寄り添う蒼のように:ゆめむ

 六月の太陽は中天を過ぎているはずだが、その所在ははっきりとはしなかった。厚めの雲が空をグレイに塗りつぶしている。おかげで直射日光がもたらす熱気はほどほどに抑えられていたが、蒸し暑さはそこそこあった。
 先刻、昼食を食べていた間に降った雨がもたらした力強い森の香が、鼻腔を擽る。
 工藤新一はつと目を眇め、歩きながら深く息を吸い込んだ。
 新一の肩にかけた革製のボディバッグは薄く、財布と小物でもう限界という代物だった。
 この中に、傘など、もとより入らない。

 解っていて、この鞄を選んだのだ。

 横を歩く男はやはりボディバッグを肩掛けしているが、黒い防水仕様のそれは新一のものよりは多少容量が大きく、先ほど自販機で黒羽が買ったペットボトル麦茶が丸ごと入ったようだ。しかし、その中に傘は入っているのだろうか。
 外からでは、さすがに分からなかった。
 ふと、彼の歩みがゆっくりになり、止まった。
「ここだな」
 歩道の右横にある山を見上げて、彼が告げた。
 ここから先は横道に逸れ、山を登ることになる。山といっても完全に遊歩道が整備された観光用で、ここは紫陽花の聖地とも呼ばれている名所のはずだった。
 しかし車止めがある程度で、山に続く小径はひっそりとしたものだ。そこそこ強い雨が降ると解っているからか、今日は観光客の気配があまりないようだ。
「いくぜ、工藤」
 男が告げ、こちらを見る。
 いまは穏やかな蒼紫の瞳。だがその虹彩の奥に、熔けた鉄のような熱をひっそりと隠し持つ男だった。今も、胸が空くほどに鮮やかで、それ自体が淡く発しているかのように印象的な蒼紫の瞳を受け止めるだけで、心臓が少し、跳ねる。
 覗き込んだ者の心を、掴んで離さぬその色合いはまるで、
(──蒼紫の、紫陽花)
 皮肉なものだと新一は思った。瞳の奥に紫陽花の化身のような蒼紫を咲かせておきながら、この男は移り気などという花言葉からはおそらく、最も遠い場所で生きている。怪盗を引退してもなお、この男の本質は変わっていなかった。
 誰にでも優しいようでいて、触れられぬ領域を閉ざす扉は、固い。
「……ああ」
 肩を並べ山道の遊歩道へ一歩踏みだしつつ、新一はそっと溜息を押し殺した。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。何の気なしに紫陽花のことを口に出しただけだったのに。朝8時台に東都駅に呼び出された時には、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
 現在時刻──2 :05 p.m.
 梅雨特有の湿気を吸い込んだ胸の奥が、大気に満ちるじっとりとした熱気に圧され、どこか胸苦しく疼く、いまこの時。

 工藤新一は黒羽快斗に誘われ、なんと静岡県の東端部、伊豆半島の南端近くにいるのだった。

*   *   *

 それは昨日のことだった。何の因果か、東西を代表する探偵とロンドン帰りの探偵、そして元怪盗という異色の経歴を持つマジシャンの4名が共に通うことになってしまった東都大学キャンパス内。
 昼食をキャンパス内のカフェテリアで済ませ、それぞれまた講義を受けるべく別れようかという時には、小雨が降り始めていた。
「全く、傘が乾く間もありませんね」
 曇天から落ちてくる雨を見上げ、白馬探がうんざりしたように呟く。午前中も雨は降ったり止んだりを繰り返していたのだ。傘を忘れた服部平次はというと、きゅっと自らのキャップを目深に被り、キャンパス内で咲き誇る青や紫、赤といった色とりどりの紫陽花をみて口角をあげた。
「でも紫陽花は喜んどるやろなぁ」
 雨に濡れた紫陽花たちは、確かに瑞々しく艶めいて咲き誇っている。
(ああ、綺麗だな)
 純粋な青よりも、少し紫がかった紫陽花の方が、じわりと蛍光色めいて鮮やかな色合いに感じる。そんな紫陽花を見ながら、新一もまた目を細めた。
 本当にこの季節の主役とも言える花たちは、目を惹く美しさだった。
 これの花言葉は、流石に知っている。

 ──『移り気』。

 踏みつけた歩道のタイルが、足の裏できゅっと軋んだ。
「あーあ、梅雨が明けたらどっか行きてぇな、ぱーっと」
 傍らで一拍早く黒の折りたたみ傘を開いた黒羽が、新一の頭上にさりげなく傘を差し掛けながら言う。もうかれこれ2週間近く雨が降り止まないのだ。
 怪盗を辞め、月の下から陽光の下へ躍り出たこの男は、今や誰よりも太陽が似合う男だった。本人も夏の日差しが恋しいに違いない。
 自分も傘を開きつつ、そうだな、と何の気なしに頷いていたら、黒羽にひょいと顔を覗き込まれた。
「工藤はさー、どこ行きたい?」
「俺?」
 顔の距離が近い。傘を開くタイミングを失って手を中途半端に止めたまま、新一は困った顔で答えた。
 何で、俺なんだ。
「別に……」
 枯れた老人みたいだと自覚しつつもそう返せば、
「夢がない! ちょっとは事件現場以外に行きたいところ思い浮かべようぜ工藤……」
 と嘆かれた。どうしろと。
(……だって、オメーは)
 どうせ。
 梅雨の湿った空気は心の中にまで湿気をもたらすのだろうか。少しだけ気持ちは内向きだ。
 どうせ、オメーが誘いたいのは。
 口から転び出そうになる言葉を、ぐっと呑み込む。
 きっと黒羽の問いは、梅雨が明けたらという意味だったのだろう。けれどキャンパスの道ばたに咲く見事な紫陽花を見ていたら、ふと、気まぐれな一言が口をついて出た。
「……紫陽花でも見に行きてぇな」
 何処かに、溢れるほどの蒼紫が咲き誇る場所はないだろうか。
 ただただそれをぼんやり一人で見てみたかった。移り気の花言葉を持つこの花を、ただぼんやりと。
「へえ。風流ですね、工藤くんにしては」
 白馬が服部に傘を差し掛けながら褒めてくるが一言多い。その傍らで、服部はといえば不思議そうに、
「紫陽花ぃ? そこに咲いとるやん工藤。つか今見てるやんな?」
 言わずもがなのことをいい、白馬に溜息をつかれていた。そういうことではないでしょう、と。
 ふん、と新一も小さく自分を笑った。全くだ。フォローしてくれた白馬に申し訳ないから言わないが、確かに紫陽花ならそこに咲いている。
 ただただ蒼紫が見たかった。海のようにたっぷりと咲く蒼紫の中に、溺れてみたかった。
 そうすれば、この救いがたい懊悩に、引導を渡せるような……そんな気がして。
(あー……らしくねーこと言ったわ)
 感傷的な想いを嗤うように、傘を人のいない方向へ思い切りよくばさりと開く。それまで傘を差し掛けて待っていてくれた黒羽へ、さんきゅ、と小さく礼を言いつつ彼の傘の下から退けば、おう、と黒羽が頷いた。
 その時──ふと、何か言いたげに黒羽が唇を開き、そして、迷うように閉じた。
(あ……)
 おそらく、黒羽は言葉を呑んだ。けれどそれの正体を問う前にもう黒羽は歩きだしていて、問いかけるタイミングを失った。
 何を、言いかけたのだろう。
 己の傘が雨を遮る。けれど、不思議と先刻より肌寒く感じた。
 さぁぁぁ……
 細やかなノイズのように大気を白く煙らせ降り注ぐ雨はやがて勢いを増し、講義棟の向こうが霞んで見えぬほどの雨になった。

