——ピンポーン
タイムリミットの鐘のごとく、インターホンが鳴る。見上げると時計の針は午後1時を示していた。背中に冷たい汗をかきながら、キッチンで立ち尽くす。頭の中は大混乱だ。
どうしようどうしよう。ほんの数時間前はこの時間を楽しみに過ごしていたのに。
どうしてこんなことに!?
♢
チャーチャーラ チャチャチャーラ
チャーチャーラ チャチャチャーラ
チャチャチャチャ チャチャチャチャ
チャチャ チャチャ チャー
「腕を前から大きく上にあげてー 大きく背伸びの運動ぉー。ハイ、ふんふーんふ、ふ、ふ、ふ、ふ、ふんふーんふ、ふ、ふ、ふ、ふ」
スマートフォンから聞こえる声に合わせて体を動かすと、子供の頃から聞き慣れた音楽をつい口ずさんでしまう。窓から吹き込む風がカーテンを揺らして、とても気分がいい。
俺は工藤新一、探偵だ。大学を卒業して1年と半年、現在は自宅で探偵事務所を開いている。幸い上手く軌道にのって……え? そんなことは知ってる? それより何故夏休みの子供でもないのにラジオ体操をしているかを知りたい、と。
ふむ、仕方ないな。これについてはさほど複雑な謎が隠されているわけじゃない。理由は単純明快、健康維持のためだ。知っている人も多いと思うが、ラジオ体操は第一から第二まで通すと結構な運動量になる。仕事と家の往復になりがちな大人こそ、是非試してみて欲しい。
え? じゃあどうしてそんなことをすることになったんだって? なんだよ、やけに踏み込んでくるな。それは、まぁ、色々あってだな。う、それこそ聞きたい? あー……、じゃあ、今回は特別な機会だし、ちょっとだけな?
さっきも言ったけど大学卒業と同時に開いた探偵事務所も軌道にのって、今は心身ともに充実した日々を過ごしている。それでも最初はなんだかんだと大変だったんだ。
申請自体は必要書類を警察に届けるだけなので、そう難しいことじゃない。ただ学生の頃から注目を浴びていた分、プロとしての仕事の精度はかなりシビアに求められていた。今までのように推理をして、はい終わりとはならない。
依頼を解決するのはもちろんのこと、事務処理や金銭の流れも全て一人でやり終えて、初めて仕事として成り立つわけだ。まぁ、当然の話なんだけどな。
そうなるとやっぱり最初が肝心。ここでつまずくと後々にまで響いてしまうと、開設当初は事務所にやってくる依頼人や、警察からの捜査協力を全て断らずに受け続けていた。すると……おおよその予想はついていると思うが、過労によりぶっ倒れるって失態をやらかしちまった。
クッソ、なんでこんな汚点を話さなきゃなんねぇんだ。罰ゲームなのかこれは。
倒れたのが家の中だったのは不幸中の幸いで、引き受けた仕事はもちろんやり通したし、その後は二度と同じことはしないと気持ちを引き締めた。
……その時はな。
調整をしないといけないとわかってても、目の前に依頼があるとつい没頭してしまう。信じがたいことに、そこで初めてスケジュール管理が苦手なことに気づいた。
いつもタイムスケジュールは真っ黒で、足りない時間はどうしたって睡眠や食事を削ることで捻出することになる。
そんな俺に雷を落としたのは、付き合ってもうすぐ半年になる恋人だった。
『いい加減にしろ! 体調管理も出来ないのに何がプロだ!! 途中でぶっ倒れるような仕事しか出来ないならやめちまえ!!』
顔を真っ赤にして、聞いたことのないような声で怒鳴られた。喧嘩もするし、今までだって何度も声を荒げることはあったけど、あんなに本気で怒る顔は初めてだった。
呆然としていると物凄い勢いで扉を閉めて出て行ってしまう。
一人残された部屋の中で、ようやく最近まともに寝ていないと気づいたあたり言い訳も出来ない。フラフラと洗面所へ向かい、鏡を見るとなるほど酷い顔色をしていた。改めてやっちまったと気持ちが重くなる。あの頃、大事な時期だったのは自分だけじゃない。あいつだって本格的に新しい一歩を踏み出したばかりだった。
プロマジシャンとしての道を歩み始めた黒羽快斗と特別な関係になったのは、大学を卒業して一年ほど経った春のことだ。
