此岸のカプリチオ:お魚ダンサー

 ほぅ、と一息を吐いたところで、ようやく思考がクリアになっていくのを新一は実感した。
 なにも、今まで意識が混濁していた、なんてわけではない。むしろ、この頭蓋に収まった脳みそは普段以上に唸りを上げて、おびただしい膨大な情報と格闘し続けていたぐらいだ。不可解な状況、見つからない動機、ちぐはぐな証拠や痕跡、あるいはボタンを掛け違えたかのように歪な証言の山。
 それらを一つ一つ丁寧に紐解いて、なめして、組み合わせて、真実の形を浮き彫りにする。
 そんな途方も無い作業へ没頭し続けたおかげで、今はようやく区切りもつき、一つの事件が幕を閉じようとしているところだった。
 そういえば自宅にもろくに帰らなくなって、今日で何日目だろうか。
 ズズ、と少しぬるくなった手元のインスタントコーヒーを再び口に含んで、新一は久しぶりにそんな日常の一端へと思考を向けた。

 ——たしか、事件発生が先週、だから……?

 もはや庭といっても差し支えない一課の片隅で思い浮かべる。
 窓辺ということもあり、外から差し込む光が燦々と新一の目を灼いていた。昼に差し掛かる前のその健全な明かりは、まさしくここ最近の不健全さを浮き彫りにするにも、これ以上なく相応しい。
 それはもう、思わず新一が苦笑を浮かべるほどの、惨憺たる有様だ。
 初めの三日ほどは、これでも一応、自宅から現場やら警視庁やらへと足を運んではいたのだ。けれども、それとて現場での情報以上のものがまだ出揃っていなかったから、という単純な理由にほかならない。それ以降ともなれば、まともな日常生活における記憶はまるで欠落してしまう。おかげで脳裏に残るものはただ、機械的に午前と午後を認識する、あるいは、頭脳を動かすための栄養補給作業に関するものだけだ。そして、二度ほど衣類なんかを取りに戻った以外には、自宅に長く滞在した覚えもなく、つまりは少なくとも一週間は家を空けていたということだろう。
 そんな自分に対して、またやっちまった、と僅かばかり辟易とはするものの、自省するには及ばない。ついでに言えば、諦観するほどの殊勝さもない。
 むしろ開き直りに近い気持ちが、新一の中を占めていた。
 新一にとって、何より優先すべきは真実の追求だ。
 きっと、呼吸をすることか、真実を追求することか、いずれか一つしか選べないなら新一は迷わず後者を選ぶだろう。そうすれば命がないと分かりきった矛盾でも、工藤新一とは結局そういう生き物だった。
 だからこそ、というのだろう。
 突き詰めてしまえば、そんな新一の身近に残ったのは、似たり寄ったりのマッドばかりとなっていた。あるいは科学者、あるいは国家の守り人。それから、そう、奇術師とか。その他にも幾人かの顔が脳裏を通り過ぎていくものの、いずれも頭のネジが数本弾け飛んだような者ばかりだ。ときに優しく、たとえば新一の身を案じて凄まじいほど親身になるくせに、それが我がこととなれば揃って新一の有様と大して変わらないところも似過ぎている。なかでも、恋人なんて関係まで結んでしまった奇術師とは、相手を案じて、その度にお互い様だと何度言い争ったか数えるのも馬鹿らしいほどだ。
 なるほど、深淵を覗く時、なんてのはよく言ったものだろう。
 そんな面白くもないことを寝不足の頭でつらつらと思い浮かべて、新一は再び窓の外へと目を向ける。
 代わり映えのない、青い空。
 まるでこの世に悲しいことなど欠片もない、なんて戯言すらも信じられそうなほどだ。

 ——……いや、そうでもねぇか。

 明るい日中に殆ど目立ちはしないが、よくよく見れば青い中にポツリと浮かんでいるものがある。夜の煌々としたそれとは装いを違え、ひっそりと輪郭を滲ませる白い色。

 じわりと潜む、昼の月。

 いつからそこにあったのか、気付けば当たり前の顔をしてそこにある。
 なにも、正確に月の出の時間が知りたいなんてわけではないし、現在時刻と月齢を考慮すればある程度の時間を導き出すなんてことは、新一にとってあまりに容易い。

