かつて世界を舞台に、命懸けの危険な闘いに身を投じていた自分も、その白い衣装を脱げば、ただの一般人にすぎない。その現実を思い知らされたのは、初めてステージに立ったときだった。観客に完璧で心踊る最高のショーを魅せつけた。いつまでも鳴りやまない拍手。やってやったぜ、親父!と胸を張ってステージから下りた快斗の元に駆け寄る人々、眩しいくらいのフラッシュ。だけど、彼等からかけられた言葉は快斗の求める称賛とは違っていた。
『さすがは黒羽盗一氏のご子息』
『その才能は父親譲りの優れたものだ』
『君は大変素晴らしいお父様をお持ちになったね』
『君の活躍に、天国のお父上もさぞかし喜ばしいことだろう』
「東洋の魔術師」と謳われた黒羽盗一の一人息子。観客席に座る客人からすれば、自分は二世にしか過ぎない。黒羽盗一というフィルターを通してでしか自分は見られない。その後も、どんなに素晴らしいマジックを披露しても「黒羽快斗」という一人の人間として見てもらえなかった。憧れの親父にはいつまで経っても敵わないと思っていたけれど、必ず越えなくてはならない壁なのだと改めて突きつけられたと同時に、酷く焦燥感を覚えた。
***
「KUROBA KAITO」としてのデビューが、正式に決まったのは、快斗が19歳のときだった。黒羽盗一が20歳のときに最年少グランプリを果たしたFIMSで、快斗はその歴史を塗り替えた。最年少チャンピオンとしてトロフィーを持って表彰台に立ち、祝福された。そこで初めて、世間に「黒羽快斗」として認識されたような気がした。少しだけ親父に近づけたと思っていいんじゃないか、と自分自身を誉めた。
といっても快斗はまだまだだ。海外の番組では取り上げられることが増えたけれど、日本ではあまり取り扱われることはなかった。マジシャンという職業が一般的なものではなく、目指す人が極僅かしかいない、一般的ななりたい職業ではなかったからなのかもしれない。小学校の卒業アルバムで将来の夢を「マジシャン」と書いたのは快斗だけだったし、周りにはなんだそれと笑われた。。FIMSで優勝したことで日本でも黒羽快斗の名が浸透し始めた。今まで快斗が大会で優勝しても、日本の新聞では、小さな見出しにしかなっていなかったものの、このニュースは朝刊に掲載された。
でも、親父は一面を飾っていた。日本人初の功績だったこともあり、当時は相当話題になった。でも2回目となると反応は薄く、大して話題にならなかったのだ。怪盗キッドだって、翌日の全ての新聞に大々的に取り上げられていた。快斗の取材に日本から遥々やってきた記者も快斗のことではなく、父親の話を中心に質問してきた。嬉しくて誇らしいことのはずなのに、どうしてか悲しい気持ちになった。快斗のことを七光りなんて言う人もいたからだ。父親のことをどう思っているかと聞かれて、咄嗟に「いつかは越えなくちゃいけない人」と答えた。記者の求める声と違ったのか、そうですかとだけ答えて帰って行った。底無し沼に嵌まっていくように、快斗は上を上を目指していた。寝食を忘れて、無我夢中でマジックに打ち込む日々。早く、早く親父を越えなければ、と焦っていた。
『ぼっちゃま。少し休暇を取られてみてはいかがでしょうか?』
そんなある日、ふと寺井がそんなことを言い出した。この寺井の言葉が、快斗の今後の人生を大きく左右することになるとは、このときの自分は思いもしなかった。快斗は読んでいたマジック雑誌を置いて、寺井を見る。今日は特に何も予定が無かったので、久しぶりに家でゆっくりとしていた。
『休暇?今、休んでるけど…』
『マジックから1度離れてみる、という意味でございます』
『え、それはちょっと…手だって動かさないと鈍っちまうし…』
『デビューなされば、ご自身の時間というものを取るのはなかなか難しくなります。盗一様は10代の頃から世界中を飛び回っておられました。千影様とご結婚なさってからも、家を空けることが多く…家族との時間も、ご自身の時間も少なかったのです』
幼少期の快斗が覚えているのは、家を出る父の背中ばかりだった。世界中を飛び回っていたから、家にはほとんどいなかった。休みの日はその分たくさん遊んでくれたし、一緒に居てくれた。そういえば、自分からマジックを披露することは少なかったかもしれない。快斗にねだられて、しょうがないなと笑いながら見せてくれた。もしかしたら、マジシャンの自分と父親の自分を切り替えていたのかもしれない。