はらはらと桜の花びらが舞う入学式でその姿を見つけた時、すぐに怪盗キッドだとわかった。夜の気配を欠片も出さず、年相応の笑みを浮かべている。その日の夜は興奮して眠れなかった。
理由はひとつ、俺があの男に恋をしていたからだ。
同じ大学にいたのに会話をしたのはたったの三回。そのうちの一回は会釈をされただけなので正確には数に入らない。友人に声をかけると、輪の中にいた快斗は入れ違うように「先に行く」と軽く頭を下げて去っていった。残りの二回も必要に駆られて受け答えをしただけで無駄な言葉は一切交わしていない。
ああ、避けられているんだなと、小さくなっていく背中を見つめるばかりだった。
広いキャンパス内では学部が違えば会うことは少なく、姿を見られるのは数ヶ月に一回というところ。いつだって男女の隔たりなく大勢の友人に囲まれていて、屈託のない笑みを返していた。
マジックを披露している時は、歓声が上がる度に歯噛みしたもんだ。
そばで見たい。俺だって見たい。そう思いながらも近づく機会はないまま、四年なんてあっという間だった。
卒業を迎えても悲しいかな恋心は消えることなく、「ああ、俺はもう一生こうやって一人で生きてくんだな」と空を見上げながら思ったんだ。
だってそうだろ? 相手は大怪盗だった男だ。しかも近い将来、間違いなく世界に羽ばたく男でもある。それほどの男に出会ったんだ。一生ものの恋になったとしても不思議なことは何もない。
そういうわけで齢22にして〝生涯片想い〟を決意し、俺は気持ちを新たに探偵業を始めた。
——だけど人生は何が起こるかわからない。
偶然か必然か、事件がらみで再会した俺達は気づいたら隣で手を繋いでいた。
……や、そりゃ実際は色々……もにょもにょとあったんだが、それはまた機会があればってことで。
え? 肝心なところを端折るなって? んなこと言ってもよー、だって本当に色々あったんだよ。
俺は四年の間に散々こじらせた想いをようやく落ち着かせたところだったし、再会した快斗の隣にはそれは綺麗な女性がいたしで。『あれ、幼馴染の彼女じゃないのか』って疑問に思いはしたけど、俺だって昔のままではいられなかったんだから有り得ないことじゃない。
踏み込んじゃ駄目だ。これ以上近づいて、せっかく抑えた恋心を違う形に変えちゃいけない。そう思って大人の対応をしていたのに、何が癪に障ったのか快斗の方から容赦無く距離を縮めてきた。
逃げて、追われて、逃げて、追われて、そして掴まる。
『もう無理だ。逃してやれない。好きなんだ、工藤』
今、思い出しても意味がわからない。無理ってなんだ。逃してやるってなんなんだ。それはこっちの台詞だと、何故か大喧嘩に発展して俺達の恋は始まった。
あああ! もういいだろ!? これ以上の詳細は黙秘だ!
相手の女性はビジネスパートナーで完全な勘違い。とにかく収まるところにおさまったんだけど、当然のごとく互いのスケジュールが合うわけがない。二週間近く会えない時もあるし、何日も声さえ聞けない時だってあった。付き合って半年といっても、実質はその半分と変わらないような時間だ。
本当ならまだまだ楽しい盛り。甘えて甘やかして二人の初めてを過ごす日々なのに、俺は会うたびに酷い顔を恋人に晒していたことになる。
快斗が爆発したのも無理に時間を作って、家に来てくれた日のことだった。ドアの向こうに消えた背中を追いかけると、不機嫌な恋人に問答無用でベッドに押し込まれる。横になった途端、高熱を出した自分の体が今でも恨めしい。
『仕事だからもう行かなきゃ、でもこんな新一を置いて行きたくない』
朦朧とする意識の中、今にも泣きそうな顔が見下ろしてくる。つらそうな瞳に罪悪感が膨らんで布団の中から手を出すと、すぐさま大きな掌に包まれた。
『終わったらすぐ帰ってくるから』
頷きかけて、ふと目に入った指先を凝視する。左手の親指の爪が変形していた。変形というか、軽く削げてしまっている。
『……これ』
『ああ、急いでたらうっかり包丁でやっちまった。皮膚は無事だから大丈夫』