 そう、だから、そういうことではなく。

 また一口、続けて二口とコーヒーを飲み下せば、小さなカップの中身はすぐ空になった。そうする間も、やはり月はそこに浮かんでいる。実際には、人には認識できないスピードで傾きを変えているのだが、それもまた今の新一に必要な情報ではない。
 いま新一にとって重要なのは、ただ、月はいつも新一を見下ろしているという、それだけだ。
 悲しいことなどなにもない、不幸などどこにも蔓延らない、そんな風に見える青い空にも、やはりそれは浮かんでいる。そのたった一つの事実だけが必要だった。
 だから今もこうして空に浮かぶそれを見とめて、そうだよな、と事実を腑に落とす。日常を放棄していたこの一週間ほどだって、間違いなくそれは空にあったのだろう。
 宇宙の法則、なんてものをも差し置いて、新一は改めてそんなことを頭に叩き込む。
 殺意ではない。憎悪でもない。
 柔らかな白の表面に浮かぶものが、そんな泥臭いものであるはずもない。
 けれども、夜の澄み渡ったそれも、昼の霞む風情でも、月はいつだって新一の脳髄を痺れるほどに冷たくするのだった。
 たとえば、こうして一つの悪意が幕を閉じた無垢な空の真下でも、お前が見逃してはならない真実はまだあるはずだろう、と。そんな意図を含めて、新一を見下ろしている。
 妄執も甚だしいと、笑われるだろうか。
 誰に、なんて聞く宛は既になく、けれどもその妄執のおかげでマッドの仲間入りをしている自分がまともな組織と共に捜査をする、なんて日々を送れているのも現実だ。でなければ、もっと早くに自分は陽のあたる場所から脱落していたに違いない。
 それぐらいに、自分というものが日常をいくらでも放棄できることを新一はとうに理解していたし、おかげでピアノの音が遠くなった今でも思い出したように普通の人間のフリができている。
 そうありたいと、思える自分を認識できる。
 今もこうして目を灼く白は、間違いなく工藤新一というものを、酸素よりも真実を渇望するようなマッドから一人の人間に戻す一助を担っていた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 深い呼吸を繰り返せば、やがて当たり前の空腹と、気怠さを纏った少しの眠気が押し寄せる。
 良い兆候だ。
 新一はそれらを煩わしく振り払うこともなく、ようやく根の張りそうな足を踏み出した。
 今日はもう、何の予定もないはずだ。
 犯人は既に逮捕されていたし、事情聴取も終わっている。聴取への協力も新一にできる分は済ませてあるし、あとは刑事らの領分となっていた。ならばもう新一が此処にいる必要はない。
 冴えた思考が行き着いて、手の中のカップを軽く潰す。
 少なくとも今はもう、此処に名探偵は必要ない。
 新一は少しずつ頭の回路を切り替えていく。先程まで動機を丹念に紐解いていた思考の代わりに、思い浮かべるのはこれからの過ごし方だ。
 自宅へ帰って、軽くなにか食べて、そういえば冷蔵庫には何が残っているのだろう。マメな同居人兼恋人のことだから、何もないなんて事はないだろうけど、足りないものがあるなら帰りに買いに行くべきか。

 ——そういや、アイツに何にも連絡してねぇな。

 ポケットから取り出した携帯を操作してメッセージアプリを起ち上げる。
 その中で、いくつか未読のままになっているメッセージの一つ、黒羽快斗からの最後の連絡は『オレも少し忙しくなる』なんて報告が二日前の日付で残されているのみだった。ついでにいえば、未読のそれに新一からの返信は当然しておらず、また、いつからいつまで忙しい、なんて快斗の明確な予定も書かれてはいない。
 そのことを不満に思うことはない。
 新一と快斗が恋人であっても、探偵と怪盗の領分は交わらない。ただそれだけのことだった。例外といえば、怪盗が招待状を贈りつけてきたときぐらいのものだろうか。

