久々に降り立った日本は、もう夏も盛りを迎えていた。
空港の窓から覗き見える濃い青空、その暑苦しさに、黒羽快斗は思わず苦笑したものだ。
到着後にシャワールームを借りてさっぱりし、手早く着替えた。ベージュのジャケットは麻、澄んだ水を思わせる薄青のシャツに、涼しげなアイスグレーのスリムパンツを合わせた、小綺麗なジャケット&パンツスタイルだ。
見た目にも涼しげなスマートカジュアルの装いにチェンジしたものの、やはり日本の夏は暑い。その暑ささえも、あと数時間で愛しの名探偵に逢えると思うと苦ではなかったのだが。
「うわ」
踊り出したいような高揚感も、そこまでだった。震えだした携帯の液晶に表示されている電話主の名を見て、快斗は嬉しさよりもむしろ気が遠くなる心地になった。
「……どうした~、新一? 俺が恋しくて待ちきれなかった?」
電話に出るなりあえて軽口を叩いたものの、悪い予感が当たっていませんようにと内心全力で祈るしかない。
まぁこんな時の神頼みがことごとく裏切られることは、解っていた。
『わりぃ快斗! ちょい今事件でな、出てる』
勢いよく応える電話の声に、天を仰いだ。最もいま聞きたくて、でも聞きたくなかった恋人・工藤新一その人の声。
窓ガラス越しに溢れる夏の日差しに、これでもかとばかりに燦めく空港内の風景が、突然ただの白けたものに変わってしまったようだった。
久しぶりの帰国、久しぶりの逢瀬。今日はとびきりの夜景が見られるスターサイドタワー最上階にある三つ星フレンチレストランをリザーブ、そこから5分のホテルでスイートも予約済みだ。
完璧な段取りの中で、やりたいこともあったのに。
「あー……」
思わず途方にくれた声を零した快斗に、だが新一は珍しく被せるように強い声で返した。
『間に合わせる!』
「……っ」
『待ち合わせ、予定そのままでタワービルの一階で待っててくれ。間に合わせる』
「……そう願いたいところだけど、事件解決のメドはついてんのか? てか現場どこ?」
『場所は霞が関、産生会スクエアビル。犯人はもう分かってる。ただ、証拠が……でも絶対行くから』
珍しく必死なその声音に苦笑して通話を終わらせたものの──証拠が、と言い淀む彼の声音には、難渋を匂わせる響きがあった。何時から事件に当たっているのかは知らないが、証拠なんて事件解決において一番の要であることは間違いなく、ほぼそれが全てと言っていい。
つまり証拠が掴めなければ、名探偵の身体も空かない、ということだ。
本気になった名探偵の分析力、推理力は信頼している。だが、今日ばかりは打てる手は全て打っておきたかった。
鞄の中で小さな箱が揺れている。その中に忍ばせたリングを、出来れば今夜、恋人の左手薬指に飾りたい。
フランスのジュエリーブランドでも屈指の老舗メゾンにて、オーダーメイドで仕上げたリングだ。プラチナに、バゲットカットのダイヤをひとつ埋め込んだ、ごくシンプルなものだ。きっと派手すぎるものは、新一が好まないと解っていた。
もしプロポーズを受けてもらえたなら、勿論今度は二人でマリッジリングも買いに行きたいが、このエンゲージリングもできればしまい込まず、普段から一緒に指に飾って欲しいという思いで設えた、シンプル・イズ・ベスト。
自分も新一も、今年29歳。来年、節目の年を迎える。
断られない自信はあった。だが、だからといって結婚の二文字を互いの間で出し合い、語り合ったことはない。
正直なところ、黒羽快斗ともあろうものが柄にもなく緊張していたし、できれば何のアクシデントもなく事を運びたかったが、やはり。
(ま、それが俺の愛した名探偵ってやつだよな)
彼が事件を呼ぶのか、事件が彼を呼ぶのかは定かではないが、少なくとも、迷宮無しの名探偵は真実を見出すまでそこを動くことはない。それだけは確実であった。
もう一度、深く吐息し、快斗は膿んだ気分を振り切るべく顔を上げた。
できれば自ら現場で新一をサポートしたかったが、この身体はまだ空港である。しばし悩み、やがて快斗は再び携帯をタップし始めた。