ふと、ここ数年の自分の生活を振り返ってみると、ステージに立っているか、マジックをしているか…そのどちらかだった。快斗の友人の多くは大学に進学し、勉強やサークル、バイトなどに明け暮れ、友人と旅行に行ったり遊んだりと最後の学生生活を満喫している。大学に進学しなかったことを、後悔したことはないけれど、なんだか少し寂しく感じた。
『デビューするまでの間、どうか心身共にゆっくりとお休みになってください』
『寺井ちゃんがそこまで言うなら…』
『ありがとうございます、ぼっちゃま』
『寺井ちゃんも、ゆっくり休んでね』
寺井の真剣な眼差しに快斗の方が折れた。そもそも寺井がここまで言うのは初めてだった。きっと何か思うことがあったのだろう。その日から、快斗の休暇が始まった。
***
マジックをしない生活、というものは案外難しくて、気付いたら手を動かしてしまっていた。小さな子供たちを見かければ、声をかけてマジックを披露してしまうし、ステージに誘われたらどこへだって飛んでいく。快斗は休暇前と何ら変わらない生活を送っていた。マジックとは自分にとって、切っても切り離せないものなんだと改めて認識させられた。でも、せっかく寺井が快斗のために作ってくれた休暇だ。無駄にはしたくない。快斗は必死に考えた。
『あー……くっそ……わっかんねぇ……』
それでも結局結論は出なくて。とりあえず気分転換にどっか行ってみるか、とトランプも小道具も何も持たずに、財布片手に母の居るパリに飛んだ。母の暮らすマンションの前につくと扉が勢いよく開いた。ちょうど外出する所だったらしく「あら、快斗!これから買い物に行くから、ちょっと付き合って頂戴」と腕を引っ張られ、車に押し込まれ、街へと駆り出された。相変わらず自由な母である。
散々買い物に付き合わされたあげく、手には持ちきれないほどの大量のショッピングバッグを持たされ、快斗は自分がここに何をしにきたのか一瞬忘れてしまうところだった。でも、これも良い休みなのかもしれない。ここ最近は外で買い物なんてしてなかったから。なんだかとても新鮮で。今はネットで何でも買えてしまうし、必要なものは全部寺井が揃えてくれていたから。
自分の分だけでなく仲の良い友人へのプレゼントや、要らないよと言ったのに快斗の服まで買ってくれた。ある程度稼いでいるので、母にネックレスをこっそりサプライズで買ったらとても喜んでくれた。車に荷物を1度置いて戻ってくると、千影は「一旦休憩にしましょう」と笑い、近くのカフェで遅めの昼食を摂ることになった。一旦、ということはまだまだショッピングはこれからということである。
『快斗は最近どう?楽しくやってる?』
『えっ、あー……まぁ……普通かな……』
『連絡はこまめにしてくれたけど、こうして会うのは卒業式以来じゃないかしら?』
『……そう、だな』
『貴方の事は寺井さんがちゃんと連絡してくれるけど…快斗の口からも聞きたいわ』
怒濤のショッピングでゆっくり話が出来ていなかったので、互いに近況報告をした後、何故突然訪ねてきたのか訳を話した。母も寺井と同じ意見のようで、しばらくはゆっくり休みなさいと言った。焦っちゃ駄目よ、と言われ、やっぱり母さんだなと思った。快斗が焦っていることにすぐに気がついて、気分転換になるかもしれないと街に行こうと言ってくれたのだ。正直に何をしたらいいのか分からないと言えば、うーんと唸った後、ばっと顔をあげた。
『南国の島にバカンスに行くなんて、どうかしら?きっと楽しいわよ』
『1人で行ってもつまんねぇーだろ…』
『あら、今お付き合いしてるお嬢さんはいないのね…向こうで声をかけてみるのもいいと思うけど…あっ、日本の友達を誘ってみるのはどうかしら?』
『高校の奴等とは連絡取ってねぇよ。それに…今頃テスト勉強で忙しいだろうしな』
日本ではちょうどテストシーズン…試験の真っ只中なので、皆勉強でそれどころではないだろう。頑張れよ!と空港で快斗を送り出してくれたクラスメイトや友人からの連絡は今日まで1度もない。特に用もないし、快斗から連絡することもなかった。青子と白馬からは便りが来ていたが、忙しさを理由にまだ返事をしていなかった。