快斗はサイドテーブルに置かれた一人用の土鍋にチラリと視線をやって、情けないと苦笑した。優しく髪を梳きながら額と唇にキスを落とし、いよいよ時間がないと大慌てで部屋を出て行く。ああ、や、うん、しか言わない俺を、快斗は熱のせいだと思いこんでいたようだけど……本当は違う。
あの時俺は恐ろしくショックを受けていたんだ。あと0.1ミリでも深ければ指が傷ついていた。いや、違う。爪が削げただけでも本当は一大事。快斗の手は手入れもしない、現場に出ればすぐに傷を作る俺の手とは違う。
大事な、大事な大事な、大事な大事な大事なマジシャンの手だ。
寝込んでいる間、激しく自己嫌悪を繰り返した。俺には多くの支えてくれる人達がいて、多少なりとも積み上げてきたものがある。
でも快斗は何もかもがゼロからのスタート。舞台にあがるまでの道のりだって並大抵のことじゃないし、ステージに上がってしまえば失敗が許されるような世界でもない。わかっていたのに、支えるべき立場の自分が不安要素を作ってしまった。
(大馬鹿野郎だ)
熱が下がるまでの間、落ち込んで反省して、どうか快斗の仕事が上手くいきますようにと願い、最後には決意した。
——もう二度とアイツの手を傷つけるようなことはしない。
そう! 俺は〝出来る恋人〟を目指すことにしたんだ。心配をかけるばかりじゃなくて、支えられる男でありたい。仕事は出来て当たり前、自己管理だってそうだ。
今はまだ国内での活躍だが、快斗が世界へ飛び出すのはそう遠くない。だからせめて会える時くらいは心休まる場所であれるように。もうあんな顔をして出ていくことがないように。
……少々長くなったが冒頭のラジオ体操の理由がお分かりいただけただろうか。
さて、質問の答えが終わったところで現実に戻ろう。
いつもならスーツを着ている時間に、俺はラフな格好で体操をしていた。そこでもうお気づきかと思うが今日はオフだ。しかもただの休みじゃない、特別な日なんだ。
みっともなく醜態を晒した夜から1ヶ月。なかなか会えない日が続いていた。たまに会うのも隙を見て外で顔を合わせる程度、あとはスマートフォンに届く文字と短い通話だけが気持ちを通わせる時間だった。
しかし物は考えようで、これは生まれ変わった俺を見せる絶好のチャンス!
改めて思い返すと快斗が時間を割いて家に来ても、滞在中の半分は家事をしていた気がする。何の疑問も持たずに甘えていた自分を張り倒したい。
だが心を入れ替えた俺は、あの頃とは違う。どんなに忙しくても飯は食うようになったし、風呂にも入る。掃除も洗濯も出来るだけ溜めない。
一番頑張ったのは自炊だ。元から出来ないことはないが、作れたとしても簡単なもの。腹が膨れればそれでよかった。
やり始めてわかったのは、快斗はいつも俺にちゃんとした食卓を用意してくれてたってこと。
一人だと作ったとしても一皿ものが多くなんねぇ? カレーだけ、チャーハンだけとか、そういうものなら俺でも出来る。
でも主菜に副菜、汁物が並ぶような食卓を作ろうと思うと結構大変で、それを理解した時は正直胸にグッときた。同時にやっぱり今のままじゃいけないと再確認して、不器用ながらに今日までやってきたんだ。
そんな中、快斗が、遠征から、帰ってくるのだ! しかも泊まりだっていうんだから、俺が張り切るのは当然だろう?
快斗が帰ってくるのは午後1時。手際の悪さを考慮すると、そろそろ始めないといけない。
体操によって程よく温まった体でキッチンへ向かった。袖を捲り、エプロンの紐を結びつつ自らを鼓舞する。
「よし……まずは米だ!」
計量カップに摺り切り二杯。ボウルに水を入れて手早くかき混ぜた後、水を捨てる。
「やりすぎると栄養が流れちまうから程々に」
炊飯釜に米を移し、目盛りまでピッタリ水を入れてセットする。
「あとは1時間置いといて。次は、と」
冷蔵庫から、人参、玉葱、じゃがいも、肉を取り出す。
ん? 何を作るのかって? そりゃ恋人に作る料理の定番てやつを、え、肉じゃがは古い? 待てまて、そんなこと言われてもだな。……え、マジ? でも今さら変えられねぇし。いい、いいんだよ。愛情が籠ってれば大丈夫……っ、大丈夫なはず!