新一は、内心の焦りをポーカーフェイスで押し隠しつつ、現場のオフィス一階ホールで警察関係者と共に佇んでいた。
帰国二週間前に、快斗から連絡があった。
『ちょっとお洒落してきてよ、新一』
そんな快斗の言葉と共にレストランの名前を聞いたときは、あぁドレスコードがあるんだなぐらいにしか思わなかったのだが、後から場所を確認したときに、レストランの情報を目にしていささか驚いた。
あのタワー最上階にあるレストランは、三か月前から予約が当たり前という屈指の人気を誇る三ツ星レストランだったのだ。
快斗のことだから、その近辺にあるホテルの部屋だって、同時に押さえたのだろう。
プロマジシャンとして世界を駆け回るようになってからは意識して、帰国後の新一との時間を大切にしてくれるようになった快斗だ。それなりに華やかなレストランで食事を共にし、旅行するわけでもないのに新一を誘って都内の高級ホテルで一夜を過ごすという、この流れだって別に初めてのことではない。
だが、さすがに今回は、新一も息を呑んだ。
(三か月前って……遠征にいく前じゃねぇか……)
予定通り帰ってこられる確証もなかったはずだ。それでも快斗は予約し、そして宣言通りの日程で帰ってきた。
この約束を破るわけには、いかない。そんな気がした。
事件を解決中だと告げたとき、「あー……」と天を仰ぐ快斗の声に、珍しいほどの落胆を感じ取り、余計に焦りは募った。自分だって快斗には逢いたい。この日を指折り数えて待ったのは、何も快斗だけではないのだ。
(ぜってぇ間に合わせなきゃ、なんねぇのに)
待ち合わせの前に、警視庁の高木と少し気になっている事件の情報交換をしようと、霞が関に足を運んでいたのが運の尽きだった。
霞が関のオフィスビルで突如起こった殺人事件。
トリックが潜んでいるとしたら、30階まで昇降するエレベーター絡みのはずなのだが。
(わからねえ……くそ……っ)
目を伏せ、こめかみをゆっくりと揉みほぐす。逸る気持ちを必死で落ち着けようと努めた。大丈夫だ。店は6時の予約。快斗と電話してから更に時間は過ぎたが、それでも今はまだ夕方の5時。猶予はある……己に言い聞かせた、その時だった。
「おや。何やら騒がしいですね」
「……!」
聞き覚えのある声に、思わず弾かれたように顔を上げれば、目前には品の良いスーツを着こなす知り合いが立っていた。
「事件かい? 工藤くん」
「……また珍しいな。帰ってたのか、白馬……!」
東都のみならず、イギリスにも拠点を持つ生粋のサラブレッド探偵・白馬探がそこにいた。今では実業家としても成功し名を馳せているこの男とは、同じ大学で過ごした仲だ。卒業後、白馬はイギリスに発ったが、こうして不定期に日本に戻ってくる。
「たまたま父の仕事の関係でここを通りかかったら、ビルの前にパトカーが山ほど停まっているし、知り合いの刑事もいたので、少し車を停めて様子を見に来たんだよ。そしたら君がいた」
白馬はニコリと笑って、首を傾ける。血に濡れた人造大理石が生々しく光る一階ホールを見回した。
「随分、眉間に皺が寄っていたね、工藤くん」
「……まぁな」
深く息をついて頷けば、白馬がちらりとこちらを見た。
「その格好。今夜、何らかの予定があるようだね」
口元に柔らかな笑みを浮かべて白馬が言う。さすが同職、語る前から全部お見通しのようだった。
今日の新一は仕事着のスーツではない。
白い七分袖のジャケット、インナーにはノータイでも綺麗に襟元を演出するホリゾンタルの淡いブルーグレーシャツ、そして黒のスリムパンツを合わせている。このあと快斗と食事するつもりだったからだ。
「現在時刻、17時05分32秒です。さっさと済ませたいところですね」
アンバーの瞳を光らせ、白馬が油断なく辺りを見回す。
一歩足を進めてそんな彼と肩を並べ、新一はごく小さな声で囁いた。
「犯人は、あのグレーのスーツを着た男だ、白馬」
「証拠は?」
