて死んでしまうと母親に両手を伸ばした。望む腕にしっかりと抱きしめられ、痛みの代わりに愛情を一身に受ける。涙が止まると一変して向日葵のような笑顔を咲かせ、母親の手をしっかりと握って去っていった。……あの子供と、どう違うか。
 それはどこから生まれた思いなんだろう。欲しいと望むことか、それとも与えられる愛か。
 宙に浮かせたままではいけない言葉だと感じた。すぐに答えられないことがもどかしい。太陽が沈んだ後の薄明が、今日の終わりを告げている。黒羽は空ではなく人気のない池をぼんやりと見ているようだ。その生気の無さに小さく息を呑む。
 いつもなら黙っていても何かしら感じるものがあった。キッドの時とは違う、黒羽快斗がまとう空気だ。飛び跳ねた魚に驚き、ソフトクリームに喜ぶ。連日の雨に鬱々とし、晴れ間を見れば目尻が緩む。
 少しずつほどけていくものに、まろみを帯びた温かさを感じていた。
 だがそばにある横顔からは何も感じ取ることが出来ない。何故と頭の中で忙しなく問い続けて、ようやく大きな勘違いをしていたことに新一は思い至る。
 ここから見る景色が好きだった。春から夏にかけて色濃くなる緑も、鳥や虫の声で騒がしくなっていく様も、日の光によって輝きを変える池も。
 同じ気持ちだと勝手に思い込んでいたけれど、本当に彼が求めていたものは——。
「ちがわねぇよ」
 気づいたら声にしていた。
「あの子とお前は何も違わない」
 真っ直ぐに見つめれば、黒羽は驚いて目を丸くしている。
「……本当に?」
「ああ。散歩してたじーさんも、仕事さぼってんだろうなっておっさんも、あの子供も、俺もお前も」
「…………」
「何も違わない、特別じゃない」
 迷いなく言い切れば黒羽は強く唇を結び、また前を向いてしまった。
 今の今まで気づかなかった自分が恨めしい。
 青みを帯びた灰色が空を占拠しはじめたせいか、周りはひっそりと静まり返っている。自然の移ろいによって心を癒していた自分とは違い、黒羽は通り過ぎていく人々を眺めていたのだ。出会った日も、誰かの日常に触れるために園内を歩いていたのだろう。それなのにわざわざ人通りの少ない場所に居ついた理由は、それこそ自分と出会ったからではないか。
 唐突に隣にいる男の孤独を思って愕然とした。普通に考えるなら、己の数奇な運命を〝特別〟と考えることの方が自然だ。でも黒羽はきっとそう思っていない。
 江戸川コナンという生を黒羽がなぞれないのと同じように、どこにいても偽らなければならない黒羽の日々を、想像することは出来ても共感することは出来ない。けれどそれは転倒した子供とて同じことなのだ。あの子に出来た傷も、あの子にしかわからない。
 誰の心も唯一で、誰と比べられるものじゃない。
 ああそうか……と、新一は首を横に振った。
「違うな。皆、特別なんだ。誰もが特別じゃないと同時に、誰もが特別なんだ」
 黒羽はやはり何も言わなかった。いつもならもうとっくに立ち去っている時間だ。
 直に夜が来る。一人にしたくなくて、どんなに遅くなっても見送ってから帰ると決めた。
 ふと温もりを感じて見下ろせば、ベンチの上に置いた手が触れ合っている。遠慮がちに重ねられた薬指と小指に顔をあげるが、黒羽は前を見たままでこちらを見向きもしない。
 この温もりを離してはいけない気がした。引き寄せて、抱きしめてしまいたい。
 欲望と理性の狭間で行きつ戻りつを繰り返していると、まるで心を読んだかのように手を握り込まれた。驚いて隣を見れば、今度は真っ直ぐに視線が合わさる。
「サンキュ」
 そばにいてくれて……と、黒羽は嬉しそうに笑みを深めた。
「……っ」
 ——好きだ。