 ——シンガポールも、そういえば例外か。

 ただあれは、新一の領分に怪盗が巻き込まれたといったほうが良いだろう。だからこそ彼も無理をして新一を引きずり込んだのだろうし。そこら辺の棲み分けは、こうして新一が元の体を取り戻して、やがて恋人なんて関係が加わってからも変わらなかった。
 だから新一も、事件の収束を問うようなメッセージが送られてこないのと同じように、快斗の行方を問うことなく、また返信も大して期待せずにただ簡潔なメッセージを送るに留める。

『スーパー寄るけど、買うもんあるか?』

 返事がなければ、惣菜か何かだけ買って帰ろう。
 正直なところ、スーパーに寄ることすら面倒ではあった。できればコンビニ弁当でも、カップ麺でも、腹が膨れるなら何でも良いから適当に済ませたい程の気怠さもある。しかし、小学生から元の体に戻ってすぐ、各方面に余力があるなら少しでも人間らしい健全な生活を送れと約束させられている。
 とはいえ、事件だ何だと没頭している時にまで及ぶ約束ではないあたり、新一にそんな約束を取り付けた本人たちの生活も推して知るべしだ。
 それに、所詮はただの口約束でもある。
 既に何度か反故にしたことのある新一に罪悪感など微塵もなく、今日だってできればそうしたい気持ちは山々だった。
 けれども、新一へ事件に関して何も問わない快斗が、その代わりに『ちゃんと飯は食えよ』と、最後のメッセージより数日前に送って寄越していた一行を見てしまえば、取るべき選択肢はもう決まっていた。もちろんその見返りは、今まさに新一が送ろうとしている『なるべく寝ろよ』という一言を少しでも守らせることにある。
 何しろ新一よりもよほど優秀な恋人の脳みそは燃費も悪く、だからこそガソリンの補給を怠ることは殆どないが、代わりに一度走り始めたら休むことをしなくなる。
 このメッセージに気付く可能性は低いだろう。
 それでも、送らないよりはマシだろうし、同じような気持ちでメッセージを送っただろう彼を思えば、やはり帰り道にスーパーへ寄ることは決定事項だった。

 さて、何を食べようか。

 考えながら近くのゴミ箱へカップを捨てたところで、折よく馴染みの声が新一に掛かる。ついでに肩を叩く手に振り向けば、そこには柔らかな笑みを浮かべる高木が立っていた。

「お疲れ様、工藤くん。もう帰るよね? 送っていこうか?」

 そう言って笑う彼も、どうやら一段落ついたところらしい。色濃い疲労は隠しきれないまでも、どこかスッキリとした表情を浮かべている。
 だからこその申し出ではあるのだろう。時間が許せば、こうして新一に送迎紛いのことをしてくれるのも、今に始まったことではなかった。捜査協力を要請されている身ではあれど、所詮は部外者が口を挟んでいるに過ぎないというのに、今日もまた彼は親切心のみで新一に声をかけてくれたようだった。

「高木刑事も、お疲れ様でした。お言葉に甘えたいところなんですけど、今日は自分で帰ります。一段落ついたとはいえ、まだ事後処理もあるでしょうし」
「いやいや、それこそ気にしなくていいよ! それぐらいのことで工藤くんを一人で帰したなんて知れたら、僕のほうが叱られちゃうよ」
「そうよー、甘えてるのは私達なんだから。今日もしっかり送り届けさせてもらいます」

 佐藤さん!? と高木が振り返る先には、いつの間にか快活に笑う佐藤の姿があった。こうなれば、曖昧に躱すというのも難しいだろう。そう思い至った新一は、苦笑を浮かべながら白状する。