「くし切り、くし、切り、う……、染みるじゃねーかコイツ」
内心汗をかきながら、皮を剥いた玉葱と向き合う。形が歪にならないよう、丁寧に包丁を動かすほどに眼球が刺激されて涙があふれた。
鼻をグズグズさせながら切り終えると、慌てて冷凍庫に顔を入れて瞬きを繰り返す。急速に目を冷やすことによって痛みが和らいでいくんだ。有名な裏技だけど、知らない人はやってみてくれ。
「くぅ〜〜っ、第一関門突破だぜ」
扉を閉めると、続いて人参、じゃがいもの下準備を進めていく。全てを切り終えると結構な時間が経過していた。
早めに始めて正解だった。思い返すと快斗はいつも1時間足らずで、数品を作り上げていたのだから本当にすごい。この1ヶ月で出来る限り頑張ってみたけど、足元にも及ばないだろう。それでもオフ中は快斗の手を危険に晒すことなく過ごすと決めている。
料理だけじゃない。疲れて帰ってきた恋人に家事なんてさせず、ゆっくりと休ませてやるんだ。
「よし、次」
決意を新たにサラダ油を熱した鍋で肉を炒め、色が変わったのを確認して野菜を投入する。最初は肉を炒めるたびに加減がわからなくて、やたらと硬くなってしまった。実は今でもよくわからないのだが、肉じゃがのように最終的に煮てしまう料理なら生焼けの心配がないので安心だ。
だし汁が沸騰し始めると、ぶくぶくと泡が浮き出てきた。よーしよーし、来やがったな。小鼻を膨らませる。
「オメーと戦う準備は万端だぜ!」
シャキンと無駄な効果音をつけて網じゃくしを構えると、丁寧にアクを掬い続けた。綺麗なつゆの色が見えてくると妙な達成感を覚えるので、この作業は嫌いじゃない。
覚えた通りに調味料を入れていき、あとは落とし蓋をしてコトコトと煮込むだけ。キッチンにいい香りが充満して、自然と口元が緩んだ。
いいぞ、順調だ。次は何をするんだっけ……あ、そうそう。
記憶をさらいながら乾燥ワカメを袋から適量出して水に浸しておく。料理を始めて一番厄介だったのが、この〝適量〟という言葉。最初は勝手がわからず一掴みして浸したら、ボウルからあふれんばかりのワカメが量産されて「ナンジャコリャー!」と叫んだ。思い出して胸を押さえる。まだあの時の傷は癒えていない。
「なんて感傷に浸ってる場合か」
豆腐を取り出し掌に乗せると、自然と喉がコクリと鳴った。
大丈夫、震えるな。迷いは失敗に繋がる。そう思いながら包丁を動かすのに、何故か切り目は曲がっていくんだから不思議だ。
じわじわと敗北感に苛まれつつも、なんとかサイコロ状に切り終えると、「あ!!」と声を上げてボウルを覗き込んだ。
本来なら2、3分でいいものを、豆腐を切るのに時間がかかりすぎてしまった。すっかり戻りきったワカメが水の中でうねっている。
……仕方ねぇ。捨てるのは勿体ないし、食えないわけじゃない。明らかに戻りすぎたワカメを水から上げて、食べやすい大きさに切る。
次に小鍋にだし汁を温め、ワカメと豆腐を投入し、沸騰しないように気をつけながら味噌を溶いた。何度も味見をしていると、ふと目指している味付けが恋人の作る味噌汁だということに気づく。
「マジか」
まだ付き合って半年なのに、すっかり胃袋を掴まれているようだ。なんだか負けたような気がしてムッとするのに胸の中は不思議と温かい。だってあいつの料理、マジで美味いんだ。仕方ないだろ。
けど、思うようにいかないのは何でだ? もう少し、もう少しと、足していけばいつの間にか濃くなって、慌てて薄めると今度は味気ない。
「ヤバイな、これ以上足したらあふれる」
時間的にもここが潮時と火を止めて、渋々ながら蓋をした。
急がなければ。冷蔵庫の扉を開けて卵を二つ取り出す。両手に持ったまま大きく深呼吸をした。そう、ここからが最大の難関だ。
「大丈夫、何回も練習した。大丈夫、やれる。俺は、やれる」
暗示をかけつつ、目を閉じて作業工程をイメージする。完璧に出来上がるまでやり通すと、もう一度「出来る!」と声を上げて大きく頷いた。
おもむろに卵をボウルに割り入れ、菜箸で白身を切るように縦に混ぜる。泡立てないよう気をつけながら溶きほぐすと次は調味料だ。
レシピ通りに作っても思う味にならないことはもう学習済みだが、玉子焼きはおおよそブレることはない。手が震えるのを必死で耐えて、軽量スプーンに調味料を注ぎ、全てを入れ終えると額に汗が滲んでいた。
玉子焼き器で油を熱していると、同時に心臓がドクドクと音をたて始める。酷く緊張していた。
……落ち着け、慌てたら失敗する。余計なことは考えるな。
フライパンがしっかり熱されたのを確認して、いざ! とボウルを手にする。卵液の3分の1を流し入れ、ジュッと音がすると慌てて隅々まで広げて、端から菜箸を差し入れた。
「……っ、……くっ」
玉子焼き器を傾けながら巻き取ろうとするが、何故か卵が張り付いて離れない。