*   *   *

 その夜、風呂上がりに携帯をチェックすれば、連絡が一件入っていた。送信元の四文字に、心がじわりと温度を上げた。
 黒羽快斗。
 濡れ髪をおざなりにバスタオルで拭いていた手を止めて、デスク上にあった携帯を手に取り、片手でロックを解いた。
『紫陽花、見にいかねぇ? 明日』
 一言、そう記されていた。
 昼間、自分が何の気なしに呟いた一言を真剣に検討してくれたのか。相変わらずマメな奴だと面倒見の良さに苦笑しつつも、黒羽からの誘いならそれが何であろうと拒む気がない自分を知っていた。
(……にしても)
 ふと首を傾げた。紫陽花を見に誘うつもりなら、別に昼間、あの瞬間に誘ってくれて良かったのだが。
 昼間、キャンパスでの別れ際。何かを言おうとしてすっと閉ざされた快斗の唇が、脳裏を過ぎった。
(……あの時、言おうとしてた……?)
 だとしたら、何故言葉を呑んだのだろう。それを何気なく問いかけようとして、だが新一は指を震わせ、止めた。

 ──あの場には、白馬も、服部もいた。

『ふたりで?』
 結局代わりに打ち込んだのは、その一言だった。
『うん』
 即座に返ってきた一言に、とくん、と心臓が跳ねた。
『ダメか?』
 返事をする間もなく、黒羽がまたメッセージを寄越す。どこか前のめりにこちらの言葉を待っているその一言に、思わず小さく微笑んだ。
 ダメじゃ、ない。むしろ、ふたりがいい。
 その一言は呑んだまま、『いいぜ』と何気ないフリで返事をすれば、あとは早かった。
『俺が場所選んでいい?』
 随分勢いのある返事だった。
『いいけど、あんま人混み多くねぇとこがいいんだけど』
『OK。見繕っておく』
 新一の我が儘にも動じることなく、黒羽が応じる。
 返事を待つ間に、ざっと明日の天気を確認すれば、明日もやはり雨だった。降ったり止んだりという予報だが、午後は少しだけ風も強くなるらしい。
『雨、降りそうだけどいいのか? 俺は構わねーけど』
 そこまで返事した瞬間、着信がきた。黒羽だ。
「結局電話で話すのかよ」
 受話ボタンを押すなり笑った新一に、回線越し、くすっと黒羽も笑った。
「もう面倒じゃん」
「で? 明日雨だが」
「ずっと降ってるわけじゃねぇだろうし、いいんでないの。雨の方が紫陽花は綺麗だぜ?」
「まーな」
「傘持っていきゃ大丈夫だろ」
 やけに押しが強い。そんなに黒羽も紫陽花が見たいのだろうか。そもそも、それなら何故、自分を誘うのだろう。黒羽が一声かければ、大学の女という女が喜んでついて行くだろうに。
 胸の奥で黒い何かが、痞えたままだ。それはもう大学に入って黒羽と再会してからずっと、少しずつ雨だれで濡れてゆく路面に広がる染みのように、大きくなりつつあった。

(なぁ黒羽、なんで、俺を誘う……?)

 こうして黒羽に誘われるたびに、息が詰まるほど甘い芳香で肺を満たされているような心地になる。
 それは幸福に限りなく近いのに、肺に満ちては、新一の酸素をことごとく奪うのだ。
 
*   *   *

 東都駅に9時前に着いて黒羽と落ち合うなり、
「切符、もう俺が買ったから」
 やおら黒羽が言った。あっという間に自分のクレジットカードで、指定券券売機から予約していたらしい切符を発券してしまったのである。どうも特急券が必要な列車のようだと悟り、さすがに驚いた。
「おま……え……何処連れてく気だ」
「もうちょっとだけ内緒な」
 長くしなやかな人差し指を己の口元に当て、黒羽がまるで今からマジックでも仕掛けるかのように楽しげな笑みを見せる。ふわりと揺れた前髪の奥、まるで怪盗だった頃にも似た悪戯好きな瞳が燦めく。
 何をしても自然と男の色香が溢れる黒羽の仕草だ。少し離れた場所から黒羽に熱い視線を注いでいた女子大生らしき二人組が、わぁ、と声にならぬ声をあげて、キラキラと目を輝かせている。
(これだからイケメンって奴は……)
 ぐ、と頬に熱が込み上げた。この男は自分が注目されていることを承知の上で、こうしてどきりとするような所作を見せるのだから質が悪い。相手が男の新一であろうとお構いなしだ。
 今日の黒羽はラフな装いだった。袖の短い白Tシャツに限りなくブラックに近いネイビーのワイドカーゴパンツを合わせている。首元にざっくりとブラウンの大きなストールを巻いていて、シンプルだがどこかのモデルのように垢抜けていた。足下の悪さを考慮してか、靴はハイカットタイプの黒いブーツで、それもまた黒羽の長身を引き立たせている。
 こちらは黒のスリムパンツに、グレーの半袖Tシャツ、上に七分袖の白いリネンシャツを羽織っている。足下は一応濡れることも考慮して、撥水加工をしたグレーのスエードレザーシューズを合わせた。
 雨が降るというから、上着が必要かもしれないと思い着てきたが、少しだけ後悔していた。
 なにせ、蒸し暑い。
「内緒って。どーせ電車乗るとき解るだろ……」
「いーだろ。工藤の大好きな謎ってやつだ。推理してみろよ。さ、飲み物となんか食えるもの買ってこうぜ。昼飯は向こうで食べるとしても長旅だからな~」
「は? いやいや長旅って、おい!?」
 どこまで連れていく気なのだろうか。駅構内の店でおやつとペットボトルを甲斐甲斐しく買い込む黒羽の行動に、ふむ、と顎に手を添え新一は考え込んだ。
「昼までには辿り着くとみた。弁当は買わねえわけだしな」
「そうそう」
「今からオメーが向かうのは7~10番ホーム」
「御名答」
「待てよ……ええと、そこから出る特急電車だと『サンライズ瀬戸・出雲』はさすがに目的地が遠すぎる。停車駅の多い『ときわ』の可能性もあるが……あともうひとつは──」
 頭の引き出しを高速で開いていき、埋もれていた知識の断片を懸命に掘り起こしてゆく。
 すると答えはおそらく、あと一つぐらいしか思いつかなかった。
 まさか。口をぽかんと開けて答え合わせをするかのように黒羽を見上げれば、応えるように黒羽がニヤリと歯を見せ笑んだ。
 目の前で、彼が翻した右手の影から、扇でも広げたように特急券が格好よく顔を出す。