 一瞬で膨れ上がった想いが唇からこぼれ落ちそうになって慌てて口を噤む。
 繋がれた手はあっさりと離されてしまった。
 まだ一緒にいたい。帰らないでくれ。
 音にならない言葉ばかりが浮かんでは消えていく。そんな新一を置いて、黒羽は静かに立ち上がった。見上げた背中越しに月が見える。
「黒羽」
「ん?」
「……」
「工藤?」
「……またな。また、ここで」
 ようやく声にしたものは、思いとはかけ離れた言葉だった。黒羽はほんの少し驚いて、また綻ぶように笑みを浮かべる。その顔に背筋を凍らせた空虚はなくなっていたが、消えたのか隠されたのかまでは判別できなかった。
 ベンチから立ち上がることも出来ず、小さくなっていく恋しい人の背にゆっくりと手を伸ばす。公園灯の明かりに照らされる影が闇の中へと消えると、何も掴むことの出来なかった手が力なく落ちた。

 それが、四阿で見た最後の黒羽だった。

 最初はただ忙しいのだと思っていた。いや、思うようにしていた。ちょうど予告状が出ていたところだったし、しばらく姿を現さなくても不思議ではない。ただ最後の日の〝いつもと違うやりとり〟が新一を不安にさせた。
 さらには犯行から数日後、一つの大きな組織が摘発されたことが拍車をかける。奇妙な符合に独自で調べてもみたが、怪盗の痕跡は綺麗に消されていた。
 そう、消されていたのだ。何者かが介入していることは間違いないのに、見事なほどに途中で足取りが途絶えてしまう。こんなことが出来る人物を、新一は一人しか知らない。怪盗キッドの予告もそれ以降は出されることはなく、導き出される答えは一つだった。
 彼の戦いが終わったのだ。




 通い慣れた四阿で一人過ごす時間に慣れ始めた頃、迷い続けていた行動を起こした。すでにジャケットを羽織る季節になっていた。
 しかしそれも予想していた通りの結果に終わる。海外の母親の元へ行ったなどと、どこかで聞いたような話を残して江古田高校三年 黒羽快斗の姿は忽然と消えていた。
 幼馴染の女の子は連絡も寄越さないと怒り狂っていたし、倫敦帰りのホームズフリークは複雑な顔をしたまま黙り込む。
 怪盗キッドは消え、黒羽快斗は国内から飛び立った。後者が真実かどうかはわからないが、ただ生きているということだけはわかる。二度と戻ってこれないようなことがあれば、消息を断つような消え方はしない。残された人のことを思って、ちゃんと弔われるはずだ。かつて自分がそうしようと思っていたように。
 だから新一は待つことにした。
『また』という言葉に返事がなかったのは、あの日を最後と決めていたからだろう。それでも諦める気にはなれなかった。時間に換算すれば短いものだとしても、言葉で表現するには難しいほどの大切なひと時を過ごした。それは自分だけじゃないと信じたい。
 全てが終われば、きっとまた会える。
 息が白くなる頃には、迷いながらも夕暮れに合わせて公園に訪れるようになっていた。腕時計が示す時間は16時を回ったところだ。白い息を吐きながら、誰もいないベンチへと向かう。いつ来ても先に席を取られている枯れ葉にご退場いただいてから腰を下ろした。
 重なった指の熱さが忘れられないでいる。今となっては最後の最後に手を伸ばさなかったことを激しく後悔していた。離れていく掌を、どうして握り返さなかったんだろう。
 自惚れていたのだ。疲れた羽を休める場所に選ばれたんだと、疲弊した心を共有出来る特別な存在になれたんだと。喜びと、ほんの少しの優越感に浸っていた。
 そして終わりを迎えることが出来たらいつか……などと、甘いことまで考えていたのだから今となっては失笑ものだ。現実に自分が出来ることといえば、ただ待つことくらい。
 