「この、このっ」
えい、と手首を返すと引っ張ったところが千切れてしまった。あわわと取り残された薄焼きを手前に手繰り寄せる。くしゃっとなって見栄えは悪いが、これは芯だ。まだ立て直せると、一応は四角く整えた卵を手前から奥へと移動させた。
再び薄く油を馴染ませ、卵液を投入する。ひと巻き目の下にも卵が流れるように持ち上げて全体に行き渡らせ、今度こそと広げた菜箸を差し込んだ。
弾みをつけて手首を返すと何故か体ごとピョンと跳ねたけど、そんなこと今は気にしていられない。構うもんか、どうせ誰も見ていないんだ。
「くぅぅっ!!」
思いのほか勢いよく返したことで、無様な平行四辺形になってしまった。慌てて奥に戻そうとすると、引っ張られたことでまた生地が破れてしまう。
「……ッッ」
流石に挫けかけるが、まだ最後のひと巻きが残っている。諦めるなと気持ちを奮い立たせてボウルを構えた。
「大丈夫、最後に整えれば、なんとか、なる……っ」
震える声で言い聞かせ、不格好な長方形を手前から奥へと移動させる。勢いよく残りの卵を流し込み、最後の勝負と菜箸を構えた。
しかし……。
「——!!」
菜箸の先端をフライパンと生地の間に入れた瞬間、俺は敗北を悟った。
ひっくり返そうにも生地はびくともせず、無理に剥がそうとすればボロボロと崩れていく。原因はもうわかっている。
「俺は、俺は……なんて……馬鹿なんだ」
最後の最後に油をひき忘れるなんて……!!
その時、無情にも高らかにインターホンが鳴り響いた。
「え? 何時!?」
火を止めて見上げると、時計の針は午後1時を示している。時間通りだ。
どうしよう、どうしよう。こんなはずじゃなかったのに。
(落ち着け!)
頭を一振りしてエプロンを外す。こうなっては仕方ない。玉子焼きはなしだ。隙を見て始末してしまおう。
そうだ、今までのことを思えば肉じゃがに味噌汁があるだけで上出来じゃないか。頑張った、頑張ったぞ俺。
言い聞かせながら深呼吸をして、玄関に向かった。
♢
「ただいま、新一!」
「うわ、おかえり快斗」
鞄を置くなり飛びつくように抱きしめられて、慌てて背中に両腕を回す。鼻先を首元に押し当てると香水に混じって快斗自身の匂いがした。
ああ、好きだな。目を閉じて、しみじみと思う。胸の奥から一気に温かいものが吹き出してきた。俺は口下手で快斗のように上手く言葉には出来ないし、だからといって行動で示すことも出来ない。
離れている間、快斗を思って動く時間はとても幸せだった。同時にどれだけの手間をかけさせていたのかを知って恥ずかしくもあった。
今からでも挽回出来るだろうか。俺がもらった幸せの分だけ、返すことが出来るだろうか。
「新一、会いたかった。また倒れたりしてないだろうな?」
「そんなしょっちゅう倒れるかよ」
両手で頰を包み、疑わしげに目の奥を見つめられる。親指の腹が頰を撫でて、あ……と思った時には唇が塞がれていた。
「……ン」
触れるだけの優しいキスを終えると、快斗は額を合わせて嬉しそうに目尻を緩める。うん、俺の好きな顔だ。
「元気そうで嬉しい」
「バーロ。恥ずかしいこと言ってないで、いい加減上がれよ。お前こそ疲れてるだろ。……飯にするか?」
さりげなくリビングの入り口へ体を向けながら言うが、詰まってしまいそうになってヒヤリとする。しかし快斗はボストンバッグを肩にかけて二階を指差した。
「先に荷物置いて来ていい? ついでに手洗ってくる」
「おう、わかった」
少し残念なような、でもホッとしたような。複雑な気持ちで背中を見送るが、ぼーっとしている暇はない。今の間に準備をしなければ。
けれどリビングに戻るとすぐに違和感を覚えた。こ、これは……この匂いは、玉子焼きとはまた違う。
「あ!!」
慌ててキッチンへ向かうと鍋がグツグツと音を立てていた。落とし蓋をあげれば、すっかり煮汁がなくなっている。
「……嘘だろ」
恐る恐る菜箸を入れると、ジャリと聞きたくもない音がして一気に血の気が引いていった。
ああ、やってしまった。弱火にしたつもりなのに絞り切れていなかったんだ。
鍋の底が明らかに焦げている。視線を横に流せば、これまた無残な玉子焼きが見えて天を仰いだ。
結局おかずは失敗に終わってしまった。たまらず膝を突きそうになるが、必死に耐える。冷静になれ、工藤新一。まだ諦めるには早い。
味噌汁とご飯だけでも、きっと快斗は喜んでくれる。肉じゃがだって、底以外は食べることができるはずだ。だが悔しい、悔しすぎる。
「くうっ」
でも! でもこれは最初の一歩だと思えばいい。最善ではなくなったけど最悪じゃない。せっかくここまで来たんだ。貧相でもいいから一緒に食卓を囲もう。
そうだそうだと思い直した瞬間、また何かが俺に呼びかけた。
妙だな? おい、妙だぞ?