 そこに印字された列車名に、新一はもはや苦笑し天を仰ぐしかなかった。
 9時35分。小雨降る中、滑るように曇天の東京を旅立ったのは、踊り子95号。
 海の見えるAB席。男二人で行く快適な特急列車の旅は3時間弱ほど続き、昼過ぎには踊り子は終着・伊豆急下田駅に定刻通り到着したのである。
 伊豆半島の南端とまではいかないが、ペリー率いる黒船が来航したと言われる開国の地・下田にまで新一は拉致され──もとい、連れてこられてしまったのだった。

*   *   *

 ばかにならない電車代を問答無用で黒羽が払ってしまった為、昼食は新一が奢り返した。といっても、魚が絶対に無理だと主張する黒羽の、死ぬほど激しい食わず嫌い──本人曰く、『単なる食の嗜好の違い』である──のため、和食料亭や寿司屋ではなく、大して単価の高くないカフェでの食事となった。最も高いランチステーキセットを奢ったところで、電車代にはまだまだほど遠かった。
「紫陽花見れるとこって、下田かよ……」
 食後の珈琲を飲みつつぼやけば、
「まーな。工藤、人混み嫌いだろ」
 アイスを食後のシメに味わいつつ、上機嫌で黒羽が言う。それはそうだが、まさか伊豆くんだりに予告もなく特急列車で連れ出されるとは思わなかった。
「殺人事件起きても困るんで、混雑が予想される鎌倉は避けました。褒めてくださいね~?」
「それは俺のせいじゃねぇ!」
 噛みついた新一に、くく、と愉しげに黒羽が笑う。人の悪いその笑みを、むっと頬を膨らませ睨んでやったがどこ吹く風だ。
 昼食の間に雨が降り、幸いにもまた止んだ。
 晩飯も何か奢り返してやろうと密かに心に決めつつ、異国情緒溢れるガス灯や、黒地に白の格子が目にも鮮やかな『なまこ壁』の建造物が並び立つペリーロードを、のんびりと歩いた。
 やがて辿り着いた山への遊歩道に、人気はなかった。目立った看板も無い地味な入り口だったが、黒羽はもはや携帯で地図すら確認せず進んでゆくから、おそらくこれで正解なのだろう。何せ下調べには抜かりがない男だから。
 思えば、この男は元・大怪盗なのだった。こうと決めたら実行力の塊だ。宝物庫にすら侵入できてしまう男が、ただの観光名所に迷うはずもないのだった。
 幸い、天気はいまのところ持ちこたえていた。
 小径を登るにつれ、少しずつ山深さが増してきた。吸い込む空気が急激に土の香りを帯びてきて、鬱屈した肺の奥が、鮮やかなフィトンチッドに清められてゆく心地がする。
 静かだった。
 時折強めの風がふくと、頭上の梢だけでなく、道の脇から張り出して咲き誇る紫陽花たちも一斉に揺れて、微かに水が飛んでくる。
「うわっ、濡れた」
 ぼとっぼとっ、と立て続けに落ちてきた水滴に脳天をやられて思わず笑った。そんな新一を振り向き、黒羽が目を細めた。
「まぁでも良かったな。雨止んで」
「おー」
 落ちた雨滴が、頭皮を伝って額へ落ちてくる。ぐい、と手の甲でそれを拭った瞬間、目の前にひょいとハンドタオルが差し出された。
「使えよ」
 黒羽が告げる。礼を言ってそれを使わせてもらいつつ、新一は少しぼんやりと立ち尽くした。
 柔らかなハンドタオルの温もりが、指先に心地良い。手の影で目を遮るようにして、タオルを額に押し当てたまま、少しだけ目を閉じた。
(ほんと、こういうとこだよ、オメー……)
 ソツがなく、気配り上手で、自分が懐に迎え入れた人間をとことん大事にする。それが黒羽快斗だった。
 時にその体力気力の限界まで己を削ってでも、小学生の姿形であった『江戸川コナン』を助けようとしたこともあった。好敵手でもあったが、あの頃からそんな彼の本質をどこかで深く信頼しきっていた自分がいたのは確かだ。

 黒羽快斗は、優しい。
 そして、かれこれ1年以上、黒羽には女性の影が無い。

 勿論告白されることはしょっちゅうだと、知っている。だが、全て断っているのだった。
 驚いたのは大学入学後、初のバレンタインを迎えた頃だ。常にソツなく、女の子を丁寧に優しく扱うことには定評のあった黒羽が、それでも全て、チョコを断った。
 義理も本命も、全てだ。
 正直、受け取った方が百倍楽であることは、新一が一番知っていた。
 なぜなら新一もまた、バレンタインの季節には女性への応対に苦慮し続けていたからだ。本命を丁寧に断るだけでも相当しんどい作業だ。新一の場合、義理だとはっきり解る場合は受け取っていたが、黒羽はそれに加えて義理まで丁寧に断り続けたから、東都大の全学生がその事実に驚愕した。
 ──黒羽快斗は、絶対にチョコを受け取らない──
 あんなに普段チョコが大好きで、冬場は常に持ち歩いているような男が、だ。
「……何で義理まで断るんだ、オメー」
 おそらく新一以外の友人も皆が不思議に思って尋ねたであろう問いを、それでもやっぱり我慢できず投げかけた、あの時。
 黒羽はじわりと目を見開き、何処か切なげな顔で、微笑った。
「……本命が、いるから」
「……っ」
 瞬間、息が、詰まった。
 ぽつりと囁いた黒羽の顔を、きっと一生忘れないだろうと新一は思う。何か手の届かぬ者へ恋い焦がれるようなその瞳が、苦しげに微笑っていた。
 今もその言葉が胸の底に刺さって、棘のように抜けないでいる。
 本命が、いるのだ。この男に。
 つまりそれは、バレンタインに黒羽の前で列を成して群がる女達には、永遠に幸運の女神が微笑む可能性がないことを意味する。
 そして──この自分にも。
 そっか、と頷いたものの、何処の誰だと問い正す余裕はなかった。声が震えぬように努めるだけで、精一杯だった。
 なんとなく、予感はあった。
 一見、器用で誰にでもいい顔をする軽い男のようにみえても、黒羽は己のテリトリーに入れる人間をきっちり精査している。その代わりこの男が人を愛したら、深く、どこまでも本気で愛するのだろう。
 新一もそのテリトリーに含められているのだという自覚はあった。有り難いことに、友人というよりは遥かに濃密な親友枠であるという自覚ぐらいはある。
 けれど。
(そこまで、だ)
 ぽつんと、昏い井戸の底に取り残されたような絶望感に、あの日からずっと囚われ続けている。
 其処から先へは、どう足掻いてもきっと届かない。ましてこの強靭な意志と情の深さを持った男に『本命』がいるというのなら尚更。