少し離れた場所で警察としたり顔で話している被害者の友人男性へ、二人してさりげなく視線をやる。
「まだだ。トリックはエレベーターにある。それは解ってるんだが……」
「力になりましょう。猫の手よりは役に立つと思いますが?」
「……ギャラは出ねぇぜ? イギリス帰りの探偵くん?」
くすっと笑って目を細めた新一に、
「いいですよ。いつか君にただ働きして頂きますので」
白馬もまた口角を上げた。大学時代はよくこうして同じ現場に遭遇しては、我先にと謎を解いたものだ。ついでに言えばそんな現場には大体、西の名探偵である服部や異色の存在であった快斗もいたわけだが。
ちょっとした懐かしさを感じつつ、二人は謎解きに没頭した。
土壇場での白馬の参入は大きかった。気持ちに余裕ができた途端、新一も今まで見逃していた手掛かりに気付いたし、白馬の分析力も流石だった。
しかし、時間はやはりギリギリだった。
「貴方は、2時10分に最上階より中層を停止せずに通過する、この第2号機を使ってまず9階へ降り、誰にも見られず川内さんを殺害。その後、貴方は遺体を清掃業者の清掃キャリーに放り込み、全階層に停止する第1号機を使って15階へ運び、北エリアのトイレで彼の血や毛髪をばらまいて偽の『現場』を作った。そして……」
新一が謎解きを始めたのは、25分すぎだった。
「…………というわけで、最後は、再び上層階の30階より貴方はここへ帰ってきた。既にそのときには遺体はキャリーごとこのフロアに到着し、利用客によって発見され、辺りは大騒ぎだったというわけだ。けれど、貴方にも一つ誤算があった。片目のコンタクトを紛失したということです」
「……っ!」
グレーの冴えないスーツを着た中年男が、愕然と瞠目する。その瞳の奥に、遂に絶望が墨をぶちまけたように広がってゆくのが見えた。
「僕が貴方の左側に立って、手帳を指し示しながら話しかけたとき、貴方は必ず首を不自然に大きく回してこちらを見ていた。右目しか役に立たなかったからです。瞳も、気をつけてよく見ればすぐに解りました」
「いや、こっ、これは、ちょっと今日洗面所で顔を洗ったときに落として流してしまっただけなんだ!」
狼狽する男が抗議する。
「そうですか? 本当に?」
「……っ」
「これが、貴方が彼を殺害した本当の現場、9階の北フロアの、一見して綺麗なトイレから見付かったコンタクトです」
鑑識が既に拾い上げ、小分けのBOXと保護袋に入っているコンタクトを掲げれば、もう仕上げだった。
「調べれば、貴方のコンタクトかどうか、すぐ解りますね。血液反応も出たようですよ? さらに9階のゴミ箱からは返り血の付いた薄手のスモッグも発見された。スモッグの内側に不着した微細な繊維一本でも採取できれば、貴方のスーツの繊維と、照合が可能だ」
「……っ! くそ……!」
怒りと悔しさで真っ赤に首まで染め上げた犯人が、ぎらつく瞳で新一を睨んだ。
「何でお前がこんな場所にいるんだよ! くそが……名探偵気取りで人の邪魔しやがって……っ!」
犯人が突如動いた。はっと息を呑んだ警視庁捜査一課の面々が止める暇もない。男が傍らにあった清掃用キャリーの横にかけてあった、泥水の入ったバケツを掴み上げる。モノそのものなら足で幾らでも蹴飛ばせるが、水はどうにもならなかった。
(ヤバい……っ!)
咄嗟に顔を腕で覆った次の瞬間、横薙ぎにされた汚水が勢いよく、新一の身体にぶちまけられた。
犯人はあっという間に連行されていったが、新一は万事休すだった。
ぽたぽたと汚水が足下に落ちて、薄汚れた水たまりを作っている。白を基調としたジャケットとパンツは今や、流行のペイントゲームでペイント弾でも発射されたかのように茶色の水痕が飛び散って、悲惨な様相を呈していた。
「工藤くん、これを」
ばあやから運ばせたというタオルを差し出してくれた白馬に礼をいい、有り難くタオルでざっと水分は拭いたが、汚れはどうにもならなかった。クリーニングするしかない。
(さて……どうする?)