俺、なんか忘れてないか?
いや、いやいやいやいや、待て待て待て待て。
なぁ、お前、お前は覚えているか……!?
俺が……炊飯器の……スイッチを、押したかどうか。
——オレハ、オボエテイナイ。
震える手で開いた炊飯器の中は、水中で静かに沈黙する生米だった。
(こ、こんな、こんなことがあっていいのか)
炊飯器の淵に両手を置き、今度こそ両膝を突いてしまう。
炊きたてのご飯……、ほかほかご飯。
スイッチ一つで絶対に美味しく出来る……一番頼りにしていたお前。
どうしてそんな……。
まだ生米だなんて……!
その時、リビングに近づいてくる足音が聞こえて、反射的に駆け出していた。勢いよく飛び出すと扉の前にいた快斗が肩を揺らす。
「び、びっくりした。なんだよ新一、そんなに慌ててどうした?」
「お前、遅いからどうしたのかと、思って」
「……ああ、手洗うついでに顔も洗ってたから」
言われて見れば確かに前髪が湿っている。雫が落ちそうで思わず手を出すと、掬い取るより先に手首を掴まれた。
「快斗?」
「なぁ、新一。俺がいない間に誰か来た?」
「え?」
思わぬ質問に自分が焦っていることも忘れて目を丸くする。いきなり何だ?
「いや? 誰も?」
「……ふぅん」
よく見れば、快斗が不機嫌なことがわかる。僅かに細められた目も、口角が下がった唇も、ついさっきまで纏っていた甘い空気もすっかりなくなっていた。
頭の中で疑問符を並べていると、手首を掴んでいない方の手がドアノブへ伸びていく。キッチンの惨状を思い出して反射的に体で阻止すると、今度こそ快斗の顔はわかりやすく歪んだ。
「何? なんか不味いことでもあるの?」
「そうじゃねーけど……。あのさっ、飯、外に食いに行かねぇ?」
どうしてこんな空気になったのか見当もつかないが、機嫌が悪いなら尚更中に入れることは出来ない。このまま外に食べに行こう。それが一番いいと、掴む手に手を重ねた。
「な、いいだろ。美味いもん食べて、帰ってからゆっくりしようぜ」
「…………」
しかしいくら引っ張っても快斗の足は一歩も動かない。
これはまずい、非常にまずいぞ。明らかに不審がっている。どうやって回避するか真剣に考えていると、不意に手首が解放された。ハッと顔を上げれば一気に視界が動く。
「……っ快斗!?」
抵抗する隙もないまま、尻の下に両腕が回り、抱え上げられた。
なんだ、どういう展開だ!?
出かけてくれると一瞬見えた希望は完全なる幻だった。慌てて肩に手を置き、体をのけ反らせてもビクともしない。
「下ろせよ! 快斗!!」
くそう! 見た目は変わらない体格なのに、こういう時に違いを実感させられる。肩を叩いて足をばたつかせても、抵抗虚しく視界は開けていく。俺にとってはホラー映画さながらに、リビングへの扉が開いた。
室内に入ると一番に漂うのは肉じゃがの香りだ。砂糖と醤油が合わさった食欲をそそる匂いに、邪魔をするような芳ばしさが混じっている。これが本当の甘く切ない香りってやつかと、思わずつまらないことを考える。
引き寄せられるように快斗はキッチンへ向かった。ああ、こうなってしまえば抵抗しても仕方ない。ただひたすら、こみ上げる羞恥と戦うだけだ。
フライパンにこびりついてボロボロになった玉子焼き。隣には芳ばしさの正体である肉じゃが、そしてやけにワカメの多い味噌汁。
……ああ神様、定番に言い直すならオーマイゴッド。なんていう時間だ。やっぱり今の自分にはまだ無謀だったんだ。無茶をせずデリバリーでも頼めばよかった。
「新一、これ」
「……っ」
「作ってくれたのか?」
怖くて顔を見ることが出来ない。黙っていると体が下ろされ、大きな掌が頬を包んだ。
「なぁ、新一?」
快斗は遠慮もなく固定した顔を覗き込んでくる。ああ腹が立つ。こいつはいつもそうだ。追うと逃げる癖に、俺が逃げると容赦無く追い詰めてくる。
ええい、もう腹を括るしかない。
「そ、うだけどっ、オメーみたいには上手くいかなくて」
「もしかして、いつも以上に掃除もした?」
「……」
沈黙は肯定だ。せめて視線だけはと最大限に逸らしていると、大きな溜息とともに肩に重みを感じた。
「よかったぁー! ……ああもう、すっげぇびっくりした」
「へ?」
快斗はグリグリと額を押し付けながら、強く抱きしめてくる。
「1ヶ月も来てないのに家の中は妙に綺麗になってるし、そこはかとなくイイ匂いまでするし」
「いい匂い?」
「ここに入るとちょっと焦げ臭いけど、離れたとこからだと美味そうな匂いしかしなかったよ。何より新一の顔色がいい!」
「なんだよそれ」
広い背中を叩くと、顔を上げた快斗は唇をツンと尖らせていた。予想外の表情に驚く。この顔はどちらかというと拗ねてる? なんで?