『暇なのね』
『…そうだな』
『じゃあ…母さんのお手伝い…してくれる…?』
ずっ、と飲んでいたオレンジジュースが空になり、氷がごろっと音を立てた。目の前に肘をつく、母の表情が真剣なものになり、纏う雰囲気も変わる。快斗も何度か感じたことのある…怪盗淑女のものだ。嫌な予感がして、はぁー…と深い溜息をつく。
「お手伝いって何だよ…お宝返却はもう御免だぜ」
「うふふっ…キッドは引退したんですものね」
高校2年の冬、快斗は怪盗キッドの長年の目的であるパンドラを手にし、それを粉々に破壊した。親父を殺した連中も全員逮捕され、今では冷たい牢屋の中だ。白い衣装を脱いだのは、それから少し後のことだったけれど、何もかもをパネルの奥に封印して、部屋の扉も開かないようにきつく閉じた。卒業して渡米してから、江古田の実家には1度も帰っていない。
パンドラが見つかってからしばらくの間、犯行を続けていたのは、パンドラの存在を隠すためと、今まで二代に渡って怪盗キッドが関わった盗みの後始末をするため、そして母の盗んだ品の返却をするためだった。母の盗んだものにはいわくつきの品が多く、それはそれは返すのに骨が折れた。
『実はね、フランス人の友人が旦那さんと日本でパティスリーをオープンするの』
『へぇー…』
『それでね、快斗にそのお店の店員さんをやって欲しいのよ』
『……なんでか理由をお聞きしても?』
『日本にも何度か来てるし、日本語も話せるけど、実際現地でお店を開くとなると、まだ不安みたいで…サポートしてくれる人がいたら心強いって言ってて…知り合いを数人当たってたんだけど…なかなか見つからなくてね…フランス語出来るでしょ?』
『まぁ、出来るけど…』
むしろ今の快斗に話せない言語はないのでらないだろうか。元々数か国語を話すことができたけど、マジシャンとしての下積み時代色んな国の人と出会う機会があり、交流したので、どんどん知識が増えていった。客が全員外国人なんてことはざらで、色んな言葉を使いながらショーをすることも多かった。自然と話せるようになった。
『お願い!快斗!2ヶ月でいいから!』
『……まぁ……2ヶ月なら』
久しぶりに日本に帰ってもいいかな、と思った。快斗の脳裏には、懐かしい江古田の街並み…ではなく、小さな子供の後ろ姿が浮かんでいた。もうその子供はこの世界に存在していないけれど、その変わり『本当の彼』が戻ってきている。風の噂では相変わらず事件を解決するために奮闘してるとかなんとか。快斗は彼の姿を見ることなく日本を発ったから、写真やテレビ越しでしか見たことなかった。
(あいつ……元気してるかな……)
自分から会いに行かなければ、会えないだろう。江戸川コナンと怪盗キッドに接点があっても、黒羽快斗と工藤新一には全く接点がないのだから。第一、日本は他国に比べたら領土は狭いかもしれないが、それでも多くの人々が暮らし生活している。場所もまだ聞いていない状況で、彼と道端で擦れ違う可能性は限りなく0に近い。でも、彼との奇妙な運命がまだ途切れていないならば、どこかで会えるかもしれないとほんの少しだけ期待した。
***
搭乗口から出ると「黒羽快斗くん」と書かれた紙を持っていた女性が、ぶんぶんと手を振って待っていてくれた。快斗が手を上げると、女性は走って傍にきて、にこっと笑うと熱いハグで出迎えてくれた。
『貴方がカイトね!写真で見たときも素敵だったけど、実物はもっと素敵ね!ゲートから出てきたとき、オーラが違ったから、すぐに分かったわ。私はカミーユ・シャルル。短い間だけど、よろしくね!』
『はじめまして。黒羽快斗です。短い間ですが、よろしくお願いします』
母が話していたように流暢な日本語だった。写真を見せてもらっていたので、すぐに彼女だと分かったが、想像していたより小柄な女性だったので驚いた。学生時代、交換留学で日本にやって来たときに母と出会い、すっかり意気投合したらしく、交友は現在まで続いている。会って確信したが、確かに母と気が合いそうだと思った。
『で、こっちが夫のニコラよ』
『よろしく、カイト。会えて嬉しいよ』
