the end of Summer:みづき

 昼飯を食べようと冷蔵庫を開けたところで、ピンポーン、とインターホンが軽薄な音を響かせた。
 せっかく開けた赤い箱からは何も出さずに扉を閉める。一時間前につけたクーラーのおかげでダイニングは涼やかだけど、それでも一瞬漏れてきたひんやりとした空気を名残惜しく感じる。夏も盛りを過ぎたというのに、依然として厳しい暑さだ。
 今日は来客の予定も荷物が届く予定もない。もしやと思いドア横にあるモニターを覗き込めば、そこに映っていたのはやはり予想通りの人物だった。
「新一じゃん。どした?」
『……よー』
 ほんの一瞬ちらりとカメラに目線を投げる仕草も、インターホン越しのくぐもった声のトーンも予想通りだ。今開ける、と短く応じて玄関に向かう。会う約束はしていないけれど、いきなり来られたからといって困る仲ではない。

 新一とは、表向きは高校三年の頃からの付き合いだ。その頃の俺たちは友人と呼ぶには些かくすぐったい関係で、別々の高校に通っていたこともあり、つかず離れずの適切な距離を保っていた。
 進学先が同じ大学の同じ学部だと知ったのは入試の日だ。何の因果だと動揺したのはおそらくお互い様だったけれど、試験結果に影響を来すことはなかった。
 次に会ったのは入学式の日だ。片手を上げて旧知の仲のように「よう」と挨拶を交わしてしまえば、それまでの適切な距離感なんてすっかり忘れてしまった。
 もともと気の合う奴だとは思っていた。それがいつしか気心の知れた仲になり、やがて気になる存在になり、自分の胸の中で日増しに膨れていく感情が恋心と呼ぶべきものだと理解したときにはもう後戻りはできなくなっていた。下手なアプローチを繰り返し、やっとのことで恋人関係に漕ぎ着けたのは、大学一年の冬のことだった。
 きっかけが何だったのか、決定打がどれだったのかはわからない。曖昧だったわけではなくて、選びきれないほどの接点が俺たちにはあった。相手を特別視してしまうのも無理がないような関わり方をしてきた自覚はあった。まさかその行き着く先が恋愛感情だとは思いもしなかったけれど、認めてしまえばしっくりきた。今は出逢うべくして出逢ったのだと思っている。

 スニーカーを爪先に引っ掛けるように履いてドアを開ければ、ポーチには仏頂面をした恋人が立っていた。
「よう」
「おー。悪ぃな、いきなり来て」
「それは構わねえけど。どした?」
 ドアを開けたままの姿勢で問う。何か用事があって来たのだろうが、玄関先で済む用件かもしれないので、招き入れていいものか逡巡してしまう。
 さっきインターホン越しにやったのと同じようにほんの一瞬だけ俺の顔を見た新一は、ばつが悪そうにすぐに顔をそらした。そのままのポーズでこれ見よがしに持ち上げた右手には、江古田駅前のスーパーの袋がぶら下がっていた。
「……ちょっと腹減ったから、昼飯一緒に食おうぜ」
 仏頂面だったのは、どうやら不機嫌だったからではないらしい。
 新一の性格はよくよく理解しているつもりだ。甘え下手な恋人を拗ねさせないよう、俺は「もちろん」と鷹揚に応じた。