 紫陽花の色を瞳に宿す男は、
 皮肉なことに、きっと誰よりも一途。

「工藤は?」
「……え?」
 受けた衝撃の大きさにびっくりして、まだきちんと頭が動かなかったのを覚えている。何のことだと首を傾げれば、黒羽が静かな瞳で問うてきた。
「工藤は? 工藤だって本命チョコは受け取らないだろ。誰か、いるの?」
「あー……」
 問われて、新一はその瞳を見返すこともできず、目を伏せた。
 蘭とは結局、組織解体後に別れた。家族愛へと昇華されたそれが恋に戻ることは、もう無い。その事実を二人が互いに受け入れて、沢山泣いて、強く抱きしめ合って一生繋がり続ける大切な絆を確認し、そして──幼馴染みに戻った。
 そのことを、黒羽にはもう隠さず話している。
 けれど今、己の中に新たに芽生え、蔦のごとく狂おしく胸を締め付けるこの想いを、他でもない黒羽の前で正直に口に出すなど出来るはずもなかった。
 結局、自分もどこか感情の出口が目詰まりした不器用な笑顔で、告げるより他なかった。

 ──俺も、本命いるから、と。

「……工藤? どした?」
 頭痛いのか? と気遣われ、追憶の中に沈みかけていた新一は慌ててハンドタオルを外し、顔を上げた。
 目前に、心配そうな黒羽の顔がある。ひどく近い。
「だ、いじょうぶだ。さんきゅ」
 慌てて告げたが、黒羽が心配そうにこちらを覗き込む視線を外さない。やおら伸びてきた手が、熱でも確かめるようにそっと額に触れた。
 顔色をしっかり見極めてくる視線に、逆に頬の熱があがりそうになる。
「大丈夫だって」
「……なら、いいけど」
 あたたかな手はどこか躊躇いがちに離れた。
 黒羽がハンドタオルを受け取り、ひょいと手を翻す。瞬く間に目の前で消え去ったそれに思わず苦笑した。本当にこいつは呼吸するかのような自然な仕草で、マジックを見せてくれる。
 濃厚な森の香りに目を細め、肩を並べてしばらく歩く。一つ目のカーヴを曲がった瞬間、思わず新一は目を瞠った。
 想像以上のボリュームで、道を挟んだ両斜面には紫陽花がこんもりと咲いていたのだ。下り斜面へ広がる紫陽花の群れは、蒼から赤紫へ、ところどころ鮮やかなグラデーションを描いては咲き誇っている。
 まだ瑞々しい雨の雫を光らせている紫陽花の美しさは、言葉にならない。宝石が鈴なりに咲いているような鮮やかさだった。
「おー。咲いてるな」
 ニヤリと笑う黒羽が、嬉しげに紫陽花の海を見回して呟く。
「凄ぇ……こんな凄い場所なのに、人がいねぇ」
 さっきからすれ違う人すらもまだ無い。
 曇り空の午後。森を揺らす少し強めの風に、たっぷりと視界を埋める紫陽花が細波のように揺れては、そこかしこで雨の雫が静かに落ちては音を奏でてゆく。
 曲がり角を曲がるにつれて、紫陽花の海は深く、広くなる。
 まさに蒼紫の海が、ここにはあった。
「……裏口らしいぜ、こっち」
 黒羽が、悪戯が成功したと言わんばかりの顔で微笑む。
「そうなのか」
「表から入るより、花がゆっくり見られるってさ。どっから入ってもいーんだから一緒だぜ」
 お気に召しましたか? 名探偵。
 揺れる紫陽花の音に紛れるような、穏やかな声音で黒羽が囁く。瞳の奥に、紫陽花よりも強く燦めく蒼紫を宿した黒羽の顔を少し見つめ、新一は表情に困って──微笑った。
(オメーが、言うかなぁ……それを)
 紫陽花が見たい。そんな戯言に、まさか黒羽本人が付き合ってくれるとは思っていなかった。
 どうして自分が紫陽花を見たがっていたのか、その理由を問いもせずに、黒羽はここに新一を連れてきたけれど。
(こんなことされたら、何も、諦めきれねえじゃねえか)
 この風景の中に立って自分が捨てようとした想いを、未だにただの一つも捨てられないでいる──目の前で、紫陽花よりも強く胸を射る瞳が揺れているから。
 決して暇な男ではないはずなのに、こんな場所まで手間暇かけて自分を連れてきた黒羽の本命が誰かなんて、知りたくもないけれど。
 最近、思っていた。それをもし知る日が来るのなら、少し遠い場所へ行きたいと。
 黒羽の体温も、笑顔も、優しさも、届かぬ場所に遠ざかっていたい……と。きっとその時、自分は相当みっともない顔をしているだろうから。
(あぁ、やばいな)
 表情一つ、満足に取り繕えなくなっている自分がいる。明らかにいつもと違うぎこちない空気になり始めていること、黒羽はきっと察しているだろうに。
 不意に何かが、眼球の奥、薄皮一枚を隔てて込み上げてくるような感覚があった。足下に溜まる雨水のように、何かが目の奥に競り上がってくる。
 湿った感覚に、新一はきゅっと唇を食いしばった。
 どこか青い森の香りと同化する紫陽花の香りを吸うほどに、苦しい。
 答えずにただ黙り込んだ新一を暫し見つめ、やがて黒羽はまた前方を向いた。
 ゆったりと歩く。
「……工藤さぁ、なんで紫陽花好きなの」
「……」
「わざわざ見たいって言い出すほど好きだなんて、知らなかった」
「……それ、は」
 言い淀んだ新一を笑うように強めの風が吹いて、髪を揺らした。
 はぐらかすことは出来たけれど、ふと、投げやりな気持ちになった。どうせこの男に何を言ったって届かないなら、何だって言えばいいのかもしれない。
「……色が」
「色?」
「うん。色が、好きだ」
「何色?」
 一瞬、心臓が怯えたように震えたけれど、無視した。
「青系、かな」
 へえ。と黒羽が世間話を聞くように相づちを打つ。視線を前方に広がる紫陽花に向けた彼の表情は伺い知れず、だから新一も平然としたフリができた。
 ──これは、ただの雑談。
「日本は雨が多いから、自然と土壌は酸性に傾く。だから、蒼の紫陽花が多い。知ってるか? 元々、紫陽花って漢字は間違いからついたらしいぜ」
 雑談らしくうんちくを傾けてやれば、ちらりとこちらを見やる黒羽が、意外そうに眉を上げた。
「へえ、それは初耳」
「元は、『あづさヰ(い)』……小さなものの集まりを意味する『あづ』と、『さヰ』、藍色を意味する真藍(さあい)が合わさって出来た花の名前だったんだと」
「さすが名探偵。歩く辞典だな」
 IQ400という人並み外れた頭脳を持ちつつも、興味がないことに関してはさくっと知識が抜け落ちていたりする黒羽は、こうしてわりと興味深く新一のうんちくを聴いてくれる。そういう意味でも自分たちの相性は良い方だった。
 ……友人として、ずっと楽しく側にあれたなら、どんなにか。
「……青が、好きなんだ?」
 覗き込む瞳が涼やかに笑いかけてくる。
 正確には蒼紫だばーろ、と言いたかったが、また曖昧に笑う以外に何も出来ない。なのに、
「工藤の瞳の色だな」
 唐突にそんなことを言われ、喉が詰まって一瞬咳き込みそうになった。
「やめろ……俺がまるでナルシストみてーじゃねえか」
「でも工藤わりとナルシストじゃね? 自分好きだろ」
「はぁ? オメーには負けるっつの……」
 瞳を眇めて新一がぼやけば、否定はせずに黒羽がからりと笑い声を立てる。己の姿も所作も、全てがマジックと結びつくが故に、商材として自身を磨き上げてゆくことは黒羽快斗にとって必須だった。きっと、黒羽が自身を愛するのはそういう意味で当然のことだ。
 自身の魅力が解らない人間に、エンターテイナーは勤まらないのだから。
 と、黒羽がふと表情を改め、カーゴパンツのポケットに両手を突っ込んで呟いた。
「俺も」
「え?」
「紫陽花なら、俺も青系の方が好きだぜ?」
 その視線が、柔らかく新一へと注がれる。最近とみに精悍さを増してきた黒羽の目元がふと甘く緩んで、その表情を優しく彩った。
 黒羽がときおり見せるこんな表情が、心臓をきゅっと軋ませる。
 鼓動が、軽く走りだして、困る。
「……そーかよ……」
 平静を、ちゃんと装えただろうか。これ以上、どう答えろと。お前の瞳の色だと言われた直後にこれである。
 友人の定義って何なんだろうかと、こんなとき新一は途方に暮れてしまうのだ。ただの友人にさえこんな甘い顔をするのなら、本命にはもっと。