カミーユのすぐ隣にいた男性にぎゅっとハグされ、頬にキスされた。海外では挨拶だけれど、日本では珍しいので視線を感じる。元気いっぱいのカミーユとは異なり、ニコラは穏やかそうな男性だった。カミーユとは学生時代からの付き合いで、実は私が二人の恋のキューピッドを務めたのよとかなんとか千影が自慢げに話していた…と思う。ちゃんと聞いてなかった。
『これからお店に案内するわね!』
『はい、お願いします』
お店は東都の街中にある。地図を見せてもらったとき、店を出すには悪くない場所だなと思った。駅も近いし、近くには企業のビルや住宅街もある。ただし、大通りから一本道を外れたところにあるから、地図を見たとしても若干分かりづらいところにある。何故大通りではないのかと聞くと、静かな場所でお店を開きたかったのとシャルル夫婦は口を合わせて言った。オープンは1週間後だが、すでにチラシを配ったりして宣伝しているらしい。後ろにスーツケースを仕舞い、ニコラの運転する車の後部座席に乗った。
『カイトと暮らせるの楽しみにしてたのに、近くにマンション借りちゃうなんて』
『お2人の時間を邪魔できませんから』
『あら…そんな…別に気にしなくて良かったのに…』
カミーユが頬を赤く染めながら、困ったように笑う。可愛い人だと思った。快斗は日本に滞在する間、店の近くにあるマンションに部屋を借りた。シャルル夫婦が家においでと言ってくれていたのだが、一人になる時間が欲しくて断った。夫婦には子供がいないらしく、友人の子は息子同然だと言われて、なんだか照れくさかった。
お店を見せてもらい、説明を受け、夫婦とチラシを配ったり、店員としての指導を受けながら過ごしていたら、あっという間にオープンの日になった。お店は大盛況で、初日は休憩してる暇も無かった。開店前から多くの客が外に並び、カフェスペースも満席で、ケーキはすぐに完売した。チラシを配っていた効果もあり、若い女性たちの間で話題になっていた。
シャルル夫婦の作るケーキはどれも絶品で、快斗もすぐに2人のファンになった。繊細で丁寧なケーキを作るニコラと、大胆でインパクトのあるケーキを作るカミーユ。2人の作るケーキは日本人に大ウケした。行列の絶えない店と話題になり、取材もきたので中々落ち着かなかった。
オープンしてからひと月が経つと、店は少し落ち着きを見せ始めた。客足が遠退いた訳ではなく、快斗たちが環境に慣れてきて、お店を回すのがスムーズになったからである。今でも毎日沢山のお客様がケーキを買いに、お店にやってくる。シャルル夫婦はお店の経営や周囲の環境にすっかりと慣れ、快斗のサポートがなくても大丈夫だった。最初はどたばたしてそれどころではなかったけれど、休憩も交互に取れるようになったし、お客様一人一人との会話も増え、リピーターも出来た。
ケーキは、11時にお店がオープンしてから、閉店1時間前の16時前に完売することが多い。ケーキが完売すると、SNSでお知らせするので、それ以降の来店は少なく、ふらっとサラリーマンかOLが入ってきて、一杯珈琲を飲んで帰るか、テイクアウトするかくらいだ。焼き菓子もあるが、ケーキと一緒に買ったり、誰かへの手土産で買う人が多く、この時間帯になると売り切れていることが多かった。カイト~!と呼ばれて、厨房のカミーユの元に向かう。
『明日店頭に並べるクッキー、焼けたからラッピングお願いできるかしら?』
『あ、はい!やっておきますね』
『お願いね。あと、これから仕入れ先に行ってくるから、少しの間お店よろしくね』
『分かりました。そういえば、ニコルさん遅いですね…』
幼稚園からケーキの注文が大量に入り、ニコルはその配達に出ていた。昼過ぎに出ていったが、まだ帰ってきていない。何かあったのだろうかと接客中もずっと気になっていた。すると、カミーユは頬に手を当て困ったように首を傾げた。
『そうなの…なんだか道路が渋滞してるみたいで…お店一人でも大丈夫……?』
『ええ、大丈夫ですよ。時間に遅れると大変ですから、行ってください』
『ありがとう。すぐ戻ってくるわね』
よしよしと快斗の頭を優しく撫でてから、カミーユは「行ってきます!」と出かけていった。やっぱり子供扱いされてるな、と思いながらお店の奥に入ると、テーブルの上には可愛いクッキーが並べられていた。ウサギやネコ、くまさんといった動物の形だけでなくお花、星、ハートなどもあった。子供たちや若い女性に人気だ。