「新一は自覚ないと思うけど、今までは会うたびすごい疲れた顔しててさ。唇もカサついて、目元なんかいっつもクマつくってた」
う……、何一つ言い返すことが出来ない。確かに熱を出した日の顔はあまりに酷かった。
親指の腹が目尻を撫で下ろし、下唇へと移動していく。ふにふにと柔らかく押されると、まるで猫にでもなった気分だ。もし本当に猫の体をしていたら真面目な顔をしてても、ゴロゴロと鳴る喉で気持ちがバレてしまうだろう。ああ、人間でよかった。
なんて切羽詰まってるのに、変なことを考える人間の思考ってどうなってるんだろうな。快斗は変わらず神妙な顔をしている。
「あんまり様子が変わってるもんだから、誰か通ってんのかと思って……。俺はもう生きた心地がしなかった」
いまいち理解出来ずにいると、いよいよ眉根を寄せた快斗に鼻をぎゅっと摘まれる。
「はにふんだよ!」
「新一に限って浮気はないと思ったけど、逆に離れてる間に本気の相手が出来たんじゃないかって思っちまったってこと!」
なんだって!? 聞き捨てならないと手を振り払い「ふざけんな」と吠えた。
「んなわけねぇだろ! 俺はオメーに心配かけないって決めて、せめて家のことはちゃんとしようと」
「新一ぃ」
「それでもう、ぜってーこの手に傷なんか作らせねぇってそう思ったから!」
頭のいい恋人は途端に眉毛を八の字に変えて顔を覆った。
「あー……もう勘弁してくれよ。可愛すぎて死ぬ」
「意味わかんねーし……」
「とにかく! 外に食べに行くなんて選択肢はありません。せっかく作ってくれたんだから一緒に食べよう」
「ぐ……。そうしたいのは、やまやまなんだけど……な」
ここまでくると、もう隠す必要もない。不思議そうに首を傾げている快斗の手を取って炊飯器へと導いた。
するとあろうことか恋人は中を見るなり、ぶっはと盛大に吹き出す。反射的に足が出そうになるが、失敗したのは自分だ。ここは我慢と拳を握った。
「なっ、なるほど、だから外に行こうって……っふは」
「流石にこれじゃあな。オイ、いい加減にしないと怒るぞ」
「ごめんごめん……っ。あぁ、もう新一大好き!」
再び勢いよく抱きしめた後、快斗は目を輝かせて言った。
「じゃあさ、こうしよう!」
♢
「……すげぇ」
立ち昇る湯気の元には真っ白いご飯。時計を見れば、午後1時40分だ。
こんなに短時間で出来るなんて思わなかった。隣にいる魔法使いの顔を見上げると嬉しそうに笑っている。
「炊飯器や土鍋より味は落ちるけど、早いのはレンジなんだよな。なので新一、ここからはもうひと手間。一緒に作ろう」
「一緒に?」
「うん」
耐熱ボウルに入った白米を持ってシンクへ向かうと、快斗は小さな器に水を入れ、塩と海苔を用意した。
「あ」
「わかった? これ、おにぎりにしようぜ。梅干しってまだあったっけ?」
冷蔵庫を覗き込んだ快斗は、今までとは明らかに違う中身をすごいすごいと褒めてくれた。嬉しさで胸の奥がくすぐったい。
「んー、あとは」
「塩昆布あるぞ」
「いいね! 小分けパックの鰹節もあったよな。よーし!」
互いに袖を捲って、それぞれに具材の準備をする。全ての用意が終わると、並び立って手を濡らした。
「……そう言えば俺、おにぎりって作ったことねぇわ」
いざというところで戸惑う俺に、快斗は器用に見本を見せてくれる。傷ひとつない綺麗な手で作られるおにぎりはとても美味そうだ。
「くそー、全然三角になんねぇ……」
言われた通りにしてるつもりなのに、何故か同じようにはならない。歪な形をしているうえに、梅干しが少しはみ出していた。
「新一、そんな強く握ったら米潰れるって」
何が面白いのか、快斗はずっと笑っている。形を整えようと格闘した結果、べちゃついた完成品を海苔で隠して、敗北感とともに皿の上に置く。
まさかおにぎりがこんなに難しいとは思わなかった。料理って本当に奥が深いんだな。