 ──きっと、もっと甘い。

 時折、小さな虫たちの羽音が響く。小さなハチのようにも見える虫が、吸蜜のために紫陽花へ舞い降りている。黒羽が歩きながら携帯をひらりと取り出したかと思うと、時折立ち止まっては花を撮影し始めた。
(俺より楽しんでんじゃねーか)
 思わずそんな姿に小さく微笑んでいたら、予備動作もなくするりと振り向いた黒羽の携帯が、カシャリと小さなシャッター音を立てた。
「……! 俺撮ってどうすんだよ」
「いいだろ。それこそ風景だけ撮ってどーすんだよ。こんなの誰と来たかが一番重要だろ」
 ケケケ、と悪ガキみたいな顔で、しかしわりと真っ当なことを黒羽が言うものだから、言葉に詰まった。
(……そういうことを、言うんだよなぁ……オメーは)
 体温が、悔しいことにまた、ふわりと人知れず上がってゆく。黒羽が新一とここに来たことそのものに価値を見出してくれている、そのことが嬉しくて──いちいちそんな感情に振り回される自分が、尚のこと苦しかった。
「ほら、来いよ」
 不意に手を引かれた。軽くつんのめる。
「おい」
「いーから」
 黒羽の左隣に並ばされる。上り斜面へ這い上がるように連なる青や紫の紫陽花をバックに、黒羽が長い手を最大限に伸ばして携帯のインカメラを掲げた。
「ほら」
 ニッと笑って、黒羽が左手で新一の肩を抱いた。髪が擦れ合う。うわっ、と心の中で悲鳴を上げた瞬間、軽い音と共にシャッターが切られた。肩に置かれた手の熱さと、少し強引なほどの力に気を取られて、いったい自分がどんな顔で写ったのかよく解らなかった。
「うし。後で送るな~」
 撮れ具合を確認して、黒羽が言う。おう、と小さく頷きながら、思わず新一は俯いた。
 頬の熱が、引かない。
(くそ……)
 また眼球の奥に何かが競り上がってくる感覚に襲われそうになる。今が叫び出したいほど幸せで、なのにこれ以上何が要るというのか。望まなければ、日々はただただ楽しく過ぎたろうに。
(ホント、ばっかじゃねえの)
 これ以上を望んでしまう強欲さが、憎い。こんな想いのせいで前にも後ろにも引けなくなっているのなら、いっそ捨ててしまいたいのに。
 また一つ、消させはしないとばかりに、思い出が降るのだ。この男と重ねた途方も無く濃い記憶の一端に、鮮やかな紫陽花すらも加わった。
 この重くなりすぎた思慕の捨て場所なんて、何処にあるというのだろう──小走りなままの鼓動をもてあまし、熱を逃がすように溜息をついた、その時だった。
 ぱた、と地面に新たな雫が落ちた。
(……あ)
 弾かれたように空を見上げれば、先刻より昏くなった雨雲から、新たな雨が落ちてくるところだった。
 やはり天気はもたなかったようだ。ぱた、ぱたと雨だれの音が助走をつけて激しく重なり、銀の糸が視野を埋め尽くした。
「おい」
「うあー。降ってきたな」
 生憎、近くに東屋もない区域を歩いていた。雨を凌げるものが見渡す限り、無かった。
 お互い、目を見合わせた。
 ──予感は、あった。
 今の今まで、雨具について確認するのをあえて避けていたけれど。
「駄目元で聞くけど、名探偵、傘は?」
「この薄っぺらな鞄に入ってると思うかオメー? 忘れた!」
「ハイ聞くだけ無駄でしたね~!」
「オメーは!?」
 手でとりあえず目の上だけでも雨から庇いながら問えば、黒羽が間近でふと、目を眇めた。
 不自然な、一拍があった。
「……わりぃ、置いてきた」
 黒羽が、ひそりと囁いた。
 雨を手で遮りもせずに、降りしきる驟雨に打たれる彼の前髪から、燦めく雨水が散った。
 濡れた前髪越し、黒羽の瞳の奥にある紫陽花の色に、強く惹きこまれる。
 ──息が、詰まった。
「行こう。東屋を目指す」
 黒羽が突然、片手で己のストールを首からするりと外した。ばさりとマントのように広げたその一端を新一に握らせる。傘のようにお互いの頭の上に広げ、もう片端は黒羽が持った。薄手のストールだが大判で、こうしてみるとそこそこ水を弾いてくれるようだ。
 坂道を上へ、ふたりで力強く走りだした。
 そこから三分ほど走っただろうか。二回ほど大きなカーヴを曲がった頃、道の左脇に東屋が見えた。
 円形の東屋に飛び込んだ。さすがに坂道を全力疾走はなかなかキツく、膝に手を突っぱねるようにしてぜいぜいと息を整える新一の側で、快斗が平然と辺りを見回し、額の水滴を拭った。
「どうやら貸し切りみてーだな。山ごと」
「……はは」
「身体鈍ってんじゃね? 名探偵サン大丈夫?」
「うっせ。俺は頭脳派なんだよ!」
 風もそこそこある。確かにこんな悪天候確定の中、わざわざ山に入る物好きは少なかったようだ。
 木製のベンチにお互い荷物をおいて、なけなしのハンドタオルで顔や手を拭いた。傍らで黒羽が水を吸ったストールを軽く絞り、ベンチの端に置いた。
 黒羽の機転のお陰で、数分も雨の中を走ったにしては上半身の濡れは少なくて済んだが、それでも少し肌寒さが増していた。
「……座れよ、工藤。当分動くのは無理だろ」
 黒羽が先にベンチに座り、とんとん、と隣を手で軽く叩く。頷き、新一は拳二つ分ぐらいの距離を置いて右隣に座った。もはや雨の檻に閉じ込められた中で、出来ることなどそう多くない。
 このまま、ずぶ濡れになりながら駅まで下りることも、やろうと思えば出来るけれど。
 ふたり並んで眼下に広がる紫陽花の海を眺めれば、急に時がゆっくりと流れ始める。この時間を叶うなら動かしたくはなくて、新一は静かに口を噤んだ。
 港は、絹糸のように降り注ぐ雨に淡く煙り、間近で咲き誇る紫陽花の蒼紫と森の緑だけが、ひたすら鮮やかに目を射る。
 雨音に、聴覚をゆっくり占拠されていくようだった。
「……綺麗だな」
 ぽつりと、黒羽が傍らで囁いた。
 ああ、と頷いた。
 ざぁぁぁぁ、とまた強めの風が吹いて、森を揺らす。一斉に梢からも溜まった雨粒が飛来し、東屋の中にもしぶきが少し吹きこんだ。
 ぶるり、思わず身体が反射で震える。
 黒羽が、ちらりとこちらを見た。
「どうする? 雨が小降りになるまで待つか? あと一時間ほどは、このままかも」
「そう……だな」
 小さく、新一は笑った。
 知っていた。そんなことは知っていたのだ。雨が降ることなんか、昨夜の時点で解っていたことだった。
「……別に、俺はいいけどな」