端に置いてあったバスケットに形が崩れてしまったものや焼いている途中にヒビが入ってしまったクッキーが入れられている。こうしたものは店頭に出せないので、快斗がおやつとして貰っていた。カミーユの字で「可愛い快斗へ」と書いてある。ぱくっとひと口食べると疲れが一瞬で吹っ飛ぶ。
16時以降の来店はないに等しいので、快斗は入り口を気にしつつ、ラッピング作業を始めた。クッキーを袋に入れて、色とりどりのリボンで包む。単純な作業だけど、これが誰かの笑顔に繋がることを考えたら、楽しくてしょうがなかった。手を動かすのは好きなので黙々と作業を進めた。
星のクッキーを袋に詰めていると、カランカラン、と客の来訪を告げる鈴が鳴った。SNSで完売したことをツイートしているが、SNSを見ていないお客様もいるので、そういった方にも分かりやすいよう外に立て看板を出している。看板を見て帰る客も多い。入ってくるのは珍しいなと思った。
豆や茶葉にもこだわっているが、ケーキを目当てにくる客がほとんどだ。注文が一番多いのはケーキと飲み物をメニューから選んで決めるケーキセット。振り返って入り口を見ると、そこには快斗もよく知る人物が立っていた。驚いて叫びそうになるのをなんとか堪えて、笑顔で挨拶をする。
『いらっしゃいませ』
『こんにちは。えっと…飲み物だけ頂くことって可能ですか?』
『もちろんです。お好きな席にどうぞ』
ほんの僅かに声が震えた。その人物は店内をひと通り見てから、窓際の席に腰を下ろした。鞄から本を取り出して、テーブルの上に置く。俯いたときにさらりと落ちた黒髪を、手で耳元にかけて、今度は視線をメニューへ移す。何気ない一連の動作だったが、快斗の脈拍は上がる一方だ。
ぱちりと目が合い「すみません」と声をかけられる。彼の美しい青に、自分の姿が映る。いつ振りだろうか。いつだって彼は真っ直ぐに快斗を見ていたから。キラキラと輝くブルーサファイアに見つめられるのは嫌いじゃなかった。「あの…」と彼が困ったような顔をしてこちらを見ている。すみません!と慌てて注文をとりにいった。
『フラットホワイトをひとつください』
『か、かしこまりました』
声まで裏返ってしまって、もう恥ずかしくて死にそうだった。ペンを持つ手が震えてしまって字が書けない。いくらなんでも動揺しすぎだろう、とカウンターに戻ってきてから、その場に踞った。深呼吸をするが、胸のドキドキは止まらない。お客様を待たせてはいけないのですぐに準備する。
てっきりアイスコーヒーかな、なんて思っていたが、珍しい。あ、まって、やばい。カップを傾けたときの手と、ミルクを持つ手が震える。快斗の可愛いラテアートも人気で、それを目当てに女の子たちがやってくる。注文が重なることも多いので、絵柄のリクエストは受けつけていない。そのときの気分とかで変えたりしていた。
元々、ラテアートはニコラが教えてくれたものだ。ニコラはラテアートの世界大会で優勝するほどの腕前の持ち主で、オープン前の1週間彼にマンツーマンでみっちり仕込まれた。器用な快斗はすぐに修得し、どんな絵柄だって作れるようになった…のに、緊張で手が震えてしまう。それでもなんとか完成させて、彼の元へ運ぶ。
『お待たせ致しました。フラットホワイトになります』
『…………』
じっ、と目の前に置かれたフラットホワイトを無言で見つめる名探偵に心臓がばくばくと音を立てる。えっ、何かおかしなところあった?リーフじゃない方が良かったかな?でも、ネコとかくまさんとかウサギさんは可愛すぎかなー…って思って無難なやつに…えっ、それとももしかして俺の正体ばれた?と全身から汗が吹き出す。
『凄いですね…貴方がこれを?』
『へ!?、はっ、はい。全部私がやりました!』
『とても器用ですね。なんだか幸せな気持ちになりました』
飲んでしまうのが勿体ないです、と名探偵が快斗を見て優しく笑いながら言った。その瞬間、とすっ、と胸に矢が刺さった音がした。頭には天使がラッパを吹きながらくるくると回っている。そう、まさにこの瞬間、快斗は恋に落ちてしまったのだ。
(す、好き……!)