さすがに工藤新一といえど、これにはもう、打つ手がなかった。
現在時刻、5時40分。今から快斗の待つ店までタクシーを飛ばせば、渋滞混みでぎりぎり間に合うかもしれない時間だった。しかし、この状態ではとてもじゃないがレストランには入れない。当たり前だが替えの服を用意しているわけでもない。どこかで服を調達するにしても、ここは霞が関のど真ん中、簡単にスーツやスマートカジュアルな服が手に入る店などない。
(タクシーで金座まで出て、どっかの店にでも駆け込むか?)
だがあの辺りは夕方、そこそこ混雑しているはずだ。
ああ、くそ、上手くいかないな……心の奥で呟き、焦りながら新一は汚れてしまった革靴の爪先をじっと見つめた。
限りなく気持ちが落ちてゆくのを止められない。
2、30分の遅れならば何とか席をキープすることも可能かもしれないが、それ以上は幾らなんでも厳しい。
(……最悪キャンセル、させるのか? あいつに……)
久しぶりのデートになるからと、きっと張り切って予約してくれたはずだった。
必ず今夜のディナーを一緒に、と快斗が予約を入れたのは果たしていつだったのだろう?
下手すれば遠征前から決めていた今夜の食事。快斗は多分、それなりに思い入れを持って場所を定めたのだ。
新一に見せたい風景、共に味わいたい食事、語りたい言葉がきっと、そこにはあったはずで。
久しぶりの帰国に合わせ、誘ってくれた快斗の気持ちを踏みにじるのが、何より辛い。簡単に諦めるつもりもないが、大幅に遅刻するのはまず避けられそうになかった。
(ひとまず、連絡、しなくちゃな……話はそれからだ)
鞄から携帯を取りだしたものの、指が重い。どう言い訳したところで事実は変わらないのだ。とにかく遅れると連絡して、それからタクシー手配だが。
(あぁ……くそ……こんな姿で乗車拒否されなきゃいいが……)
ぐっと歯噛みして、携帯のロックを解除した、その時だった。
「さて。では準備しなければいけないね、工藤くん」
隣の白馬が明るい声で告げた。ちらと顔を上げ、新一は肩を竦めた。
「準備ったって……家に帰ってたんじゃ間に合わねえし、どこかで服買わなきゃなんねぇけど、時間が……」
「諦めるのかい? 大事な約束があるんだろう?」
微かに芯を孕んだ白馬の声に、携帯を持つ手がぴくりと強張った。
諦めるという単語は、最も工藤新一が嫌う言葉の一つである。
「……いや諦めるとは誰も言ってねぇよ。でも遅れるのは確定だ……連絡は、しねぇと」
幸いレストランは、様々なショップの密集する金座にあるから、その辺りへ行けば幾らでも服は手に入る。だがブランドのオフィシャルショップや大型店舗が軒を連ねるあの場所で、いったん店内に入れば最後、服を買って出てくるだけでもそこそこ時間は食う。泥だらけの格好を行き交う人々に笑われることはこの際気にしないが、一体どう行動すれば、最短で服を手に入れられるだろうか。
「工藤くん」
そんな新一の焦りをよそに、白馬が柔らかく微笑んだ。
「友人とは、困ったときに支え合うものでは?」
すぐ近くのビルに入っていたテナントが、白馬の目的地だった。黒地に金文字のプレート看板はかかってはいたが、扉は閉まっていたし、一見して何の店なのかすら判然としない店構えだ。しかし白馬がチャイムを鳴らせば、たちまち重厚に黒光りする扉が開いた。
霞ヶ関の中に、こんな隠れた名店が存在していたとは、驚きだ。
いらっしゃいませ白馬さま、と顔をみるなり恭しく礼をする男に手荷物を預けた白馬が悠然と、
『僕の友人が、突然のアクシデントに見舞われて、今すぐ、大至急、上下一式揃えなくてはならなくて。申し訳ないが、10分ほどで店を出られるよう、仕上げてほしい。彼がいま着用しているジャケットとパンツと似たテイスト、同サイズで。スマートカジュアルな方向で揃えて頂きたい。モノは任せます。とにかく早くお願いしたい』
と、己の黒光りするカードをさっと預けて告げた。
畏まりました、と係員がカードを押し戴くようにして下がり、別の店員が即座に別室へと二人を案内した。
新一の脱いだ着衣はいったん全て店員が預かり、代わりに高級感溢れるバスローブを着せられた。店員が店内から商品を集めてくる間、白馬とクラッシックの流れる応接間で差し向かいになり茶を飲むという、訳の分からない状況に放り込まれた新一である。
「なぁ、白馬、ここ……」
「大丈夫です、大した値段じゃありません」
にこりと笑って白馬は言うが。
(……絶対嘘だろ)
こんな空気感、父に連れられてオーダーメイドスーツの高級店に連れてこられたとき以来だ。