 紫陽花に目を逸らして呟いた。それがもう、精一杯だった。本当は、黒羽が帰りたいと言い出すまで、自分から言い出すつもりは無かった。日が暮れたって、黒羽とたった二人きりでこうして同じ時を過ごせるなら、自分はそれで構わないのに。
(聞くだけ無駄だぜ、黒羽……)
 力強い、雨の香りがする。
 深く吸い込んで、そっと目を閉じた。この時間が、少しでも長く続けばいいのに、と思う。
「俺も、構わねえけど?」
 沈黙の重さをふわりと救う、黒羽の声がした。
 ふと左手に温もりを感じ、新一は息を呑んだ。思わず閉じた瞼を開いて確認すれば、黒羽が、新一の左手を己の右手で緩く包んでいた。
「冷えてるな」
 新一の体温を確かめるように、黒羽が囁く。
「……っ」
 不意打ちのぬくもりに、呼気が乱れた。
「大丈夫か?」
「……何心配してんだよ。大丈夫だよこんぐらい」
「まぁ、そうだろうけど」
 怪盗と小さな探偵であった時代には、随分無茶もやらかしたものだった。お互い限界まで肉体を酷使しては極限状況を切り抜けたりもしたものだ。
「でも、あの頃の工藤は子供体温であったかかったけど、今は違うだろ。俺の方が、基礎体温が高いな」
「……オメーはいつも大体、熱い手してんな? K・I・D」
 じわりと口角をあげて答えれば、黒羽もまたニヤリと不敵な笑みを滲ませた。
「代謝がいいと表現していただけませんかね? 名探偵」
 軽口を叩きながらも、一向に手を離す気配がない。
 ゆっくりと頬が熱を持ち始めるのを隠したくて、紫陽花の海を眺めるフリをしてみたが──隠せて、いるんだろうか。
(俺も、オメーも、ホント何してんだか、な)
 男二人、まるで遭難したかのように雨の中に座り込んで、手なんか繋いでいる。
 今日、雨が降ることは解っていた。傘の話もしたのだ。持っていけば大丈夫、と黒羽は確かに言った。
 このIQ400を誇る男が、朝から重い曇天の下に歩み出て、傘の会話をただの一度も思い出さなかったのだろうか。
(俺ですら、思い出したのに)
 拳の中身を言い当ててくれよ名探偵──そう囁かれた、かつての記憶が不意に蘇った。
 いま、黒羽の手の中に包まれているのは、他でもない自分の手だというのに、真実は掴めないままだ。
 考えすぎて、膿んでしまいそうだ。もはや考えることそのものに疲れ、ふっと強く思い切るように息を吐くと、新一はやおら黒羽の肩へ寄りかかった。
 背骨で黒羽の右肩にもたれ掛かるようにすれば、顔を見られなくて済む。少し、気が楽になった。
「……っ、工藤?」
 驚いたような声が、頭上から降ってくる。
 新一は緩く笑って、いいだろ、と囁いた。
「ちょっと疲れた」
 肩貸せよ、と告げる。
 黒羽の肩と触れあう首の骨が、芯から燃えてゆく気がした。本当にこのまま燃え尽きてしまえれば楽だなぁ、と思う。
 熱を帯びるこの想いに骨の髄から熔かされて、跡形も無く、土に染みこんでゆけたら良かった。ここで蒼紫に咲き誇る紫陽花の根なら、熔けたからだを吸いあげて、綺麗に咲いてくれるだろうか。
 意味も無くとめどない妄想が、込み上げてくる。
「……わりぃ、傘、持ってくりゃ良かった」
 突然、黒羽が囁いた。
 寄りかかったまま目を眇め、新一は小さく笑った。
「別にいい。俺も持ってこなかった」
「でも──ごめん」
 やけに静かなその謝罪には、明確な後悔の色があった。
「……」
 強い感情を押し殺すかのような、黒羽の低い声音に──ゆっくりと、新一の心は沈んだ。
 そりゃぁ雨に降られて移動もままならない状況まで陥れば、普通はうんざりするだろう。せめてどちらかが一本でも傘をもっていれば、とりあえずそれで移動はできたのに、まさか黒羽が傘を忘れてくるとは思わなかった。
(悪いこと、したな)
 自分が持ってくれば良かった。黒羽にこうして迷惑をかけてまで、やることじゃなかった。
 バカだな、と己を嗤った。
 ほんの少し、柄にも無い願望に引きずられた。ほんの少しだけ、口に出すのも小っ恥ずかしいような、そう……
 夢を、みたのだ。
 だから朝家を出るとき、折りたたみ傘に伸ばしかけた手を、止めた。
(──バカだな、俺。ほんとバカだ)
 降りしきる雨に閉じ込められて何処にもいけないなんて、まるで、自分の心そのもののようだ。
 言ってしまおうか。急に投げやりな衝動が込み上げてきた。こんな場所で二人きり、まるで恋人にするかのように当たり前に肩を貸してくれるこの男に、これ以上、己の気持ちを隠しておける気がしない。
 喉元まで、堪えた苦しさが競り上がってくる。先刻からまだ手を離さない黒羽に、これ以上、何をどう取り繕えばいい?
 また眼球の奥に熱い湯のような苦しみが張り詰めて、思わず、ぎゅっと目を閉じたその時だった。
「昔さ」
 突然、黒羽が唇を開いた。
「親父と、二人で出かけたんだ。母さんは都合で来られなくて、俺と親父、二人だけで。アスレチック連れてってもらってさ」
「おう」
「でも天候はちょっと怪しくてさ。雨降るかもしれないって言われてたんだけど、俺はどうしても親父と行きたくて。しょっちゅう仕事で親父は家を空けるし、遊べる時はそうなかったから、絶対、行きたかったんだ」
 東屋の、雨どい代わりに垂れるレインチェーンを伝い落ちる水の流水音に、昔を懐かしむ黒羽の声音が、そっと溶けた。
「そん時、俺さ、親父の荷物に悪戯したんだ」
「……え?」
 小さく笑う黒羽の身体が、揺れる。
「悪戯って、どんなだよ?」
 興味を惹かれて瞼を引き上げ、背後へそっと振り向いた新一は、だが思いがけぬ黒羽の表情に言葉を失った。
 黒羽は──笑っていた。何処か、泣き出しそうな目で。
「折りたたみ傘、抜き去って、家に置いてきたんだ」
「え」
 どくん、と心臓が跳ねた。
「親父とさ、出来るだけ長くいたかった。家に帰ったらせっかくの休日が終わっちゃう気がしてさ、帰りたくなくて。傘、抜いたんだ。何処かで雨が降ったら、こうして、雨宿りしながら親父と外で一緒にいられるかもしれねぇって」
「…………」
「発想がさぁ、変わってねーんだよなぁ。我ながらガキだよな」
 はは、と小さく笑って、黒羽は新一の瞳を覗き込んだ。
「わりぃ、工藤」
「……くろ、ば?」
「言ったろ」
 新一の手を掴む黒羽の掌が、一際熱を増した。
 強さを湛えた眼光。その奥に、ひたむきな蒼紫が密やかに揺れていた。
 失うことを畏れながらも前に進む強い意志を秘めたそれは、ずっと新一が焦がれて、焦がれて。
 惹かれ続けた、黒羽快斗の、うつくしい瞳だった。