 *

 スーパーの袋をキッチンのカウンターに置き、シンクで順番に手を洗う。袋の中にはそうめんの束と麺つゆと野菜が入っていた。野菜の使い道がわからずに首を傾げる俺に、恋人は「天ぷらそうめんが食いたい」と言った。
「天ぷら? 今から揚げんの?」
「おう。惣菜も売ってたけど、揚げたてのほうがうまいだろ?」
「まあそりゃそうだな」
 ほとんど料理をしない新一のことだから、この場合天ぷらを揚げるのは俺だろう。いまだ暑さの残るこの季節に真っ昼間から揚げ物なんて正直面倒だけど、それが最愛の恋人の望みならば喜んで引き受けるのが男というものだ。
 新一にはそうめんの準備を任せ、俺は天ぷらをつくることにした。袋から取り出した野菜をカウンターに並べていく。南瓜に茄子、椎茸と大葉。さっき覗いたときには見えなかったけれど、袋の底にはパック入りの海老まで入っていた。
 こうなったら徹底的にやってやろうと、エプロンを装着し腕まくりをする。新一は鍋いっぱいにお湯を沸かしながらそうめんの湯で時間をチェックしている。
 洗った野菜をカゴにあげていく。大葉だけは軸を切ってもう一度水にさらし、茄子はへたを取って縦半分に切り末広切にする。四分の一カットの南瓜はさらに半分にカットして、スプーンで種を取り除き五ミリ幅にスライスし、残りはラップをかけて冷蔵庫にしまう。椎茸は表面を軽く拭いて軸を切っておく。
 野菜の次は海老だ。殻を剥き、足と背わたを取り、尾の先を切り落として水気を拭う。腹側から切り込みを入れ筋を切ってまっすぐに伸ばせば、随分と食べ応えのありそうな姿に様変わりした。
「……オメー、天ぷら屋で働いた経験でもあるのかよ」
「後学のために勉強したからな」
「後学ねえ……」
 含みのある言い方をされたけれど、お決まりの応酬なのでスルーした。俺たちのあいだの暗黙の了解だ。裏稼業の一環として身につけたスキルがこんな形で役に立つなんて、あの頃には思ってもみなかった。
 卵をボウルに片手で割り落とし、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを注ぐ。天ぷら粉はないので小麦粉を振るい入れてざっと混ぜた後は、ひと回り大きなサイズのボウルに氷水をつくってその上で冷やしておく。
 一段落ついたところで、俺は斜め後ろから恋人を観察した。沸騰したお湯の中にそうめんを入れようとしている新一の服装は黒いシャツとグレーのスラックスだ。もともと襟付きの服を好んで着る男だから普段着のようにも見えるけれど、それにしてはシャツには糊が効いているし、裾もきちんとスラックスに収めている。玄関で出迎えたときのことを思い浮かべる。確かローファーを履いていたはずだ。
 恋人同士だからと言って、予定を全て把握しているわけではないけれど、今日の服装を見る限り、例によって例のごとく捜査一課の警部に呼び出されていたことは容易に想像できた。その足で、自分の家には帰らずに俺の家に来たのだ。腹が減ったのなら適当な飲食店に入ればよかったのに、わざわざスーパーに寄ってまで。
 そこまでして、俺がつくる天ぷらそうめんが食いたかったのだろうか──なんて考えは一秒後に脳内のゴミ箱に投げ入れた。そんなわけあるか。
 たぶん、こいつは何か理由があってここに来たのだ。そしてその理由を聞かなくても、挙動を見ればそれがどういう類のものなのか検討くらいはつけられる。大方後味の悪い事件だったのだろう。或いは誰かに──この場合は被疑者やその身内が有力候補だが──理不尽な言葉を浴びせられたのかもしれない。
 思えばこいつは昔からこうだった。何か嫌なことがあったら、こっちの都合などお構いなしにふらりと家に来る。飯時だろうが真夜中だろうが関係ない。そのくせ何も語ろうとはしないし、何も求めてはこないのだ。
 別に会いに来るのは構わない。仮に呼びつけられたところで会いに行くくらいわけもない。でもそれは、こうして会える距離にいるからだ。
 大学院に行かない俺たちは、およそ半年後には大学を卒業する。はっきりと口に出したことはないけれど、新一と俺の進路はずっと前──それこそ出逢う前から決まっている。就職試験も面接もいらない職業だから、他の学生たちよりも余裕はあるけれど、安定しているとは言い難い。それでも新一と俺のことだから、食いっぱぐれることはないはずだ。
 初めのうちは東都が拠点になるのだろう。でも、いずれはお互いに外の世界に出ていくかもしれない。今までのように簡単に会うことができなくなるかもしれない。
 そうなったら、俺たちはどうなるのだろう。これから先、ひとりでいられないとき、新一はいったい誰を頼るのだろう。
 菜箸を油の中に突っ込む。箸の先からふつふつと小さな気泡が上がったのを確認し衣を纏わせた茄子を沈めれば、じゅわっと大きな音がした。昏い思考を払拭するように、野菜をどんどん油の中に入れていく。
 隣では新一が茹で上がったそうめんをザルにあけていた。水道水でざっと冷やしたあとに氷水で締める。俺は揚げ物の様子を見つつ、食器棚からガラスの大鉢を取り出した。江戸硝子のその器は、母さんが知人の結婚式でもらった引き出物の中のひとつだ。そばちょこ二つとセットになっていて、表面は粉末状のガラスの色粉で色付けされている。透明に近い淡い青もあれば、緑に近い深い青もある。硝子自体が青みがかっていることもあり、その複雑な色合いはまるで海のようだった。