しかも、三分と立たず運ばれてきたジャケットやパンツは、どれもサイズや色味は新一が着用していたものと寸分違わず、少し細身にみえるよう、スマートカジュアル向けでフィット感も最高にいいものだった。値札は全て黒い紙の封筒で包まれて一見しても解らないのだが、生地は極上の部類だとひとめで解る。
着ていた服は店側がクリーニングに出し、後で白馬の自宅までいったん送付されるというので任せた。
パンツの裾を少しだけ直してもらう数分の間に、泥跳ねして汚れた靴も磨かれていた。完璧だ。
(うーん、これは……)
下手すると新一のスーツ類の中でもオーダーメイド品に並ぶ高価なコーディネートになりかねなかった。この店ならば十分にあり得る。
父・優作ならばともかく、新一個人の金銭感覚はごく普通に庶民のものだ。ひょいひょいと気軽に買うとは言えない値段であるのは間違いなかった。
いやこの際出すわけだが。使う暇もないまま貯まった金を放出するなら今この時においてない。時間を金で買うとは正にこのことである。
用意された服は当然全ての値札が切られていて、正確な価格はやはり不明だった。更衣室に再び飛び込み、それらを大急ぎで身につけつつ、新一は声を上げた。
「白馬」
「何ですか工藤くん。このあとお送りしますからご心配なく」
「あぁ、わりぃ。あと、ちゃんと支払うからこれの明細あとでくれ」
半ば無理だろうなと思いつつそう申し入れたが、案の定、白馬が品良く微笑んだ気配がカーテン越しに伝わった。
「お気遣いは無用です」
やはり新一の推測通り、白馬はそう言った。
これは絶対に明細を見せるつもりがないという声だ。付き合いも大学時代からだから、もうそこそこ長い。互いに考えていることは大体解る。客を店が選ぶレベルの場所へと強引に新一を連れ込んだからには、白馬本人が面倒をみるつもりなのは明確だった。
しかしながらお気遣いは無用って、お前が思いっきり俺を気遣ってんじゃねえかと叫びたくなる。
「いや珈琲1杯ならともかく」
「まぁ話は最後まで聞きなさい、工藤くん」
白馬がゆったりと、カップをソーサーに戻す音がカーテン越しに心地良く響いた。
「考えてもみてください、工藤くん。ドレス代をシンデレラ本人から頂く無粋な魔女など、おとぎ話にはいない。そうだろう?」
「…………何?」
含みのある台詞に、ぴくりと新一の睫が震えた。
この自分をシンデレラに喩えたことについては大いに抗議したいところだが、今はそういう問題ではない。
シンデレラからドレス代を徴収するつもりはない、と白馬は言った。つまり。
「君から欲しいのはお金ではないよ」
「ほう?」
「この後の出来事を、誰よりも先に、僕へ話してほしい。これが条件ということで、どうかな」
ベルトも締め、新しいジャケットに腕を通していた新一は、一瞬、ぴたりと身体の動きを止めた。いや止めている場合じゃないと慌てて全身をチェックにかかるが、脳の一部が一瞬にして新たな予感にもっていかれた。
この後の出来事を後で話せ、と白馬は言った。
白馬は、この服の値段に見あうような土産話を期待しているのか? もしそうなら、相当な土産話でなければつり合わないと思うのだが、一体、彼は自分に何を期待しているのだろう。
今日、新一が誰に逢うつもりなのか、彼は一言も尋ねはしなかったのに。
(……そういうこと、か)
新一は勢いよく厚手のカーテンを開け、靴べらを使って美しく磨き抜かれた己の靴を履いた。既にまとめた荷物を白馬のばあやが抱えて出ていくところだった。
白馬ももう立ち上がって更衣室の目の前で待っていた。
新一のジャケット胸ポケットに、手慣れた仕草で青のポケットチーフをクラッシュドスタイルにして飾ると、最後にぽん、と胸元を軽く掌で叩いた。シャツに似合う色合いのチョイスだ。
「さぁこれでいい。行きましょう。カボチャの馬車がお城の近くまでお送りします。とはいえ、夕方の渋滞に掴まり動けなくなったら、そこで車を降りてください。そこからなら走って5分もかからない」
「はく、ば……」
肩を並べて歩きはじめながら、新一は苦笑した。全く、自分は素敵な友人に恵まれたものだと思いながら。
近くまで、と彼はさらりと言うが、白馬に今夜の目的地を話した記憶など、勿論ない。
「楽しいお話が誰よりも早く聞けること、楽しみにお待ちしていますよ、工藤くん」
「……!」
足早に通路を歩きながら、彼が泰然と微笑む。そんな白馬の横顔をちらりと横目で見つめつつ、新一の胸にひとつの確信が生まれた。
そういえば、白馬の出現もやけにタイミングが良かった。幾ら白馬が霞が関にいてもおかしくはない人物だとしても、広い東都だ。ピンポイントで同じ現場に出くわす確率など、そうはない。
つまり、そういうことだが──
(楽しい話って……じゃぁ、なんだ……?)