「忘れたんじゃねえよ。『置いてきた』んだ。傘」

「……っ」
 意味を理解する前に、さっと頬が火を灯されたように燃えた。冷えた身体の中心で、どくん、どくんと心臓だけが箍の外れた溶鉱炉のように血を送り出し始めている。
「工藤」
 ゆっくりと顔を寄せた黒羽の吐息が、己の左頬を掠める。仄かな熱が肌表面を淡く炙った。
「俺を受け入れるか、俺にとどめ刺すか、選んでくれる?」
「……っ、くろ、ば?」
 どんな顔でこれを言っているのだろう。勘違いしたくなくて、思わず顔を引いて少し離れ、黒羽の表情を確認しようとしたのに──それは叶わなかった。
 黒羽の左手が、ぐいと強引に、新一の後頭部を掴んだ。そのまま己の肩に新一の頭をおしつけるようにして、震える息を強く吐き……囁いた。
「好きだ」
「……っ」
 強く、身体が震えた。
 こちらに身ごと向き直った黒羽の右手が、きつく、きつく新一の手を掴んでいた。耳元で引き攣れたような呼吸音が響く。
 雨が、少し弱まったのだろうか。世界のノイズが引き潮のように東屋から遠ざかっていき、ただただ、荒く乱れた黒羽の呼吸音だけが鼓膜を揺らした。
 ……いや、違う。
 自分の唇からも、いま、みっともなく乱れた呼気が、ひっきりなしに漏れていた。
 叶わないと自分に言い聞かせながらも、壊死させることのできなかった諦めの悪い心が、今になってひどく震えていた。
 これは、本当の出来事なんだろうか?
 実は黒羽の肩に凭れて、いつの間にか疲れて眠ってしまった自分が見た、夢だったりはしないのか。
「……頼むよ、工藤」
 掠れた声で、黒羽が言う。
「工藤が……新一が、欲しい」
「……っ」
「他には、何も要らない」
 名前を呼んだ黒羽の声が、背骨を甘く燃やす。
 愛を乞うその情熱に、直接心臓を握られた気がした。もう限界まで躍る心臓が、これ以上は無理だと叫んでいるのに。
 また強く、吐息が乱れた。
 混乱の中で、新一はゆっくりと空いた左手を動かした。黒羽の背中に、おずおずと手を回してみる。抱きよせれば、少し湿った黒羽のシャツ越しに、熱い躯が息づいていた。
 ああ、黒羽だと思った。そう思ったら、自然と喉を締め付けていた何かが、雪解けのように柔らかく緩んでいった。
「そ、っか」
 ぽつりと囁いて、新一は熱く発火しそうな頬を、黒羽の肩に自分から押しつけた。
 きっと黒羽も怖かったんだろう。それでも、勇気を絞り出すのは黒羽の方が先だった。
「お前、此処にいたのか……」
「……く、どう?」
 はは、と小さく笑って、新一は勢いよく顔を上げた。
 ちゃんと見てみれば、正面から見つめた黒羽の顔が、今まで見たこともないほど真っ赤に染まっている。自分だけじゃなかったのだと気付くと、ほっとした。多分、自分の顔もいまは茹で上がっているのだろうけど、構わない。
 何処か他の場所にあるとばかり思っていた黒羽の心が、此処にあったというのなら、泣いたって許される気もする。
 まるで断罪の時を待つかのように唇を食いしばってこちらを見つめる元怪盗へ、新一は囁いた。
「傘、さ」
「……うん」
「俺も、わざと忘れたぜ?」
「……!」
「俺もオメーも、相当なガキだな!」
 弾けるように笑ってやれば、柄にもなく緊張でガチガチになっていたらしい黒羽が大きく目を瞠り──そして、泣き出しそうな顔でいきなり強く抱きしめてきた。
「しん、いち」
「……っ」
「すきだ」
「おぅ……」
 息が詰まるほどの抱擁に、背骨が軋む。そんな圧迫感すら心地良くて、笑いながら黒羽に躯を預けた。熱さを堪えた目の端に少しだけ水が溜まるのは雨のせいにしようと思ったのに、気がつけばもう雨も止んでいた。
「……やっと、捕まえた」
 嬉しげな囁きに、ばーろ、と新一は微笑った。
「捕まえたのは、こっちだっつーの」
「監獄?」
「ああ」
「やけに甘い匂いのする監獄ですね、名探偵?」
 黒羽が歌うように囁く、その声に鳥の歌声が小さく重なり響く。
 黒羽、と呼びかけてふと思い直し、新一はそっと囁いた。
「……快斗」
「……うん?」
「外。見てみな」
「……?」
 きつく新一を抱いていた腕を緩め、黒羽が──いや、快斗が改めて東屋の外へ視線を投げかけ、息を呑んだ。
 瑞々しく濡れた紫陽花の海にいま、紗のような陽差しが、雲間から何本も光の梯子となって降り注いでいた。
「綺麗だな……」
 思わず漏れた新一の呟きに、快斗は緩く頷いて──けれどすぐに紫陽花から視線を外して新一を見つめ、
「──あぁ」
 そっと、互いの間に言葉を置くように、答えた。
(……っ)
 誘う視線が、熱い。もはや頬に穴が空きそうだ。じわりと上気してゆく顔を隠したくなってきたが、隠れる場所などもはや何処にもなかった。
 視線の熱に、ついに負けた。
「なん、だよ……?」
 おずおずと見つめ返そうとしたけれど、やはり眩しくて、視線をぎりぎりで合わせることが出来そうに無い。
 黒羽快斗はいつだって、工藤新一にとって眩しい男だった。
「こっち向いて、新一……」
 長い指先が、新一の顎をするりと撫で上げる。下顎の中央でつと止めて、軽く掬い上げた。
「ちょ……」
「ダメ?」
 ダメ? と聞く振りをしながらもう顔が近い近い近い。蕩けるような蒼紫の瞳が、もう待てないと囁いている。
「いや、ダメじゃ、ねぇけど……っ」
 ぶわりと一気に顔が上気して、火事だった。これは遊び半分でコナンだった自分に怪盗が与えた、頬や手の甲へのキスとはきっと、違うものだ。
「諦めてよ、名探偵。ガード甘いぜ?」
 間近で微笑む快斗の表情に、艶やかな余裕が急に滲む。
 くそう、そういうところが始末に負えねえんだよコソ泥め、と心の中で喚いた時にはもう遅かった。
 ゆっくりと、唇が重なる。
(……あ)
 積もった想いを柔らかな体温と共に口移してくるその唇に、とくん、と胸があたたかく鳴った。
 それは、確かに新一を想う男の体温に違いなかった。