 ——そうして漫然と、時間は流れていく。




 *



 春が来て、夏が過ぎ、秋を越えて、冬を迎える。
 どんなに疲れていても夕暮れ時に時間が空けば公園へ向かい、日が沈むまでを四阿で過ごした。
 二人で過ごしたひとときは、時間とともに輝きを増していく。自分だけが歳を取り、記憶の中の黒羽はいつまで経っても学生服のまま。
 ある時から、四阿に先客が現れるようになった。制服姿の男女。真面目そうな青年と、市松人形のような綺麗な髪の女の子だ。二人がいる時は、歩みを止めず池の周りを一周して帰ることにした。
 最初は緊張を纏っていた二人の空気が、見る度に解れていくのがわかる。微笑ましいと思うかたわらで、妬む気持ちが存在していることに苦笑した。
 彼らがいたのは一年ほどの事で、最後に見た日には揃って卒業証書の筒を手にしていた。ちょうど四阿から出るところで、反対側の手はしっかりと繋がれている。
 去っていく背中を、ぼんやりと眺めた。
 ああ、いつかは自分も……そう思っていたけれど、それは肩を並べる事ではなくて、この気持ちに区切りをつける事なのかもしれない。
 でもまだ少し、もう少しだけ。
 
 
 確証のない未来に縋りながら季節を越えて、四度目の初夏を一人迎えた日のことだった。
 葉の隙間から差し込む日差しが優しく揺らいでいる。最近では遠回りをして東門から入ることが増えた。黒羽が通っていただろう道で、こちらは住宅地側ということもあり、専ら近隣住民が利用しているようだ。
 園内に入ってしばらく行くと、白いカートが目に入った。
「あ……」
 青字に白い色で『ソフトクリーム』と書かれた看板に思わず声を上げる。食べている間の嬉しげな顔を思い出して、気づいたら手にしていた。自分から買ってまで食べたいとは思わないので、口にするのはあの日以来だ。
 来年の今頃には大学を卒業して、探偵事務所を立ち上げるつもりでいる。
 依然として黒羽は姿を現してはいない。行方不明だと騒がれる様子もなく、冷静に考えれば新しい場所で新しい生き方を見つけているのだろう。
 黒羽快斗は工藤新一との関わりの一切を断った。
 そう考えるのが自然だった。誰もいないベンチに座り、緩やかに動く雲を眺める。日が落ちるまであと30分もない。空に気を取られていると、溶けたアイスがコーンを伝うのが見えて慌てて顔を寄せた。
「あっま……」
 甘くて、爽やかで、何故かほろ苦い。
「ズルイな」
 勘で買ったと言って呆れさせたソフトクリーム。
 自分だけ綻ぶように笑って。
(俺は受け取ってやっただろう。だったら、これも受け取ってくれよ)
 責めてみたところで所詮八つ当たりだ。必ず会えるという確信がないと、相手の分を買うことさえ出来ない。それが現実。
 理屈屋で、臆病で、勇気を出すことが出来なかった者の末路だ。
 口の中に優しい甘さが広がるほどに、様々な感情がこみ上げてくる。振り切るように大きく口を開けて頬張ると、頭に鋭い痛みが走った。咄嗟に俯き頭を押さえる振りをして、こぼれ落ちそうな涙を拭う。
「……いってぇ」
 本当に痛むのはいつだって不確かで思うようにならない心の奥だ。
 口にするほど甘さはくどくなり、まるで苦行のようになっていく。過去の自分が同じように感じた記憶がないのは、恋のなせる業だったのだろう。
 なんとかコーンに辿り着く頃には日はすっかり落ちていた。薄明を通り過ぎ、冥色へと変わろうとしている。
 黒羽は何も間違っていない。どうにもならないことがあることを知っている。待つと言いながら、本当は自分の心に見切りをつけることが出来ないだけなのだ。
 これ以上待っていても彼は来ない。そして自分には追いかける勇気もない。