瞬間、頭で考える前に、とくん……と己の胸が高鳴った。白馬は何かを知っている、もしくは察しているのだ。
肩を並べて小走りに店を出る。ウインカーを灯し待機していた白馬家の自家用車へと乗り込めば、案の定、白馬が「スターサイドタワーへ」と迷うことなくばあやに指示した。
まだまだ熱を持ち、じりじりと灼ける大気がアスファルトから揺らめき立つような真夏の夕暮れに、純白のメルセデス・ベンツSクラスが滑るように走りだす。流れ出す風景を眺めつつ、新一はつと目を細めた。
白馬は、快斗と新一の関係を知る、数少ない友人の一人だ。真実を知ってからも、偏見ひとつなく自然と二人を受け入れ、祝福してくれた。
……そんな彼が、楽しい話、と言った。
そつなく隙の無い、どうとでも取れる便利な社交辞令的な単語だ。けれど。
右に座る白馬とは反対の左車窓に向けたままの顔を、ここにきて動かせなくなってきた。じわりじわりと、耳まで熱くなってくるのを抑えられない。
(自意識過剰、かもしんねぇ、けど……)
快斗と紡ぐ未来について考えたことは、正直なところ何度かあった。きっと、快斗もだ。
別に確たる約束が欲しいわけじゃなかった。男同士、まだ正式な結婚など法的には認められぬ国に生きている。それでも互いが互いの運命だと豪語して疑わぬだけの絆は、既にある。
けれど、それほどまでにずっと共に在りたいと願う存在となら、将来を言葉に出して誓わない理由が、逆に無いのではないか、と。
考えたことは、一度や二度ではなかった。
誓ったところで現実の生活がどれほど変わるのかは、解らない。けれど、生涯ただひとりと心に決めて互いに誓い合うことが、無意味だとは、決して思わない。
そしてあの気障男の思考回路は、わりと自分と似通ったそれであることも多い。
今夜? 十分あり得る話だった。舞台設定は、十分だ。
勿論深読みのしすぎかもしれない。それならそれでいい。けれど、もしそうだとしたら。
ちらりと己の腕時計に目を落とす。この上なく白馬は丁寧に、素早くお膳立てしてくれたが、それでも6時まであと4分。
どくどくと、心臓が早鐘を打ち始めた。
華やかな金座の大通りまできたが、車がついに交差点でもない場所で停止してしまった。
前後左右に連なるテールランプの赤光で地上は紅く燃え、ようやく夏の遅い夕暮れを迎えた空もまた、鮮やかに燃えていた。前方の信号は赤だ。
「白馬」
小さく声を掛けた。はい、と心得たように白馬がこちらを見た。
「ありがとう。この礼は、いずれ」
はっきりと彼の目を見て告げれば、白馬が実に上機嫌な笑みをみせた。
「お気になさらず。さぁ、時間ですよ工藤くん。お気を付けて。12時になっても帰らなくて結構ですよ、ジャケットの魔法は解けません」
「おいさっきから勝手にシンデレラにするなっつの……ったく、じゃぁな。本日はありがとうございました。お世話になりました」
運転手である彼のばあやにも一言礼を告げ、停車中の車から新一は飛び降りた。全く、白馬が妙なことを言うから頬の熱が引かない。
歩道へ上がる。目的のタワービルまであと少し。今ならまだ少し遅れるだけで入店できるはずだ。
ハンカチーフが落ちぬように上着を脱いで、できるだけ皺にならぬように腕にかけた。黄金の脚とまで評されたこの脚力、役立てるなら今だ。
人混みを縫うようにして、華やかな街を工藤は懸命に駆けた。つんのめりそうになるのを、ぐっと耐えて、飛ぶように、ひたむきに駆けた。
早く、早く、一秒でも早く。
──快斗に、逢いたい。
一方、快斗は、今日の主戦場となるレストラン店がテナントとして入っているタワービル1Fロビーにいた。