と心の中で叫ぶ。そんなまさかそんなことがあっていいのか。まさか敵である名探偵に恋してしまうなんて。快斗は頭を抱えた。もう恋なんてするつもりも興味もなかったのに。認めてしまえば、胸のドキドキも手の震えもちょっとは落ち着いてくる。
快斗が下がると、名探偵はフラットホワイトを見て何やら思いついたのか、ポケットからスマホを取り出して、ぱしゃりと1枚写真を撮った。よし、と満足げな顔をした後、手を合わせてから、カップを持ち、リーフを崩さないよう慎重にひとくち飲む。ぱぁっと名探偵の瞳が輝いた。
(いや、可愛すぎか)
よほど気に入ったのか、こくこくと続けて飲んでいる。リーフが崩れたのをみて、ちょっとしゅんっとした顔をするのが可愛くて堪らない。飲み続ければ崩れてしまうのは仕方がない。クッキーを詰めておいてね、とカミーユに言われたのに、名探偵から一瞬たりとも目が離せなかった。
その後、名探偵は30分ほど滞在した。フラットホワイトを飲みながら、本を読んだり、スマホを見ていたり、いつも忙しそうな名探偵が少しでもゆっくりと過ごせたらいいなという思いで見守っていた。ゆっくりと立ち上がったかと思えば、彼は伝票を持って快斗の元にやってきた。会計をしたとき、ほんの僅かに触れた指先が熱くて。
『ありがとうございました』
もう少しだけ傍に居たくて、普段は忙しくてなかなか一人一人出来ないお客様のお見送りをする。扉を開ければ、入ってきたときと同じ鈴の音がからんからんと鳴った。外に出た名探偵が振り返る。
『ご馳走さまでした』
『よかったら、また来てくださいね』
お待ちしております、と笑顔で言うと、相手はくすりと微笑んだ。ほんの僅かな時間一緒に居ただけなのに、今まで見たことのない彼の表情を見ることが出来た。怪盗キッドだったら向けられない笑みも、こうして見せてくれる。何のしがらみもなく、普通に接してくれる。それが嬉しかった。
『婦警さんが…ここで働く男性店員さんが素敵で、毎日通いたいって話していた意味が分かったような気がします』
びしっ、と快斗の笑みが一瞬で凍る。快斗が外までお客様をお見送りをしたのは新一が初めてだ。店員としてお客様へのサービスに差別があっては絶対ならないし、下心ありまくりだったけど、快斗の想いは相手には1ミリも伝わっていなかった。
(貴方が特別なんです、なんて言える訳ねぇーよ…一応初対面だし…絶対引かれる…)
名探偵にとって快斗は、なんとなく入ったお店の店員にしかすぎないのだ。このお店に入る過程として警視庁の婦警たちが話していた内容を聞いていたのだとしても、だからといって行こうと思うとは限らない。たまたま歩いていたら目に入って、あー、そういえば…程度だろう。予想がつく。次があるとは限らない。もしかしたらこれが最後になってしまうかもしれない。
『あ、あの…!』
『また来ます』
それでは、とお辞儀をして彼が人混みの中に消えていく。たとえその場しのぎの社交辞令だったとしても、快斗は嬉しかった。しばらくの間、店前でぼーっと突っ立っていたが、ハッとして時計を見れば、16時55分だった。17時までにはクッキーを詰める作業を終わらせなければ慌てて店に戻ると、仕入先から戻ってきたカミーユが口元に手を当てながら、ニマニマと嬉しそうにこちらを見ていた。その隣には、配達から帰ってきたニコラもいる。
2人して微笑ましい顔で快斗のことを見ていた。果たしていつから見られていたのだろうか。2人の顔からして、おそらくかなり最初の方からだろう。名探偵に夢中で、気付くのが遅れた。右腕をがっちりとカミーユに掴まれ、左にはニコラが立った。
『amour?』
『ち、違います!』
『Non ma cherie、これは所謂ラブだね』
『だから違いますってば!』
真っ赤になった快斗が全力で否定するも、バレバレで。それからずっと2人にからかわれ続けた。また来てくれるといいわね、なんてカミーユが快斗の頭を撫でると、ニコラもよしよしと頭を撫でた。同性同士の恋愛に偏見がないからこそ、2人は快斗の恋を本気で応援してくれたのだ。
***
それから1週間が経った。シャルル夫婦にはバレてしまっているが、快斗は16時が近付くと、どうしてもそわそわしてしまう。ちらちらと時計を見てしまう。もしかしたら先週のようにきてくれるかもしれないと期待を隠せなかった。
ショーウィンドウに並ぶケーキは、残りイチゴタルト1ピースのみ。甘いものを彼が好まないことは知っているけれど、ぜひシャルル夫婦の作るケーキも食べてほしかった。ちなみに今日は、彼の大好物であるレモンパイも焼いていたが、午前中で完売してしまった。
からんからん、と音が鳴り、バッと顔を上げると、そこにいたのは名探偵…ではなく可愛らしいお客様だった。目線を合わせるように快斗がしゃがむと、幼い少女は快斗の前に両手を差し出した。その小さな手のひらには、100円玉が5つと10円玉が1つ。