 ……ならば答えは一つだ。
 小さくなったコーンの、最後のひとかけを口に放り込んで咀嚼する。
 同時に叶わない恋心を胸の奥に押し込み、そっと鍵をかけた。  







 *   *   *







 閉じた瞼の裏からでも、優しい木漏れ日が差し込んでいるのがわかる。ゆっくりと目を開くと日差しが赤みを帯びはじめていた。長年愛用している腕時計を見下ろせば、18時を回っていて思わず苦笑いが浮かぶ。どうしたってこの時間にこだわってしまうのは、一生変えられそうにない。
 鍵をしたはずの想いに何かしらの言いわけをして、結局足を運び続けていた。流石にここ数年は年に一度来れるか来れないかというところだが、これほど拗れた想いを仕舞い込むだなんて土台出来るわけがなかったのだ。
 思春期に生まれた恋なんて所詮一過性のものだと、無理に客観視しようとしたこともある。歳を重ねるうちに風化して、いつか誰かと新しい恋をするのだろうと……。
「それがいまや完全にオッサンだもんな」
 探偵業に必要な体力を維持するために、運動は続けているものの気を抜けばすぐに筋力は落ちてしまう。あと数年もすれば中年太りとの戦いになるのではと戦々恐々だ。
「誰がオッサンだって?」
 突如気配もなく声が掛かり、上半身が大きく揺れた。背後から影が落ちて、見上げればあるはずのない顔に目を見開く。
「……なんで」
「なんでかな? ここに来れば会えると思ったんだ」
 にこりと笑う顔が学生服に身を包んでいた頃と重なる。ベンチの背に置かれている腕の先には、綺麗に渦を巻いた白くて冷たい食べ物が見えて、一気に苦い気持ちが蘇った。



 何かに取り憑かれたかのように仕事に没頭する新一の前に、再び黒羽快斗が現れたのは二十代も半ばに差し掛かる頃だった。それは待ち焦がれた四阿ではなく、雑誌の片隅にある小さな広告の中。遥か遠い異国の地で、彼は〝魔法使い〟と呼ばれているらしい。
 顔は映さず、観客席に向かって大きく両手を広げている。大小の白い羽がいくつも舞い落ちる様は美しく、その背が視界に飛び込んだ瞬間、身体中の水分が激しく湧き立った。悲しいとか苦しいとか、そんなことを思うよりも、生きていたという喜びが爆発的に膨れ上がる。
 迷わずチケットを取り、詰め込んでいた仕事を死に物狂いで調整した。我に返ったのは飛行機に飛び乗って、窓から見える暗闇をまんじりともせずに見つめている時だった。後先を考えもせずにここまで来たけれど、日本にいるべきだったのではないか。
 それでも引き返すことなど出来ず、劇場に向かい、観客席に腰を下ろした。あまりの緊張に、こんな状態で最後まで見れるだろうかと不安になる。しかしそんな不安も全くの杞憂に終わる。
 場内が暗くなると、ざわめきが静寂に変わる。スポットライトの中に今日の主役が現れた瞬間から、誰もが夢を繰り出す魔法使いに心を奪われていた。
 幕が閉じても鳴り止まぬ拍手の中、一人座り込んだまま目を閉じる。目蓋の裏にはまだ彼の残像が綺麗に残っていた。一雫の涙が頬を伝う。
 消え入りそうな儚さを纏っていた子供は生きて夢を叶えたのだ。満ち足りた気分だった。これでようやく本当の終止符が打てる。光り輝く舞台の上に立つ男に、過去を知る自分など必要ない。
 カーテンコールを待ちきれず、興奮に湧き立つ会場をひっそりと抜け出した。曇天の下では石造りの街並みが一層冷たく見える。
 とてつもなく青臭い言葉ではあるけれど、あの美しい夕暮れはきっと青春そのものだったのだ。歳を重ねるごとに輝きは増すけれど、二度と見ることは叶わない。
 ——帰ろう、そして自分の道を歩こう。
 遠ざかっていく劇場に心の中で別れを告げて角を曲がる。その直後だった。