出入り口のガラスドア越し、華やかな照明が煌めき始めた街を見回すが、まだ新一は現れない。そろそろ雲行きが怪しくなってきた。
あのとき、とっさの機転で空港から白馬に電話を入れ、サポートを頼んだ。別に今夜何をするつもりかなんて事細かに言ったわけではない。ただ、事件解決に協力してほしい、かかった経費は後で自分宛に請求してくれ、最終的に新一をレストランの場所まで送ってほしい……この三点を頼んだだけだ。
しかしレストランの名を告げた瞬間、それだけで白馬が「あぁ……なるほど」と何かを察したような声を出したのは、気にくわなかったが。
(これだから探偵の友人は嫌なんだよ……)
……ちなみに本気で嫌だとも思っているが本気で褒めてもいる。大学でつるんだ三人の友人が全て名を馳せた探偵という異常な環境下では、隠し事などしたくてもなかなか出来なかったものだ。
まぁ、よっぽどの難事件でない限り、新一と白馬が現場に入れば大体のことはどうにかなるし、自分はあのとき直行できる状況ではなかった。下手してギリギリに現場に急行して行き違いになるよりはと、己に言い聞かせてぐっと耐えたものの──新一を助ける役目を他人に託したことのない快斗にとって、待つのは自分が動くよりも遥かにもどかしいものだった。
新一からは、いま行く、という最後の連絡以降、連絡がない。しかし正確には霞が関のどこから「いま行く」なのか解らないから、到着時間が読めなかった。向かってはいるにせよ、この渋滞だ。時間通りは難しいだろう。
腕時計の秒針が綺麗に時を刻んでぴたりと真上を指し、6時を告げた。
ふ、と小さく吐息して、手に持っていた携帯をタップする。
「……あぁ、お忙しいところすみません、6時から予約していた黒羽ですが──」
20分ほどひとまず遅れます、と店に連絡をいれて様子を見ようとした、その時だった。
横合いから、ガッ、と乱暴に手が伸びてきて、快斗の携帯を奪った。
「すっ、すみませんっ! 5分だけ遅らせて下さい。もっ、もうビルの下にいますので!……はい、すぐ向かいます!」
勝手に話をつけ、そのまま通話を切ってしまった恋人をみつめ、快斗は小さく噴きだした。
「……間に合ったのか、新一」
「あっ、たりめー、だろっ……! オレ様を……誰だと、思ってんだ……」
などと偉そうに言う割には、新一は人の携帯を握りしめたまま、珍しく膝頭に手を突っぱねるようにして前屈みになり、はぁはぁと激しく息をついている。全速力で走ってきたらしい。きっと渋滞で動かなくなった白馬の車から飛び出してきたのだろう。
「ま、ちょっと、ヤバかったんだけどさ……誰かさんが、気を利かせて、助っ人寄越したおかげで……間に合った……」
荒い息の合間に声を零す新一の背を軽く撫でてやりながら、何のことかなと黒羽は笑みを浮かべ、とぼけた。
「工藤様ともあろうお方が、激しく息切れてんぞ? トシか?」
茶化す快斗の言葉に、
「うっせ」
はぁ、と大きく仕上げのように息を零し、新一がようやく身体を起こした。
さらりと癖のない髪が、汗で軽く額に貼り付いている。ハンカチで快斗がその汗を拭ってやれば、少し眩しそうな表情で目を伏せ、素直に快斗の手に身を委ねながら新一がぼそりと呟いた。
「……だって、オメーと食事なんて、久しぶりじゃねーか。楽しみ、だったんだ」
「……っ」
不意打ちだ。
照れたように唇を尖らせる新一の目元が、じわりと紅く染まって華やかな色気を放つ。控えめにちらりとこちらを見上げるのは反則だ。もう29だというのに、未だにどこか無垢な輝きを宿す蒼の瞳。おれも逢いたかった、とそこには素直に書いてある。