「いえ、ほんとに大丈夫です。お恥ずかしい話、このまま帰っても冷蔵庫の中身が不安で。スーパーでも寄ってから帰ろうとしてたところなんですよ」

 あはは、なんて乾いた笑いとともに固辞すれば、返されたのはパチパチと驚きに瞬く二対の目だった。
 その反応こそ、新一の予想したものだ。
 だからこそ困ったように眉は下がるし、苦笑はなお深くなる。
 何しろこの二人を始めとする一課の面々にしてみれば、工藤新一とはほとんど人間を捨てているように見えているはずだ。一応、外面という分厚い猫をかぶっているが、それは人当たりの良さであったり、世渡りや交渉術でしか活かされない。ならば、ひとたび事件に没頭して真相究明に突き進む新一自身の在り方など、機械的な食事や睡眠の様子を何度となく見てしまえば、工藤新一とはそういうものだ、と理解も及ぶというものだ。
 特に、気付けば随分と付き合いの長くなった彼らにしてみれば、新一とスーパーなんて単語が結びつかないのも致し方ないだろう。

「え、工藤くん、スーパー行くの?」
「まぁ、人並みに」
「人並みって……、えっと、そっか、そうよね、親御さんは海外ですもんね。今はルームシェア? っていうの? だとはいえ、そういうのは分担するものよね」
「じゃあ料理もするんだ?」
「いつもではないですけど、余裕があれば、なるべくは」
「なるほど、……じゃあ、まぁ、スーパー、行かないとよね」
「そうですね」
「そっかぁ、そうだよねぇ」

 スーパー、スーパーかぁ。
 まるで未知の単語に出会ったかのように、二人してスーパースーパーと繰り返しながら、新一の顔をまじまじと見つめている。その様子はまるで、久しぶりに会った親戚の子供が知らぬ間に大きくなっていた、なんて場面に遭遇したがごとくだ。
 というより彼らにしてみれば、どちらかというと猿が人語を話すように進化した、なんて認識の方が近い可能性すらある。
 いずれにしても、その進化、あるいは成長を喜んでくれるのもまたこの二人だ。
 だからこそ、新一の前にある顔はにっこりと笑顔に変わり、うんうん、と互いに頷きあっている。もちろん、それを気恥ずかしくも思いはするが、百パーセントの親愛でしかないのだ。新一とて悪い気はしない。

「なるほどね。そういうことなら仕方ないわ」
「仕方ないって……、あっ、佐藤さんまさか」

 なにか気づいた様子の高木が表情を僅かに引き攣らせる。その様子にこそ佐藤は笑みを深くして、新一に意味深なウインクを投げつけた。

「工藤くんを送るついでにね、ちょっとランチでもって思ってたのよ」

 内緒よ、なんて悪戯っぽく笑う佐藤に、なるほど、と新一も高木の様子に思い至って笑ってしまう。
 実際、彼女がランチに行きたいのは本当だろうし、今なら二人が抜けても問題ないのも事実だろう。けれど、それだけではない優しさも感じられて、新一は「今度は是非」と返すに留めた。
 そうして、いよいよ警視庁をあとにするかと挨拶に口を開きかけた時。
 にわかに慌ただしさを増した庁内に、新一だけでなく二人も気付く。

「なにかしら」
「さぁ……、何か事件でしょうか」

 僅かに空気がピリつくものの、それは遠く響き渡った一つのキーワードであっという間に霧散した。

 怪盗キッドの予告状。

 たった一枚のカードであるが、正真正銘、怪盗のものであるそれがまたしても二課へ届けられたそうだ。それも気付けば中森警部のデスクに置いてあった、なんて状況のせいでそちらは今や蜂の巣を突いたかのような大騒ぎ。まだ近くにいるのではと、刑事らが走り回る慌ただしさの一端が新一らの元にまで届いたらしい。

「あぁ、なるほど」

 そう口に出したのは、誰だったか。
 いずれにしても、少なくとも三人の胸中は同じ感想で、管轄外ならばと気を取り直す。
 高木は新一に予告状を見に行くかと一応尋ねてくれたのだが、それもまたこの騒ぎではややこしくなるだろうと新一は謹んで辞退した。