「工藤!」
 弾かれるように振り向くが、声の主を見るより先に走り出していた。時折すれ違う人々の驚く顔が視界の端に消えていく。
「工藤!!」
 もう待つのは嫌だ。報われることのない想いなら、遠くから眺めるくらいがちょうどいい。ここでさよならをして、全て終わらせると決めた。生きていてくれた。それ以上は何もいらない。
 どうにか逃げ切ろうと決めてスピードを上げても黒羽は諦めない。頭を働かせてもみたが、尽く見破られて体力の限界が近づいていた。みっともないほどに息が上がり、足がもつれる。とうとう手首を掴まれた時には、額から玉のような汗が吹き出していた。
「は、なせ!」
「嫌だ!」
 振り返らないままに手を振り解こうとしてもびくともしない。本来なら今頃は再びスポットライトを浴びている頃だ。こんなところにいていいはずがない。
「何やってんだよ! オメー、拍手……!」
「工藤が帰ろうとするから!!」
「帰るんだよ、日本に! 飛行機の時間あるからっ」
「この時間から日本へ出る便はない!」
「!」
 らしくもない失態に体温がさらに上がる。吐く息はみっともなく震えていた。
「来てくれてありがとう」
「……ッ」
 伝わる熱は記憶よりもずっと熱い。こんなに大きな手だったろうか。同じ男なのに、掴まれた自身の手首が酷く貧弱に思えた。
「工藤、顔が見たい」
 耳に届く声は真摯さを滲ませていて、抗う気力を削ぎ取ってしまう。もう逃げ出す力も残っていない。迷いながらも振り返ると、最後に見た姿よりもずっと精悍な顔立ちがあった。目の位置も変わっていて、身長も伸びたようだ。
 微笑んだ黒羽の瞳はしっとりと潤んで、新一は心に大きな衝撃を受ける。
「く、ろば」
 呼べば勢いよく引き寄せられて、驚くほどの強さで抱きしめられた。
「……たかった……会いたかった工藤……ッ」
 背中に回る腕は痛いほどだが、聞こえてきた言葉は酷く弱々しい。
「う、そだ」
「嘘じゃない」
「嘘だ……!」
「嘘じゃない!!」
 そんな言葉を信じられるわけがなかった。一体何年の月日が流れたと思う。
 会いたいと言うなら、どうして何も言わずにいなくなった。どうして知らせてくれなかった。日本では見られない重厚な石造りの建物に囲まれながら、新一の脳裏には誰もいない四阿が浮かんでいた。
「話したいことがいっぱいあるんだ。頼むよ工藤、帰らないで」
 縋るように回された腕が解かれ、再び現れた顔には涙の跡があった。今もなお膨らんでいく目尻の滴がするりと流れ落ちていく。
 隠しもしない泣き顔はあまりに美しく、その表情に昔と変わらず見惚れてしまう。言いたいことは山ほどあるのに、全てが霧散していくのを感じた。
(——ああ、思い出した。俺はこの顔にどうしようもなく弱いんだ)
 戸惑いながらも頷けば、また抱きしめられて、焦がれつづけた温もりに恐る恐る手を伸ばした。

 その後黒羽はステージへと戻り、落ち着いて膝を突き合わせたのは真夜中だった。ホテルの部屋のソファーに、公園のベンチと同じように肩を並べる。
 ぽつぽつと言葉を選びながら語られたのは、想像以上に壮絶な怪盗の幕引きだった。
「半年寝てたらしくてさ。意識が戻ったのは奇跡だって言われた。全然実感はないんだけど」
 はは、と黒羽は笑うが、最も恐れていたものに片足を踏み込んでいたと知って血の気が引いていく。
「夢の中で、毎日公園に行ってたよ。でも工藤には一度も会えなかった……ごめんな」
「……な、んで謝るんだよ」
 発した声は震えていた。黒羽はもう笑っておらず、悲しそうに目を細めている。
「また、って言ってくれたのに俺は返事をしなかった。現実であのベンチに一人にさせたのは俺の方だ」