 不意に冷蔵庫の野菜室に小葱があったことを思い出し、二本ほど引っ張り出して小口切りにする。切り終えた小葱を小皿に移したところで天ぷらが揚がったので、ステンレスのバットの上にどんどん上げていく。
「新一、生姜とわさびは?」
「あったら嬉しい」
「了解」
 油を切っているあいだに冷蔵庫から生姜とわさびのチューブを取り出す。新一はそうめんをくるくるとまるめていたけれど、不恰好な上に大きさもばらばらだった。不器用なわけではないはずだから、多分そろえるつもりがないのだろう。
 似ているとよく言われる俺たちだけれど、それはおそらく外見の話だ。確かに内面にも共通点は幾つかあるけれど、本質的には新一と俺は全然似ていない。
 俺は手先も器用で要領もいいから最善の幅が広い。対して新一は一点集中型だ。でも、そんなふうに大切なものを選べるのは新一の長所のひとつだ。
 俺は選んでもらえたのだろう。それだけは誇っていいはずだ。落ち込んだときに傍にいたいと思ってもらえる程度には必要とされていることだってわかっている。
 だからこそ、これからのことが怖いのだ。
 そうめんが入った大鉢とそば猪口、天ぷらを盛り付けた皿と薬味をダイニングテーブルに運ぶ。向かい合うように座って、俺たちは「いただきます」と手を合わせた。
 新一は南瓜、俺は海老の天ぷらに箸を伸ばす。ほんの少しだけめんつゆに浸して口に運べば、さっくりとした衣につゆが絡んで絶妙の加減だった。新一の表情もぱっと明るくなる。
「うわ、すげえなこれ。やっぱ揚げたてはうめえな」
「おう。つーかこの麺つゆすげえうまい」
「一番高いやつ買って来たからな」
「あ、そういや金払ってねえや。いくらだった?」
「別にいいよ」
 今度コーヒーでも奢ってくれ、とぞんざいに応じ、新一は今度は大葉の天ぷらを頬張る。うんうん頷きながらそうめんを掻き込む様は、料理を作った立場からすれば嬉しいことこの上ない。
 そうめんはうまかった。二人とも箸がちっとも止まらなくて、ひたすら食べることに専念した。夢中になっているふりでそうめんと天ぷらを頬張って、腹が膨れていくにつれ、不安もどんどん膨らんでいくようだった。
 いつもなら、何かしらの話題を見つけて話すのに。今だって、話のネタはいくらでも見繕える。でも、今の俺たちにはそのどれもが相応しくないような気がした。
 この空気を、適当な話題で繕いたくはなかった。
「……俺さあ、」
 めんつゆを継ぎ足して、薬味もどっさり足して、薄く濁った茶色の液体をぐるぐるとかき混ぜながら、何でもないふうに口を開く。
「卒業したら、マジシャンになるぜ」
「……知ってるよ」
「最初はアマチュアとして寺井ちゃんと一緒にやってくつもりだけど、たぶん有名になるし、そしたらベガスに行くかもしれないぜ」
「そうかもな」
 そば猪口の中のそうめんをつるりと平らげた新一は、箸を器の上にそろえて置き、麦茶をごくりと飲んだ。
「俺だって、卒業したら探偵になるぜ」
「……知ってるよ」
「しばらくは捜査一課への協力がメインになるだろうけど、FBIとかCIAにも知り合いはいるし、そっちから要請が来たら海外を渡り歩くことになるかもしれないぜ」
「そうかもな」
 存外素っ気ない声が出て、今度は俺が箸を置いて麦茶を飲んだ。喉をちゃんと潤して、呼吸をしっかり整えて、だから、と口を切る。
「だから、一緒に暮らそうぜ」
 椎茸の天ぷらを口に運ぼうとしていた新一は、そのままのポーズでぴたりと動きを止めた。
「……は?」
「春になったら、どっかに二人で部屋借りて、一緒に暮らそうぜ。そうしたら、どんなに忙しくても、今までみたいに一緒にいられなくても、同じところに帰ってこれるだろ」
 新一はぽかんと口を開けていた。箸からぽろりと落ちた天ぷらをすかさずキャッチして、空いたままのその口に入れてやる。もぐもぐ咀嚼しごくんと飲み込むあいだも、新一はずっと目をまん丸に開いたまま俺を見ていた。
「新一がどう思ってるかしらねえけどさ。俺はこの先もずっと、おまえと一緒にいたいんだよ」
 何十人、或いは何百人もの観客を前にしているときよりも、たったひとりと向き合っている今のほうがよっぽど緊張した。俺なりの精一杯のプロポーズだった。この先もずっと一緒にいる方法なんて、それ以外思いつかなかった。
 鈍い恋人にはもしかしたら伝わらないのではないかと危惧したけれど、みるみるうちに頬が赤く染まっていく様子から、こっちの真意を汲み取ってもらえたことが見て取れた。
「……それ、どう受け取ればいいんだよ」
 冷蔵庫が低く唸る。麦茶のコップには夥しいほどの水滴がついていた。俺は精一杯のポーカーフェイスで動揺を覆う。
「好きに受け取ってくれていいぜ」
 平然と言ったつもりだったのに、ひっくり返った声が出た。いかに無表情を繕おうとも喉の震えまではカバーできないようだった。
 沈黙が流れる。時計の秒針の音がやけに大きく聞こえて、打ち消すように俺はそうめんをすすった。ずるずるという間抜けな音が響く。
 わかった、と頷いた声の温度は、声帯模写が得意な俺でもきっと再現できない。
「……言っとくけど、生活費は折半だからな」
 言うに事欠いてこれだ。精一杯の照れ隠しが愛おしくて、俺は「了解」と笑った。
 窓の外から聞こえる蝉の声にふと視線を移す。風のない庭先では夏水仙が重たげに頭を垂らしていた。あと数時間後に訪れる斜陽には秋の気配が滲むのだろう。
 海の色のガラス鉢は、すっかり空になっていた。