「興味はあるんですけどね」
「まぁ、それが無難よね」
「もし要請があれば、協力は惜しみません」
「機会があれば伝えておくよ」

 そんな会話を最後に交わして、新一はようやく一課を後にした。

 歩調は普段となんら変わりない。通い慣れた道順だ。エレベーターホールまでを迷うはずもない。けれども新一は普段と違ってエレベーターホールへはすぐに向かわず、代わりに二度ほど廊下の角を曲がって、休憩スペースへと赴いた。
 そこにあるのは自販機と長椅子が二脚のみ。
 喫煙スペースが設けられていない上に、位置的にも少し使いづらいため普段から人があまり居ない。割と穴場なのだと新一に小声で教えてくれたのは、かつて此処でコーヒーを奢ってくれた目暮だった。そんなことを思い出しながら、新一は自販機に小銭を投入する。
 選ぶのはカスタマイズのインスタントコーヒー。砂糖多め、ミルク多め、ホット、そしてOKボタン。
 コトリ、とカップの落ちる音が軽く響き、数十秒で乳白色に近いドリップコーヒーもどきが出来上がる。それを取り出して、再度、小銭を入れる。次いでの操作はシンプルだ。ホットコーヒー。なにもなし。つまりはブラックコーヒーが同じ要領で出来上がる。
 そうして揃った二つのコーヒーを持って長椅子の右端へと腰掛ければ、左端には既に先客が一人掛けていた。

「どうぞ」
「……ドーモ」

 手渡したのは甘い何かが入っている方のカップだ。
 それを受け取る男は、見たことのない顔、聞いたことのない声で応じてそれを受け取った。その横顔をいつまで見ていても詮無いことだ。
 新一は早々に観察を切り上げて、熱いコーヒーに口をつける。先程飲んでいたのはブルーマウンテンで、今度はキリマンジャロらしいが、味の差など殆ど分からなかった。とはいえ、80円のインスタントにしては美味しいのだろう。ただそんな感想を薄っぺらに思い浮かべる程度だった。
 やがて、隣でもズズ、と控えめに飲み物を啜る音が届く。
 不味いとも美味いとも男は何も言わないが、飲めるのならまぁ悪くは無いのだろう。
 そうして見知らぬ顔同士で隣り合い、まず口火を切ったのは、コーヒーにも無言にも飽きた新一だった。

「オレはどうするべきなんだろうなぁ」

 何をとも、誰にとも、明瞭さを得ない独白めいた言葉を吐き出す。けれどもそれは明確な意図を伴っていた。
 相変わらず、隣の男は甘ったるい液体を喉の奥へと流し込んでいる。
 閑散としているとはいえ、遠からは二課のざわめきが届いてやまない。

「確かに、カードがあったってんならオメーが届けたに違いない。なら、近くにまだ居るだろうって二課の推測は正しいだろうよ。当然、オレだってそう思った。けどまぁ、管轄違いだからなぁ。大人しく帰るつもりだったのに」

 足を組んで肘を付き、カップを持たない手に頬杖を付いて男を睨め付ける。

「知らねぇ刑事のナリで一課付近をうろつくとは、オレも舐められたもんだよなぁ」

 せめて制服警官にしてくれれば無視できたのに、と悪態を吐いたところで、男はやはりどこ吹く風といった様子で新一に構いはしなかった。まるであたかも、そんな顔をした刑事が現実に居るかのような振る舞いだ。ポーカーフェイスというより、ふてぶてしいだけだろうと、思わず半目になるのも仕方がない。

「なぁ、怪盗キッド」

 名指せば、ようやくのように男の口元が弧を描く。その生意気で挑発的な笑みは、まさしく月下の奇術師、その人だ。おまけに、ふん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らして笑う姿は、まさしく名探偵としての新一の神経を存分に逆撫でて、もはや間違える方が有り得ない。