 待ってなどいないと虚勢を張る気力はなかった。返す言葉が見つからず、迷った末にずっと知りたいと思っていたことを口にする。
「だったらなんで、連絡をくれなかった?」
 目を覚ましてから今日までの間に、どれだけの月日が流れたか。一人にさせたと認識しているのなら、尚更疑問は強くなる。
 黒羽はしばらく黙り込み、怒らせるかもしれないけど……と前置きをして話し始めた。
「俺の探し物には、タイムリミットがあったんだ。あの頃、迫ってくる期限に俺は随分と追い詰められていた。神経がどんどんすり減って、自分でも流石にやばいなって……。気休めに行った公園で工藤と会ったんだ」
 江戸川コナンが元の姿に戻ったことは知っていたけれど、実際に目にするのは初めてで思わず立ち止まってしまったと黒羽は言った。何かの思惑があったわけでもなく、本当に偶然だったのだ。だとしたら何という巡りあわせだったのだろう。
「帰ってからも工藤のことが忘れられなくて。一人でいても余計なこと考えるばっかりだし……だったらって、通うようになったんだ」
「俺が警察に突き出すとは思わなかったのか」
「それはなかったな。キッドの衣装を纏っていない俺に、お前が興味を示すとは思えなかったから。実際そうだったろ?」
「まぁ、な」
「あそこで過ごす時間に随分と救われたんだ。それでも現実にはどんどんリミットが迫っていて、とにかくどんな手を使ってでも終わらせようと思い始めてた。そんな時にこれだって獲物が展示されることになって」
「最後の予告状になった……」
「今思うと、俺は壊れかけてたんだと思う。命を捨てても構わないとまで思って、最後の日はさよならのつもりで公園に行ったんだ」
 心臓が大きく跳ねる。昔と同じように黒羽の目は遠くを見つめていた。ここではないどこかに消えていってしまいそうで思わず手を掴む。
 過去の二の舞は二度としたくなかった。黒羽は驚いたように見下ろしたあと、苦笑しながらも体をこちらに向けて握る手にさらに手を重ねる。
「でも工藤の言葉で俺は戻ってこれた」
「え……?」
「転んで泣いた子供と同じだって、そう言ってくれただろう。俺は特別じゃない。工藤だって特別じゃない。だから等しく、皆が特別なんだって」
 それは新一の心にも深く刻みこんでいる言葉だ。
 壊れたから弱いわけじゃない。耐えられたから強いわけでもない。そもそも心の痛みは誰かと比べるものでさえなく、誰の心も等しくこの世の唯一なのだ。
「だから俺も生きなきゃって思った。生きて、また工藤に会いたいって」
「でも……」
「動かなかったんだ」
「え?」
「一時的なものだったんだけど、左腕が動かなくて。こんな姿で会いに行っても同情されるだけだと思った」
「そんなこと……っ」
「ないって言えるか? 工藤はずっと心配してた。俺の違和感を感じとって、異変がないかをいつも探ってた」
 反論は出来なかった。危うさを感じていたのは確かな事実だ。
「だから胸を張って会いに行けるようになったらって思ってたんだけど。思いの外時間がかかっちまって」
「……いつになる予定だったんだよ、それは」
 一番上に重ねられた黒羽の左手を見下ろす。舞台上の姿からは微塵も感じられなかった。誰もが彼に魅入られていたけれど、裏にある血の滲むような努力を思うと胸が熱くなる。
「来年の春に日本でのショーが決まったんだ。その時に会いにいこうと思ってた」
 急速な感情の昂りを抑えられずに、重なる手にさらに手を重ねた。二人して両の掌を交互に積み重ねる様子は、後から思い返せば随分と滑稽だ。
「……待てない」
 勝手なことを言おうとしている自覚はあった。それでもどうにもならない熱情は、言葉になって吐き出されていく。