混ぜ込んでしまう鰹節の方が難しくないよと言われ、手を洗って二個目へと挑む。ふんわり、ふんわり……頭の中で呪文のように唱えていると、柔らかく名前を呼ばれた。
顔を上げれば快斗は視線を下ろしたまま、弾みをつけてリズミカルに握っている。同じようにしようとするが、やはりなかなか上手くはいかなかった。
「色々考えてくれて有難うな。……でもさ、俺は新一のために何かするの全然嫌じゃないんだ」
「え?」
「心配だから小言は言っちゃうけど。料理したり、掃除したり、そういうのはむしろやりたくてやってる」
「なんで」
理解出来なくて横顔を見つめて問いかけると、快斗は絵に描いたようなおにぎりを海苔で包みながら笑みを深めていた。
「来た時と帰る時じゃ、表情が全然違うんだよ。顔色もちょっと良くなってたりしてさ。そういう変化を俺がさせてるって思うと、すげぇ嬉しくて。ほら新一、手止まってるぜ」
「あっ」
少し冷めてしまった白米の塊を慌てて握り直すけど、どうしても綺麗な三角にはならない。いっそ丸く握ってやろうか。でもそうすると何か負けたような気がする。
不格好に斜めになった山をどうにか調整して皿の上に置くが、快斗の作ったものとは雲泥の差だ。第一に話しながら握るなんて器用なこと俺に出来るわけがない。小さく息を吐いて手を止めた。
「そういうけど……もう俺のせいでオメーの手が傷つくのは嫌なんだ」
「やっぱり気にしてたんだな。あれは俺が失敗しただけで、新一が気に病むことじゃねぇよ」
「んなわけねぇだろ! お前の手は一般人とは違うんだ。あんなことで傷ついていいはずがない」
「そう思ってくれるのは嬉しいけどさ。日常生活もまともに過ごせないような、ひ弱で繊細なマジシャンになるつもりはないんだ。なぁ、俺の幸せを取り上げないでくれ。頼むよ新一」
「ぐ……お前その言い方はずるいぞ」
「ふは、わかってくれたようで嬉しい」
「なんでそうなる!」
「よーし、出来た!」
「え?」
気づけば白米の入っていたボウルの中は空になっていた。俺が二個作っている間に、快斗は残りの全てを握り終えてしまったようだ。
早く食べようと促されて手を洗い、冷めてしまった肉じゃがと味噌汁を温めなおしてテーブルに並べる。
失敗した玉子焼きまで皿に移された時は抵抗したが、快斗は「だぁめ」と取り合ってくれなかった。
ようやく出来あがった食卓は、お世辞にも綺麗とは言い難い。
「リベンジさせろよ」
悔しさを滲ませて言えば、快斗は目尻を細めて嬉しそうに笑った。
「俺にとっては十分最高なんだけどな」
「次は煮込みハンバーグ作ってやる」
「いいな。じゃあ俺はオムライス作ってあげる」
「グラタンも作れそうな気がしてる」
「あ! 餃子作ろうぜ、一緒にさ」
「一緒に?」
快斗は頷きながらテーブルに湯飲みを置いて、椅子に腰を下ろした。
「うん、名案だと思わないか? 忙しくてなかなかタイミングは合わないだろうけど、これからはたくさん一緒に料理して、たくさん一緒に食べよう」
ああ、それはなんて幸福な未来なんだろう。鼻の奥がツンとする。
歪な形のおにぎりとワカメいっぱいの味噌汁。芳ばしい香りのする肉じゃがに、ボロボロになった玉子焼き。
結果的には散々な出来だったけど、恋人を思ってキッチンに立つ時間は決して悪いものじゃなかった。
(ああそうか、きっと快斗も同じ気持ちだったんだ)
向かいあって腰を下ろすと、当然のように手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
互いに目を閉じてから言ったはずなのに、ピタリと声が揃ってまた笑いあった。
さて、俺の話はここまでだ。もう満足しただろう?
そろそろ二人にさせてくれ。
時計の針は午後2時へと向かっている。
随分と遅い昼食になってしまったが、結果オーライ。
——さぁ、ご飯にしよう。