『いちごのケーキ、ひとつくだしゃい』
「はい、よろこんで」と快斗はショーウィンドウからイチゴタルトをとり、箱に詰めてレシートとおつりと一緒に少女に渡した。ありがとう!と元気よくお礼を言った後、外で待っていた母親の元に走り、買えたよと自信満々に話していた。本日分のケーキは完売しましたと看板に書いていたら、後ろから声をかけられる。
『ケーキ売り切れちゃいましたか』
『っ…いらっしゃいませ!』
もう嬉しさを隠しきれない。ばっと振り返ると、シャツにロングカーディガンを羽織った綺麗めな格好をした名探偵が立っていた。大学の帰りなのか、肩にかけたトートバッグからは教科書とポーチが見えた。
『美味しかったので、また来ちゃいました。入ってもいいですか?』
『勿論です!どうぞ!』
席についた名探偵は、前回と同じフラットホワイトを注文した。カウンターに戻ると、カミーユが「良かったわね」と肩をぽんっと叩いた。絵柄はどうしようかなと悩んでいると奥からやってきたニコラが、サービスでと焼きたてのクッキーをくれた。クッキーと共に出来上がったフラットホワイトを名探偵のテーブルへと運ぶ。
『フラットホワイトになります。あと、こちらは当店からのサービスです』
『えっ…あ、ありがとうございます』
驚いていたが、次の瞬間には笑顔になる。名探偵は写真を撮ってから、また前回のように飲み始めた。パソコンを開いて作業をしながら、彼のカップが空になるまでカフェでの時間を過ごした。彼が立ち上がりレジまでくるときの時間がなんだか寂しくて。でも会計のときに話ができたら、指が触れたら、嬉しくて。忙しかった。
「ご馳走でした」と去っていく彼の後ろ姿を見ながら、あと何回会えるんだろうなと思った。快斗が約束していた2ヶ月は後3週間ちょっとで終わる。週に1度彼が来てくれたとしても後3回会えるかどうか。もしかしたら、もう次はないかもしれない。常連客に…毎日来てくれたらいいのに。
『……名探偵』
伸ばした手は彼には届かない。快斗は店の中に戻り、名探偵が座っていた席の食器を片付けてから、テーブルを拭いた。洗ったカップを見つめる。白くて綺麗な指が触れた持ち手…名探偵の唇が触れた…とそこまで考えてぶんぶんと頭を振った。我ながら気持ち悪すぎる。ラテアートでしか愛を伝えられないほど臆病だったとは。彼は特に気にすることなく、飲んでいたけれど。
『いつか伝わるといいな』
『ニコラさん……』
『でも、後悔だけはしないように。次があるとは…限らないのだから……』
そう言うとニコラはどこか寂しそうに笑ってから、厨房に戻っていった。快斗の嫌な予感はつくづく当たるようで、それから名探偵とは2回も擦れ違ってしまった。両方とも快斗が休みの日で。ケーキを買いに来たという連絡があって、慌てて駆けつけるも、既に彼の姿はなかった。
***
そして現在、今週いっぱいで快斗は約束通りこのお店を辞めることになっていた。辞めた後、すぐにラスベガスに戻る訳ではなく、ほんの数日は日本に滞在し、残りの休暇を過ごす予定だ。特にすることは決まってないが、来月からは本格的に初公演のために動いていく。きっとまた忙しい日々を過ごすことになるだろう。
ちらっと時計を見れば、16時25分。もう、あと少しで閉店だ。あぁ、今日も駄目かと思ったとき、からんからんと鈴が鳴り、店内へ慌てた様子で人が入ってきた。
「こ、こんにちは」
「っ…こんにちは、いらっしゃいませ」
「まだ…注文…大丈夫、ですか……?」
「勿論です。いつものにしますか?それともアイスに…」
「いつものでお願いします」
かしこまりました、と快斗はカウンターに戻る。泡立てたミルクを注いで、ハートの形にする。名探偵のところに持っていくと、少しお話しませんか、と言われた。さすがにもう他のお客様は来ないと思うが、まだ仕事中だ。ちらっと、厨房を見ると、シャルル夫妻がぱちんっとウインクをしてからお店の奥に消えていった。2人に甘えて、名探偵の前に座る。
「お店、辞められるんですね」
「えっ、えぇ…何故そのことを…?」
「前にケーキを買いに来たとき、店主の方からお聞きしました」
「そうだったんですね…」
「…少し…寂しいですが…小さい頃からの夢を叶えるためとお聞きしたので…その…遠くから応援してます」
にこっと笑いながら名探偵は言った。もう、抑えきれない。駄目だ。だって、そんなこと言われると思ってなかったから。想いが今にも爆発してしまいそうだった。
(あぁ、やっぱり…)
「好き…」
「えっ?」
「………………ッ!」
ばっと慌てて口元を押さえて名探偵から離れた。快斗が急に立ち上がったので、がたんっと椅子が大きな音を立てる。今、思っていたことを言葉にして溢してしまったかもしれない。秘めた想いを吐露してしまったかもしれない。いや、絶対に声に出していた。確実に聞かれていた。だって、名探偵が驚いた顔でこちらを見ているから。