「……やけに煽るじゃねぇか、この野郎。まぁいい、デカい口叩きてえなら、そのお綺麗な手を隠してからにしやがれ」

 何も、分かりやすいヒントを辿ったわけではないと、負けず嫌いが顔を出す。そうすれば、恐らくは急ごしらえの変装だったのだろう。僅かに引き攣る喉元が、この勝負の引き分けを告げていた。
 そうして勝ってはいないが負けてもいない、いつも通りの決着に幾ばくか溜飲を下げた新一は、男の思惑へと意識を向ける。
 今回、招待状は新一の元へは届いていない。そもそも、そのつもりがあるなら、あのテキストメッセージだって送ってなどこないだろう。そんなことをせずとも、カードを届ければ新一は彼の不在を理解できる。つまり、この遭遇は殆ど事故のようなものなのだろう。予定通りにカードを届けて、予定通りに庁内をウロついて、たまたま新一に行き当たったか、帰ろうとしているタイミングを察したか。そうして急ごしらえの装いで姿を見せた、というところだろうか。
 なんだ、つまりこの男は。

「そんなにオレが恋しかったかよ」

 目元を眇め、笑ってそう問いかけるものの、虚飾など彼を前に大した意味もない。何しろ口からまろび出た声が、既にバカバカしいほど甘やかなのだ。まさか自身の口からそんな声が出るだなんて、この男を知る前には思いもしなかった。
 おかげで彼もまた、余裕の笑みを浮かべていながら、その指先は常になく神経質にカップを弄っている。

「そっくりそのままお返ししますよ」

 なんて。
 口ではどうとでも言える、なんてものを体現している怪盗の有様たるや。
 半ばコーヒーが残ったままのカップをキッドが揺すり、中身がたぷんと音を立てた。その軽やかな音に、煽られた羞恥は如何ほどか。自覚するには理性が勝り、相手のそれを察するにも遠くの姦しさが目を逸らさせた。

 あぁまったく、何をしているのか。

 そう思う新一の内心を、おそらくは隣の男とて感じているだろう。本当に、何をしているのだろう。此処は警視庁で、どちらかといえば新一のテリトリーだ。そして先程まで事件だ何だと自宅にも禄に帰らず、アイデンティティの全てを注ぎ込んでいた場でもある。ならば、おいそれと彼が踏み込むことなど、これまでなら有り得ないと断言できるはずだった。
 それに、今なお響くキッド捜索の野太い声だとか走り回る音だとかを聞いていれば、まさしくこの状況こそ、怪盗の範疇に違いない。いつからいつまで、なんて簡単な予定すらも明け渡さない男の、その渦中が今であるはずだ。
 間違いなく、交わるはずのない新一と彼の、その只中で。さながら台風の目のように閑散とした空間が此処にある。
 それも、探偵と怪盗の姿をしながら、気付けばただの工藤新一と黒羽快斗の様相に成り果てているではないか。
 これを動揺なしにやり過ごせる方法があるなら教えてほしい。
 そう、誰ともなく心中で懇願するも、恋愛ベタな新一に応える神様など此処にいる筈もない。あるいは一課の誰か、または二課の誰かでも良いから、この状況を掻っ攫ってくれないかなんて考えにすら及ぶけれど、この状況を見られた上で、素知らぬ顔ができる自信もまるでなかった。
 結局、新一は心底弱りきって、眉を下げることしかできない。ついでにいえば、頬杖を付いたままの頬は、新一の意思などまるで無視して熱を上げ続けている。
 きっと彼も、こんなつもりはなかったのだろう。
 そして新一にしても、此処へ足を向けようと思った時点では、ホームズに誓って、こんな筈ではなかったのだ。

 ただ、思ったよりも新一が快斗を好きだった。
 ついでにいえば、彼もまた思う以上に新一を好いていた。

 恐らくは、互いにそんな少しばかりの想定ミスをしたせいで、こんな状況を作り上げてしまったのだろう。
 まったく、我が事ながらやってられない。
 そう思ったのは隣の男も殆ど同時だったらしい。あからさまで、普段よりも大袈裟な仕草で手元のカップを消失させたかと思えば、不自然なほどおもむろに立ち上がる。
 その様子は神出鬼没の大怪盗というよりも、まさしく悪戯好きの年若いマジシャンという方が相応しかった。
 そうして彼を見上げる格好となった新一に目を向けることもなく、ただ一言。