「そんなの、待てない。ずっと後悔してた。どうしてあの時、引き止めなかったんだろうって。問い詰めて、何をしようとしてるのか聞き出していれば、俺が行動を起こしていればこんなことにはならなかったかもしれないって」
「それは違う!」
「違わない! この手が! この手が動かなかったんだぞ!? それがどういうことか、わからないわけないだろ? でも……っ」
 唇を噛んで俯く。一度震える息を吸い込んでから、絞り出すように言った。
「でも……よかったって喜んでる自分もいて……」
「え……?」
「そんな自分が、すげぇ嫌だ……」
 予期せぬ言葉に黒羽の思考が停止したのがわかる。視線から逃れるように、俯いたまま強く瞼を閉じた。
 もういい。ここまでくればもう何もかも曝け出してしまおう。全てを吐き出したら、今度こそ終わることが出来る。
「……待ってたんだ。俺はあそこで、お前が来るのを……でも半年経っても、一年経ってもお前は来なくて。ああ、もう俺は切り捨てられたんだなって」
「ちがっ」
「わかってる。だから、嬉しくて。お前は想像も出来ないくらい辛い思いしてきたのに、会いたかったって言ってくれたことが嬉しくて」
 ゆっくり顔をあげると、澄んだ瞳とぶつかった。夕暮れが終わり、夜を迎える間際の空と似ている。深い深い藍色。一瞬だけ訪れるブルーアワー。
 生きていてくれたことが嬉しい。こうして会えたことが嬉しい。もう、十分だ。
「俺は、お前が好きだった」
「……」
「ずっと黒羽が好きだったんだ……」
 重なっていた手を解いて立ち上がる。
「工藤?」
「来年、楽しみにしてる。でももう押しかけたりしないから安心しろ」
「何言って……どこ行くんだよ」
「帰るんだよ。大丈夫、ホテルは取ってある」
 夜中になってしまったが、チェックインは先に済ませているので問題はない。今更ながら飛行機で帰ると言ったことが恥ずかしい。
 背を向けてドアへと向かいながら、いつも見送ってばかりだったなと苦笑する。最後くらい逆になっても許されるだろう。ドアの前で振り返らないままに立ち止まる。
「黒羽、さっきはああ言ったけど、待ってやれなくて悪かった。でも最後にお前に会えてよかったよ。サンキュー」
 やっと区切りをつけることが出来た気がした。失恋の痛みは後からやってくるのだろうが、今は清々しい気持ちが先立っている。
 しかしドアノブへ手を伸ばすと同時にソファの軋む音がして、あっという間に手首を掴まれていた。驚いて振り返ると、一目で怒っているとわかる黒羽の顔がある。
「サンキューじゃねぇよ……! 勝手に終わらせようとするな!!」
 強制的に向き合う形になると、もう片方の掌がうなじへと動いて頭部を固定される。あまりの近さに逃げようとすれば、腕の自由の代わりに腰を抱き寄せられた。
「逃げるな」
 射抜くような強い瞳に睨まれて、動くことは出来なくなる。
「俺だって、本当はもっと早く会いに行きたかった。でも出来なかった。同情されたくない、それも理由の一つだけど、もっと大事なことがあったから」
 黒羽は瞳の奥を揺らめかせて苦しげに眉根を寄せた。
「腕を治して、夢も叶えて、何ひとつ諦めずに死に物狂いでやってきたのは……お前に、工藤に会って言いたかったからだ」
 前髪が混ぜ合うほどの距離で、瞬きをすることも忘れ、吐息とともにやってくる言葉を受け止める。




 ——好きだ。
 



「ずっと好きだったんだ」
 遠い異国へと飛んでいた意識が、一気に現実に引き戻される。
「え?」
 上手く咀嚼出来ずに問い返すと、快斗は眉を八の字にして微笑みながら隣に腰を下ろした。手にしたソフトクリームはひとつで、てっぺんの尖が大きな口の中へ消えていく。