「っ……えっ、と……あ、の…その…今のは」
どうしよう、と混乱してしまう。何を言ったらいいのか分からなかった。訂正するのが一番事態を落ち着かせるには簡単な方法だが、好きなものは好きなので訂正なんてしたくない。快斗自身が自分の想いを否定するなんてそんなこと出来ない。立ち上がった名探偵がゆっくりとこちらに近付く。
「あ、あの……好きって…っ…俺の勘違いだったらすみません…その…恋愛的な意味…ですか…?」
「れ、恋愛的な意味で…です…っあー…くっそ…もっと格好良く言いたかった…」
「っ……」
かぁあっと名探偵の顔が赤くなる。耳まで真っ赤だった。そういえば、先程から名探偵は突然告白してきた快斗のことを嫌がる素振りは見せていない。それどころか好きだと言ってきた相手に近付き、普通に話しかけてきている。それにこの反応だ。もしかして…と期待してしまうのも無理はない。
「……あー…もう!」
身なりを整えてから名探偵の前に片膝をついて腰を下ろす。少しかさついた手を取り、その手の甲にちゅっと口付けた。へっ!?っと驚く声が頭上から聞こえる。後悔をしたくないから、この手を離したくないから、快斗は覚悟を決めた。まっすぐに彼の瞳を見つめる。
「貴方の事をお慕いしております、名探偵。どうか私と結婚を大前提にお付き合いしてくださいませんか?」
真っ赤だった顔が、ぴしっと固まる。口調だけではなく、纏う雰囲気もキッドのものだから、彼が間違う筈がない。
「…………………………キッ、キッドなのか?」
「はい。お久しぶりですね、名探偵」
「………待ってくれ…ちょっと混乱してる」
「元こそ泥は嫌?」
「ばーろ…嫌なんてひと言も言ってねぇだろ…でも…ちょっと…思考が追いつかなくて…頼む……少しだけ待ってくれ……」
やっぱり気付いてなかった。まさかあの怪盗キッドがパティスリーでアルバイトをしているとは普通思わないだろう。それに快斗は一切気配を出していない。マジックだって店内では1度もやったことがない。正直何度も正体をバラしたくなったけど、徹底し、一切ぼろを出していなかった。
「好きだよ、新一。一生大切にする。俺と生きるのすっげぇー楽しいと思うぜ?新一の大好きな謎の塊だし、料理だって上手いぜ!俺が保証する!」
「すっげぇ…自信だな…」
「うん!」
「確かにお前といたら飽きなさそうだ。……いいぜ、受けてたつ」
「ふはっ…なにそれ…可愛すぎ」
新一は快斗の手をとった。ぎゅっ…と握れば照れながらも握り返してくれる。それが嬉しくて幸せで堪らなかった。パチパチと奥から拍手が聞こえてきて、そちらを見れば、シャルル夫妻が大きなケーキを持って立っていた。いつの間にと驚いたが、おめでとう!と祝福され、快斗は幸せだった。
それから快斗は、残りの休暇をすべて新一との時間に充てた。2人で遊園地に行ったり、映画館に行ったり、公園に行ったり、デートスポットとして有名な場所は制覇して、それ以外にも色んな場所に行った。家で何にもせずにごろごろした日もあった。昼まで抱き合って寝たり、一緒に料理を作ったり。久しぶりにマジックを披露したら、あっさりと見破られてしまって、悔しくて。凄く楽しかった。
新一と過ごしていたら、あっという間に休暇が終わった。そして、快斗がアメリカに帰る日がやってくる。空港にはシャルル夫妻と新一が見送りに来てくれた。気を使ってくれたのか、シャルル夫妻は先に帰り、快斗の隣には新一だけだ。
「まだまだ有名じゃないけど、新一に相応しい男になって帰ってくるから」
「俺に相応しい男ってなんだよ…まぁ…無理せず考えすぎずに頑張れよ」
お前らしくやればいいんだ、と言われて、ふっと肩の力が抜けた。いつまでたっても父の背に追い付けない自分が嫌だった。黒羽盗一の息子ではなく、黒羽快斗として見てもらいたかった。今目の前にいる新一は快斗を真っ直ぐに見て受け入れてくれる。新一が支えてくれるから快斗は頑張れる。自分らしくやっていこうと思えた。
「行ってきます」
「あぁ、行ってらっしゃい」
そして数ヵ月後、黒羽快斗は念願のデビューを果たした。彼のデビュー後の初公演は大盛況で、今では彼の名を知らない人はいない。日本を拠点に世界中で活躍し、多忙な日々を送っている。華麗なデビューから数年後、彼は突然記者会見を開き、かねてから交際していた恋人との入籍を発表した。相手も有名人で、しかも男性だったので世界中で話題となった。最初は驚いていたけれど、彼の恋人への溺愛っぷりを見せつけられた世間は、今ではすっかり「ラブラブ夫夫」と認識し、応援している。ちなみに、インタビューで父親について聞かれたとき「大好きで死ぬまでずっと尊敬する親父」と笑って答えたとか。
end.