言葉ではあまり甘いことを口にしない新一だけれど、二人きりになった時に見せる瞳は、本当に饒舌になったと快斗は思う。
唐突に、目の前にいるのは数ヶ月ぶりの工藤新一なのだと自覚した。今まで無意識に抑え込んでいた飢餓感が急に湧き上がり、うっかり強く抱きしめてしまいたくなる。
胸に込み上げてくる愛しさに、快斗は目を細めた。
(あの推理オタクが、ねぇ……)
自分との約束のために息せききって駆けつけてくれただけで、飛び上がりたいほど嬉しい。
ましてや今日は、特別。どうしても、この店で今日、逢いたかった。
「サンキューな、新一。今日は……今日だけは絶対に間に合って欲しかったんだ」
しみじみと快斗がそう言えば、不意にぱちり、と目が合った。
「──だろうな」
にっ、と悪戯っぽい笑みを唇に刻んで、新一が先にエレベーター前へと歩み出す。
「えっ……?」
それを追って歩き出しながらも、快斗は驚きに瞠目した。身体は冷房でクールダウンしているのに、心が一気に熱を帯びて、ドクドクと心臓が熱い血を吐き出し始めてしまう。
今の笑みは、何なんだ、おい。
だろうな、って。一体どういうことだ。名探偵、お前は何を知ってる?
振り向きもせずに新一がエレベーター前へ直行する。その腕を思わず掴んで、止めた。
「……なぁ、名探偵、今の……」
しかし、呼び止めたは良いが何を言えばいいのか。何か知っているのか、とも聞けずに珍しく黒羽快斗の喉が緊張で締まった、その時だった。
黙って、肩越しにそっとこちらを振り向いた新一の頬が──見る間に鮮やかな紅に染まってゆくのが見えた。
「……大人しく、オメーの用意した舞台に上がってやるっつってんだ」
快斗にしか聞こえぬほどの小声で新一が囁いたその時。
世界が、驚くほど鮮やかに、色を変えた。
目の前で、どこか恥ずかしげな色を湛えた蒼瞳が、快斗を映してやわらかく瞬く。1Fフロアの照明が落とす煌びやかな光を受けて、愛するひとはそっと口元に笑みを浮かべ、囁いた。
「連れてけよ。俺の気がかわらねぇうちにな?」
「……っ、ぁ……」
どくん、どくんと、全身が心臓にでも成り代わったかのように、快斗の胸が甘く、強く弾んだ。
本当に、探偵という生き物は、世界で最もサプライズが通用しない厄介な生き物だ。だが、それが何だというのだろう。察してそれでも来てくれたというのなら、きっと、今ここに息せき切って駆けつけてくれた新一の存在そのものが、答えだ。
できるだけ滑らかな仕草を心がけつつ、快斗は新一の左手を取った。
そのするりと伸びた薬指に意識して唇を寄せる。ほんの軽く口づけて、目を上げた。
己の仕草、そのひとつひとつが、名探偵の目にきちんと美しく映るようにと心がけながら。
「──畏まりました、名探偵殿」
声は、なんとか震えずに出せたはずだが、どうだろう。
すぐには彼の左手を離してやれずに、不器用に握りしめてしまった快斗を、新一は咎めもしなかた。
いつもなら、人前でこんなことをしようものなら恥ずかしさ故に飛び出す罵倒も、一切ない。目を伏せてどこか満足そうにほほえむ新一は快斗の為にだけ咲く、一輪の花のようでもあった。
柄にもなく緊張していたが、ようやく快斗も肩の力が良い具合に抜けてきた。
左手に持つ鞄の奥、出番を待っている白い箱。
花のように美しくほほえむ今宵の名探偵に、きらりと光る約束のリングを飾るタイミングは、いつにしようか。
実に幸せなシミュレーションを脳内で繰り広げつつ、快斗は新一と共に、エレベーターへと足を進めた。