*   *   *

 雨はいったん止んだが、やはり人気の少ない雨あがりの紫陽花園を歩いてゆく。閑散としているのを良いことに、触れた指先をそのまま掴んで握りしめてきた快斗の手に、黙って己の手を委ねた。
「……やっぱ、実感湧かねえし、信じらんねぇ」
 ぬかるみを避けて歩きながらぼそりと呟けば、隣を歩く快斗が小さく笑った。
「じゃぁ信じてくれるまで何度も言おうか?」
「……おー。頼む」
 試しに素直に頷いてみれば、ぽかんとした顔でこちらを見た快斗の顔が、見る間に熟れた林檎のごとく赤く染まった。
「うわぁぁぁぁ……ずっる……狡ぃわ……これだから名探偵はさぁ」
「なんだよ」
「狡い! 俺だって新一から好きって言われたい!」
 拗ねた快斗の顔がおかしくて笑ってしまう。新一は目を細め、眼下に広がる紫陽花を眺めた。
 ──結局、お互いが口にした『本命』が互いのことだった、なんて。そんなオチ出来すぎていて。
「都合のいい、夢みてぇだ」
「……夢じゃねぇよ」
 快斗はそう言うけれど。
「目が覚めたら、自分の家で、これは俺の願望が見せた夢なんじゃねぇかって気がして、今も、なんか……」
「うん」
「足が、ふわふわする」
 踏みしめても踏みしめても、どこか身体がふわふわして、このまま浮き上がってしまいそうで困るのだ。
 正直にそれを語ったのに、快斗ときたらその瞬間、あちゃぁ、とでも言い出しそうに片手を目に当てて、天を仰いだ。
「勘弁して新一さん……俺の忍耐が試されている……」
「はぁ?」
「あのさ──じゃぁ、こうしようか」
 耳元に唇を寄せ、快斗が囁く。
 麻薬めいたその誘いに新一は絶句し──やはり赤く染まった頬を隠すこともできずに困った顔で溜息をついた。
「返事は?」
「~~~っ、策士め……」
 無理だ。返事をしようとしても、恥ずかしさのあまり顔から火を噴きそうだ。ぐっと言葉に詰まって視線を泳がせた、その時だった。
 前方から、まとまった観光客の群れが歩いてくるのが見えた。
 新一の片手を握りしめていた黒羽の手が、少し緩む。心得て、するりと己の手を抜き去ると、新一は大きく雨上がりの空気を吸った。
「おい快斗!」
「!」
 まだ、名前で呼び合うのも照れるけれど。
 弾かれたように顔を上げた快斗を見やり、新一はニヤリと笑って見せた。
「さっきのやつな。いいぜ?」
「……! マジで!? やった!」
 雲間から覗く太陽のように、快斗の表情があからさまに輝く。青臭いほどに満面の笑みだ。嬉しさを隠そうともしないその顔に、またひとつ、新一の中で緊張が解けた。
 つられて笑ってしまいながら──小さく首を傾けて、ぽつりと言った。
「あとな」
「ん?」

「……好きだ」

 快斗にだけ聞こえる声で告げるなり、顔を明後日の方向に向けて歩き出す。言った瞬間にはもう恥ずかしさに耐えきれなかった。こんな台詞素面で言える快斗の気が知れない。
 もうすぐ、前方の観光客とすれ違う。賑やかな話し声が耳に届き始めた。
「……っ?!?!?」
 ちょ、ちょっと待ってもう一回! といきなり激しく狼狽し始めた快斗が小走りになる。捕まってなるものか、とこちらも小走りになりながら、新一はやなこった、と笑い混じりに呟いた。
 こんな小っ恥ずかしいこと、そう出来るはずがない。それでも多分、今夜はもう一度ぐらいは声に出して言ってしまうんだろう、きっと。

 ──今夜、このまま伊豆で一泊、しねぇ?

 帰りの切符は、まだねぇんだ……などと甘やかに呟くこの策士の案に乗ってやるのは、掌で転がされているようで癪でもあるけれど。雨はまたすぐ降るだろうし、濡れて寒いし。このまま帰れば電車のシートも濡らしちまうかもしれねぇし。
 心の中で言い訳を幾つも並べる新一の背後に、すぐに快斗がぴたりと追いつくが、隣には来ない。狭い山道ですれ違う前方の団体客数名をやり過ごすまでは、後ろにいるつもりらしい。
「最近は、結構この紫陽花も贈答用とかで喜ばれてんだってなぁ」
 年配の客の一人が語る声が、耳を掠めた。
「へえ? そうなの?」
「おお。小さな花が寄り添って支え合ってるから?ってな、なんだか家族の象徴ってな解釈らしいなぁ」
 あらそうなの、と聞き上手な老婦人が楽しそうに頷いている。いいわね。私も今度育てようかしら。

 ──花じゃなくて、それ、萼だけどな。

 なんて無粋なことは言わずに、黙ってすれ違う。
 賑やかなその一行が去って、また前方の小径の風通りが良くなった。すると待ってましたとばかりに、新一の傍らへするりと快斗が並んだ。

 一途に支え、寄り添う、紫陽花のように。

 街で二人が一夜の宿を探し始めた頃──
 あたたかな宿へ二人を誘うように、少し冷えた風が小雨交じりに吹き始めていた。