「卵と牛乳、切れてっから」

 ただそれだけを告げて、瞬きの後には姿を消していた。
 おかげで残された新一はといえば、唖然と何もない空間を見つめ、は? と間抜けな声を吐き出すことしかでないでいる。
 ちょっと待て、なんて引き止める術もなく。そういや、快斗の声だったな、なんて未だ探偵の抜けきらない頭で思い至ってしまう。そんな、図らずも認識してしまった彼の余裕のなさなんてもののせいで、またしても羞恥に悶えるのだから、勘弁してくれと顔を覆うしかなかった。

「あー……、もう、」

 掻き集めた理性で極限まで声を潜めて悪態を吐き出し、残るコーヒーを一気に呷る。その苦味を飲み干せば、いつしか完全に回路の切り替わった思考を自覚した。
 
 ——卵と牛乳、な。

 スーパーで買うべきものを脳裏に浮かべ、ついに堪えきれずに笑ってしまう。メッセージを読む暇がどこにあったのかとか、読んだからにはちゃんと寝ろよとか、そもそもメッセージで返せよとか、思うところは色々あるが、それよりも会いたいと思われた事実に胸が疼く。

 ——だって、オレもだ。

 スイッチを切り替えながらでしか不器用に立ち回れない自分を自覚している。人間らしく、探偵らしく、その中間なんてものはは殆ど無い。
 そう思って、信じ込んでいたのに。

 ——……そうか、あれもまた、月か。

 人間と探偵の狭間で、その両端のいずれにも新一を導いてみせる月下の奇術師、あるいは黒羽快斗という男。振り回されるのは性に合わないものの、共にそうあるなら甘んじても良いかもなんて、そんなことすら思えるほどには、新一は彼に恋をしていた。
 それに何より、信頼がある。
 きっと喉元を明け渡しても、降り注ぐのはキスぐらいのものだろうなんて、蕩けきって甘ったれた信頼が。
 そんな己の思考に思わずまた喉奥から笑いが零れ出る。まったくバカバカしいほどに楽しくて仕方がない。怪盗としても、黒羽快斗としても、もはや手放せるはずも無いほどに新一は彼との有り様を、恐らくは愛していた。
 空になったカップへ目を向け、また先程と同じく潰そうとして、それに気付く。たった一単語、ほんの六文字で、ほらまた、新一は彼に夢中だ。

 オムライス!

 一体いつの間に書いたのか。そりゃあ、卵と牛乳がいるだろうよ。しばらく家を空けるんじゃなかったのか。またすぐに会えるのが嬉しい。
 思い浮かぶ言葉は止まらない。
 それを溢れ出るままに好きにさせ、新一はその優秀な脳みその容量をすべて黒羽快斗へと惜しみなく捧げる。
 卵はうまく巻けるだろうか。まぁ破れたって構いやしない、どうせ食べるのは新一か彼だ。そういえばチキンライスの作り方ってどうだっけ。帰りながらレシピをおさらいしておかないと。
 つらつらと思い浮かぶ羅列に押され、疲れも吹き飛ぶようだった。昼食を取った後には仮眠でもするか、溜まった本でも消化するかと思っていたが、どうやら予定は立ちそうにない。
 オムライスには間に合うだろうが、一体どれぐらい家に居られるのだろうか。
 分からないけれど、できれば許す時間はすべて共に居たいと思う。

「帰るか」

 敢えて、そう口に出してから立ち上がり、オムライス! の一言を写真に収めてからカップをゴミ箱へと放り込む。ついでにと携帯で時刻を確認すれば、11時半を過ぎた頃。警視庁を出て、スーパーへ寄って、それから料理に手を付けてもギリギリ昼時という時間帯にはオムライスにもありつけるだろう。基本的に不規則不摂生を地で行く新一にしてみれば上々だ。
 それに何より、向かいにはきっと彼が居る。
 なるほど、お膳立ては十分過ぎるほどだった。
 今度こそエレベーターホールへ向かう新一の足取りは軽い。そして思わずといった風に歌われる調子外れな鼻歌は、誰も居ない廊下を、これ以上なくご機嫌に跳ね回っていた。