「ん、昔と変わらず美味い」
 幸せそうな顔で頷き、手にしたものを差し出してきた。
 相手の顔から視線を移せば、「あーん」と更に口元へ寄せてくる。戸惑いつつ舌で舐めとると、確かに昔と変わらぬ甘みが広がった。快斗は再び大きく口を開けていて、すぐにコーンだけになってしまう。
「昔は新一のことわかってなくて二つ買って来ちゃったけど、俺達には一つがちょうどいいな」
 差し出される度に顔を寄せるが、快斗の言う通り最後まで甘いくどさを感じることなく食べ終えることが出来た。
「でもお前には足りないんじゃないか?」
「んーん、俺にはこれがあるから」
 何をと問い返す間も無く、見る間に顔が近づいてくる。気づけば小さなリップ音が耳に届いて、唇に唇が触れていた。
「ばっ、何すんだ!」
「シー。誰も見てないけど、大声出すと気づかれるよ?」
「うっ」
 人差し指で唇を押さえられて、渋々浮きかけた体を戻す。そうして再び静かな時間が訪れた。
 一人で過ごすことに慣れすぎていて、どうにも隣の気配に落ち着かない。示し合わせたわけではないが、再会してからもここで会うことは一度もなかったのだ。窺いみれば昔と違い、常に纏っていた危うさや儚さは欠片も感じることは出来ない。
 それにしても……と足を組みながら考える。日本での休暇が重なるのは本当に久しく、正確に言えばなんと一年半ぶりだ。彼は今や飛ぶ鳥を落とす勢いのある人気者で、世界中からオファーが絶えない。自分とて働き盛りで、国内外からの依頼でスケジュールは真っ黒だ。休暇といえども細かい仕事はなくならないし、そんな中で本当にふと思い立ってやってきたこの場所にどうして彼は現れたのか。あまりに不可解だ。
 無意識に顎に手を当てていると、ふは、と笑い声が聞こえた。
「……なんだよ」
「いや、わかりやすく考えてるなと思って」
「当たり前だ。そりゃいつかはって思ってたけど。何で今日なんだよ、しかも突然」
 もっと先のことだと思っていた。それこそ二人とも深い皺が出来て、現役もリタイアし、老後といわれる頃のことかと勝手に想像していたのだ。
「ずっと考えてはいたんだ。でもなんか、なんかさ。勿体ないなって思って」
「勿体ない?」
「うん。だって俺たち忙しいだろ。今だって会えるのは年に数えられるほどだし、それがいつまで続くかもわからない。だったら〝いつか〟なんて言ってないで、来れる時に来よう。ただしこれからはちゃんと約束してさ」
 穏やかに話す快斗の顔が赤みを帯びてくる。茜色の夕焼けはすぐそこだ。何度も一人で見た光景は、前を見ずとも移り変わる様を鮮明に想像することが出来た。
「昔はホームルームすっぽかして、一目散にここに来てた。新一より先に着くって決めてさ」
 何でかわかる? と快斗は小さく笑う。高校生姿の見慣れた後頭部を思い浮かべると、跳ね放題の柔らかな髪が風に揺れていた。
「そうすれば期待しなくていいだろ? 後でも先でも会えない時の落胆は結果的には同じだけど、最初から誰もいないってわかってるベンチに向かう方が楽だったんだ」
「ずるいやつ……」
「そう、俺はずるかった。自分本位で、恥ずかしいくらいガキで、挙句お前を一人にした。でも目の前のことで精一杯だった高校生の時から、俺は新一のことが好きだったよ。ずっと、ずっと、新一だけが好きだ」
 どちらからともなく手をつないでいた。微笑むだけで顔を戻せば、目前に広がる景色は刻々と移り変わっていく。
 太陽が沈むと空は一気に深い茜色へと染まり、反するかのように緩やかなスピードで黄昏が訪れる。
 やがて優しい紅掛空色が深い蒼に包まれると、静かに夜の始まりを告げた。